10 つき合いはじめ
「私は、あんたの手に財布が渡ったそのあとに
「ん?」
男は顔をしかめた。
「どうして、あとだと判る」
「判るんだ」
リンは鏡がどうのという説明をしないで、ただそう答えた。男は納得いかないようだったが、無意味に反発はしなかった。
「んじゃ、逃がしちまったのかな。実際にとっつかまえたのは体格のいい熟練だったが、相方が青二才でね。掏摸のガキなんてのは、すばしこいもんだし」
町憲兵隊も落ちたもんだな、と男は嘆息した。
「子供が逃げたんだとしても」
リンは更に続けた。
「あんたが財布を手にしてからここにやってくるまで、時間がかかっているな」
「俺だって暇人じゃないんだ」
男は顔をしかめた。
「やらなきゃならん仕事があった。このあと、大事な恋人と
他に仕事を見つけられたらしい。クレスは何となく、よかったなと思った。
「ふうん」
だがリンは男が仕事を探していたなど知らないし、知っていても別に「よかったな」とは続けなかっただろう。ただ、じろじろと男を見た。
「ラウン、ね」
「何だ。俺には恋人なんかいないだろうって言うのか」
「そんなことは言っていないが。逢い引きの前にしちゃ、あまり洒落っ気がないなと思っただけだ」
「つき合いはじめたばかりなら、俺も多少は頑張るがな。いまさら気張っても笑われるような仲なんだよ。だいたい、洒落られるほど金もない。……余計なことを言わせないでくれ」
勝手に余計なことを言っておいて、男は嘆息した。
「他にご質問は?」
「私の方は、もうない」
「俺はもともと、ないよ」
「なら、終わりだな」
男は両手を拡げた。
「それじゃ」
と立ち上がったのは、リンであった。
「私は行く」
「え?……ああ」
リンの目的は適ったのだ。いつまでも、クレスと顔をつき合わせている必要はないだろう。
「あ、リン。これ」
右手に握ったままだった小銭を差し出せば、リンは首を振った。
「貸すと言わないとお前が受け取りそうになかったから、そう言っただけだ。返してもらうつもりはない」
「は?……何言ってんだよ。俺だって、受け取る謂われなんかない」
「そうでもない。私はお前の時間を浪費させた。だから、それはその代価だと思ってくれればいい」
「そんな話、聞いたことないぞ」
困惑しながらクレスは言った。
「それなら覚えておけ。〈損得の勘定〉だ。何かを差し出すときは、何かを受け取るものだ」
とうとうとリンは続けた。
「必ずしも金でなくてもいい。無料奉仕で好感を買えることもある。今後に繋がるのなら、それもよし。だが利用はされないよう気をつけろ。出したもの以上を得られれば理想だが、そう巧くいかないとしても、何も得ないことだけはするな。それが商売の基本」
「俺は別に、商売をやる気なんかないし」
クレスは右手を差し出したままで顔をしかめる。
「時間を売った覚えもないよ。俺はあんたに興味を持ってついていったんだから、時間を浪費したなんて思ってない」
「私に興味を?」
リンは面白そうな顔をした。
「そうは思えないけれどね」
「何でだよ。正直、変な奴だなとは思うけど、面白いと思ってるのに」
「成程」
若者は肩をすくめる。
「それじゃ、私に明日もつき合うか?」
「明日?」
財布の件には片がついた。では、明日とは何だろう。
「私は、
「トランタリア」
話には聞いたことがある。歌い手や踊り子、変わった見せ物。
だが、実際に見たことはなかった。あの連中が、彼にそんな娯楽を許すはずもなかったのだ。
「行ってみたい」
素直に言えば、リンはうなずいた。
「今日くらいの時間には空くんだな? 迎えにくる」
そうとだけ言うと、リンはそのまま踵を返してしまった。
「あ、おい、リン!」
金はクレスの手に残されたままだ。受け取らない気でいる――というのが判った。
(でも、もらう理由なんかないし)
(――明日、無理矢理にでも返すか)
嘆息してリンの後ろ姿を見送った少年は、男がにやにやと見ていることに気づいた。
「何だよ。いつまでいるんだよ。ラウンなんだろ」
「まあな。でも、こういうのを見ているのも面白いもんだと思って」
「何がだよ」
クレスは仕方なく、銀貨を一旦しまいこみながら片眉を上げた。
「『お前に興味があるんだ』。なかなか直接的な、恋心の告白だよな」
「はっ?……あんた、何言ってんだ」
「何って、そういう話だろう?」
男はにやついたままだ。クレスは呆れる。
「あのなあ。俺をからかってんのか? 何で、恋心なんか持たなきゃならないんだ」
「何でって」
男は声を出して笑った。
「少年少女が互いに興味を持ち合うのが、恋じゃなければ何なんだ?」
「……はっ?」
クレスは目をしばたたいた。
「何……言ってんの?」
「一風変わってるが、ずいぶん頭のいい子だな、彼女は。気があるなら、巧いことやらないと、捕まえられないぞ」
「――彼女……彼女?」
まだ、クレスには判らなかった。
「誰が?」
「誰がって、お前」
男はぽかんとした。
「まさか、あの子を男だと思ってたのか? そりゃ、化粧っ気はないし、身体は細いし、服も男物だし、色気もなさそうだがな、声聞けば一発だろ」
「……声」
「……あのな。まさか、あの年齢になっても声変わりしてない男がいると思うのか?」
「声変わりって……何」
不親切な一団の中で育った少年は、何年か前に声をいがらっぽくさせたとき、
男は呆れて、それから笑って、あの子よりお前の方が変わってるよ、と言った。
「……女。リンが」
少年は「女性」というものに縁のない暮らしを送ってきた。
クレスのいた隊商には、「母」はもとより、女性もいなかった。連中がたまに引き込むのは、肌を露わにした胸も豊満な春女たちばかりで、女と言えばそういうものだと思っていた。その他には、街の市場で行き会う、威勢のよい太めのおばちゃん。それから、ウィンディアのような娘らしい少女。
彼の知識によれば、派手だったりふくよかだったりよく笑ったりするのが「女」という何か彼らと違うモノで、それ以外は――それ以外だった。
何とも偏狭な育ち方をした彼の観念では、リンは「男」というより、「それ以外」だったのである。
(女)
(それなら)
(『お坊ちゃん』じゃないのは……当然だ)
少年は、どこか的外れなことを考えた。
「お前、ラウンに誘われたんだぞ」
男はやはり、にやにやとしていた。
「つき合いはじめだな。気合い入れろよ」
からかうような台詞が耳を流れたが、クレスはただ、呆然としていた。
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