第2話 ママのうわごと
体調が思わしくないとき、苦しく感じるのは不思議と夜だ。
ホルモンバランスの影響とか日中に分泌されているアドレナリンの低下とか。
あるいは深閑とした夜の静けさが、身体の意識を外から内へと向かわせるのか。
小難しい理屈は分からないけど、往々にして夜になると体調は悪化する。
重苦しい微熱は昨晩より良くなったが、万全というには程遠いようで、気づけば再び寝苦しさで目を覚ました。
近くに投げ出している腕時計をたぐり寄せる。蛍光物質でつくられた文字盤や時針が、明かりのない暗闇にぼんやりと時間を表示する。
午前一時。丑三つ時。
僕は若しかしたらと思って、耳を澄ませた。
若しかしたら、僕は寝苦しさで起きた訳じゃないのではないかと。
残念ながら、いや喜ばしいことにだろうか。
どちらとも言えないけれど、やはり切れ切れのうめきが聞こえてきた。
例に漏れず、仏間から。
僕は昨晩と同じようにゆっくり立ち上がり、気配をけして仏間のほうに近づく。昨日と同じように目を眇めて、仏間の様子を覗き見た。
仏間は昨日と同じように、これといって特筆する様子はない。
仏壇があり、納戸があり、二組の布団が敷いてある。
僕はふたたびパパを注視する。数分間、じっと観察していた。だけど仰向けで寝ている様子に変わったところはない。うっすらと口をあけて、胸元にかけられた掛け布団が規則正しく上下している。
首を傾げていると、ふっと息が止まった。
僕は前のめりになって覗き込んだが、パパから洩れたのはいびきだった。
ぐががががが。
鼻の奥を震わせるような音は小さな掘削機のようだ。ママが文句をいうのも頷ける。むしろこれを我慢できるママは一廉の者である。
そんな関心をよそに、パパのