第3話 コウくんのうわごと

  三度、夜が来た。

 僕の体調は随分と快復してきた。

 夜に魘されるようなこともなく、明日には復帰できそうだ。快復祝いは盛大にしたいところだなと心を踊らせる。

 気怠さも悪寒もないため、今日は熟睡できそうだ。

 そう思いつつも、僕は眠気よりも好奇心が優っていた。

 おそらくまた、あの奇怪なうわごとは起きる。

 僕は確信があって、周りから寝息が聞こえたのを見計らって移動を開始した。

 足音を忍ばせて向かうのはパパとママの寝ている仏間──じゃない。

 うわごとがパパ、ママ、と順をおっている。なら次はコウくんじゃないかと白羽の矢を立てたのだ。僕はコウくんが眠る子供部屋のある方向に這い寄るとピタリと右耳を当てた。

 

 深更深い午前一時過ぎ、草木も眠る丑三つ時に、彼の可愛い寝息がきこえる。

 ただ規則正しい寝息が、時折、途切れることがあった。

 すう、と息を吸って、そのまま指折り数えて八秒後、ふう、と呼気をはく。

 睡眠時、頻繁に十秒ほど呼吸が止まる睡眠時無呼吸性症候群という病名を聞いたことがあるが、コウくんの寝息はまさにその無呼吸状態に近づいている。但しコウくんがその罹患者である確率はかなり低い。大雑把な知識で語るなら、この疾病に罹患する人間は主に生活習慣に問題があり、首回りの贅肉が気道を押し潰すことで器官を閉塞するために起きる。勿論、ベロの肥大や骨格的になりやすい人、あるいは睡眠中枢の問題など要因は様々だが、その可能性を吟味するよりも、この家で起きる怪奇現象に理由を求めた方が──かなりおかしいことを言っている自覚はあるけど──合理的な発想だろう。


 つまりコウくんの口を借りて、ふたたび呪詛じみたうわごとが吐かれるのではないか。


 そのうわごとの主を、パパとママはお婆ちゃんだと推測していた。

 二週間前に、よくないことが起きる。そう予言して亡くなったお婆ちゃん。

 彼女が死後、寝ている家族の口を借りて呟く嘆願や怨嗟にどういう意図があるのか。僕はこの世にも奇妙な現象に、恐怖以上の関心が膨れあがって抑えきれない。日中もそれに思考を支配されて、朝から一切食事を取れていないほどだ。

 だから僕は嬉嬉として僕と子供部屋を仕切る一枚の厚い板に耳をはりつけて、お婆ちゃんのうわごとを待ちわびていた。

 今夜は何を吐くのだろう。

 怨嗟か懇願か、あるいは支離滅裂な獣のような叫びだろうか。

 そして、待ちに待ったうわごとは、僕の推理通り、コウくんの口から洩れ始めた。


 おねがいします。もう止めて下さい。


 来た。

 僕は跳び上がりそうな足を必死に押し留めて、子供の口から聞こえる筈のない、嗄れた老婆の声に傾聴する。


   なぜそんなことをするのですか。

   あなたに少しばかりの良心はないのですか。


 声は誰かにむけて、憐れなほど懇願していた。

 僕は益々気になった。もしもパパやママの解釈が正しく、これがコウくんの口をかりたお婆ちゃんの懇願なら、お婆ちゃんは誰かに対して酷く怯えているのだ。それは誰に。夜な夜な、丑三つ時に嘆願し、怨嗟し、懇願する相手とは?

 

   この子はまだ幼いんです。おねがいします。やめてください。

   後生ですから、後生ですから。

 

 まるでお婆ちゃんがコウくんを抱きかかえて、目の前に居る殺人鬼に懇願するような光景が、ありありと浮かんでくる。

 だがその鮮明な情景は、突如としてコウくんの部屋に駆けつけてきた二人の足音で掻き消えてしまった。


「コウ!」

「コウちゃん!」

 パパとママだ。おそらく二人も僕と同じ予測を立てていたのだろう。だからお互い示し合わせたように眠らず、布団のなかで時を待っていたのかも知れない。

 そして案の定、コウくんがうわごとを言い始めたのを聞き取って、すぐに駆けつけてきたのだ。

 パパは寝ているコウくんに駆けよって、箒で掃くような衣擦れの音が聞こえるほど大きく揺さぶっている。

「おい、コウ、コウ。起きなさい、コウ」

 だがコウくんが目覚めることはなく、老婆の懇願はつづく。


   おねがいします。殺さないでください。

   おねがいします。殺さないでください。

   おねがいします。殺さないでください。


 コウくんの口は、壊れたカセットテープのように繰り返す。

「お義母さん、もう止めて下さい。もう止めて下さい!」

 ママがヒステリックな叫びをあげても尚、老婆は叫ぶ。

 殺すな。殺すな、と。

 お願いします。お願いします、と。

 少年の喉をかりて、念仏を唱えるように何度も何度も。

 莫迦の一つ覚えのように。

 そして老婆の懇願は夜が明けるまで、ずっと続いた。

 

 

 翌朝、仏壇のお鈴は鳴らなかった。

 線香の匂いもしない。食欲をくすぐる朝食の匂いも一切ない。

 目覚めてすぐ聞こえた音と言えば、ガサガサと、大きなビニール袋に乱雑にゴミを突っ込んでいる音だった。音は仏間からして、袋の封を結び、それを重そうに玄関まで運んでいる。多分両手に二袋持っているだろう。

 玄関戸をひらき、外へ出て行く。

 ゴミ置き場に持っていくのだ。僕はそのゴミ袋を満たした物に当たりをつけていた。おそらくお婆ちゃんが生前買い集めた御札や数珠、印で満たされた御朱印などを悉く捨てるつもりなのだろう。


 それから数分も経たず戻ってきて、リビングで重い溜め息をついた。

 パパの嘆息だった。

「捨ててきたよ」

「そう」

 僕は始めてママがリビングに居ることに気づいた。どうやら音も立てず、息を潜めるようにリビング居たらしい。

「今日は年休をとって休む」

「・・・・・・うん。そうね」

 二人が憔悴しているのが声で分かる。うわごとは、ここ三回の内、一番長く延々と続いた。僕が睡魔に耐えられず寝てしまうまで、ずっと何かに対する懇願は続いていた。途中、何度かコウくんを通して二人はお婆ちゃんに語りかけたが、うわごとは止まらず、耳にこびりつくほどだ。──殺さないでくれ。殺さないでくれ、と。

 身内の声で何度となく繰り返され、二人はノイローゼになっていた。それでも体験した怪奇現象にむけて何かとアクションを起こそうという気概はわずかばかりに残っていたらしい。だから御神物や縁起物など、お婆ちゃんが蒐集していたものは一切捨て去る行為にでたのだろう。僕はそれが、一切真相を語らずに、永遠と家族の口を借りてうわごとを呟くお婆ちゃんへの当てつけのように見えた。


「ようやく寝たか」

「うん。ソファーでぐっすり」

 どうやらコウくんも居間のソファーで寝ているらしい。

「これからどうなるのかしら」

 ママがぽつりという。

「大丈夫。・・・・・・大丈夫だ」

 パパの声は心もとない。ママを安心させるというより自分に言い聞かせている。

「・・・・・・う、うう」

 遠く、コウくんがうめいた。途端、ガタン、と椅子が強く引かれた。

 もはや見なくても分かる。二人の目は怯えに染まっている。

 けれどコウくんのうわごとは、とくに声色が変わる訳でもなく、寝返りをうつときにもれる何変哲もない寝言の切れ端だった。

 二人は椅子を引きなおし、重い腰を下ろす。


「もう少ししたら、住職さんに相談してみるよ」

「なにを?」

「なにをって。それは、その」

 パパは言葉を濁す。まだ言葉として明言するには信じがたく、発言するには戸惑いを覚えるのだろう。数日前に亡くなった母親が家族の口を借りて、奇怪なうわごとをあげているという不可思議な現象を、僧侶に相談してみるなど。

 ズズズ、と椅子が引かれた。

「どうした?」

 パパは不安な声をあげる。どうやらママが立ち上がったのだ。

 どこか所在なさげなパパに、ママは力なくいう。

「朝食。ずいぶん遅くなったけど」

 そういって台所にたった。



 それから日が暮れるまで、僕は考えてみた。

 連日のうわごとは何を伝えているのか。

 うわごとの主は、何に嘆願し、怨嗟し、懇願していたのか。

 延々と考え、思索をつづけ、思考の限りを尽くした。

 だけれど、生まれたのは小説で書かれる名探偵のような聡明な閃きではなくて、ただただ混沌とした悩乱の時間だった。それは疲労した筋肉が貯める乳酸のような、ヒリヒリとした苛立ちを脳に貯めるだけに留まった。


 昔から他人について考えるのはあまり得意じゃない。

 あれこれ思案してみるけれど、結局は明確な答えに辿り着けない。不出来な謎かけを解かされている気分だ。あるいは法律の条文を読んでいるような気持ちといえばいいか。

 日本語で書かれていながら、読んでもいまいち理解に及ばない。難解な言い回しや他人の理解を拒絶するような文言、そもそも前提として知り得ていなければならない知識などが多く、僕は眩暈すら起こす。

 

 そもそも僕は〝ちぐはぐ〟に極めて強い不快感を覚えてしまうタイプなんだ。

 本棚に並んだ書籍がナンバリングされていないと背筋が粟立つし、机の上に全てのピースがはめられていないパズルが置いてあれば、すべての作業を擲って、それに没頭してしまう。──昔からそうだ。というより昔、そうなった。

 

 小さい頃、とても好きだった知育パズルがあった。矩形の枠に台形や二等辺四角形などの様々な形の木のブロックが詰まっていて、ブロックを取り出すと枠の底面に影絵で様々な模様が描かれている。その形をブロックで作るものだ。

 リビングのテーブルに広げて、ああでもない、こうでもないと思案するのが好きだった。考えてみれば、それが親に買ってもらった初めての玩具だったからかもしれない。とても愛着があって暇さえあればパズルに挑戦していた。


 ある日のことだ。

 僕はある難問に取り掛かっていた。底面の影絵は六芒星の形を示し、察しの悪いと言われ続けていた僕が数週間かけて答えの端緒を掴もうとしてた。いつもなら夕食前に片付けていたが、その時ばかりは閃きかけた朧げな答えの輪郭を崩したくなくて、そのまま放置していた。

 そして夕食になったとき、リビングに広げられたパズルをみた父は箸をひとつだけ握り込むと、それを僕の右手の甲に突き刺した。僕はショックと混乱で痛みを叫ぶよりも父を見上げた。すると凄まじい罵声を浴びせられた。あまり内容は覚えていない。ただ父の機嫌を損ねたことだけは理解出来た。

 それから僕が片付けが出来ないとあれば殴り、本を机の上に積んでいるだけで蹴りつけた。おおよそ何度か暴力を受けて、察しの悪い僕でも父の心境が分かった。


 口実が欲しかったのだ。

 殴り、蹴り、怒鳴りつけるための建前といってもいい。多分それは他人に対する言い訳というより、自分の中で折り合いをつけるためだった。

 物心ついたときから、父は一切僕に声を掛けなかったし、母も気づけば僕を居ないものとして扱った。そんな不愉快な僕が両親から認識されるのは、いつだって暴力を振るえる口実を見つけたときで、僕を殴る口実がなければ、むしろ執拗に探していたほどだ。


 多分、いやだからこそ、僕は〝ちぐはぐ〟なものに対して執着するようになってしまった。〝ちぐはぐ〟なもの──暴力の口実を無くしてしまえば、父は僕の粗を探すようになる。間接的に僕に執着する。僕をみる。認識するのだ。


 その〝ちぐはぐ〟の意識が家族の枠を超えて、僕という人間を束縛するようになったのがいつ頃だっただろう。気づけば、僕は〝ちぐはぐ〟だと思ったものに強迫観念を覚えるまでに到っていたし、それが何に対して適用され、また適用されないのか、明確に区別はなかったが、ルールが適用されたものは、きちんと整理されないと駄目だった。

 もう全身に無数の蟻が這い回る不快感が襲ってくる。

 そうなると〝ちぐはぐ〟を解き直すか、そもそも〝ちぐはぐ〟なものを全てなかったことにするしなかい。パズルの欠けた画の、その一ピースがないなら、手で思いっきり払って、それを踏みつけ、すべてを捨て去るしなない。

 でなければ、僕はずっと怖気のはしる蟻走感に苛まれて、狂ってしまう。


 そして今も〝ちぐはぐ〟のルールが適用されつつある。

 この連夜にかけて起きた、うわごとの意図。

 死人の懇願のワケ。

 蟻走感はすぐそこまで来ていた。だけれど夕方になって、はたと気づいたんだ。

 多分、まだピースが足りないんだって。

 だってこの家に居るのは、パパとママとコウくんと僕だ。

 つまり今夜は僕がうわごとをいう晩だと思う。

 ちょうどうつらうつらしてきた。だから携帯を録音モードにして眠ろうと思う。

 このよく分からない現象がなんなのか。

 〝ちぐはぐ〟が解けることを祈りながら。

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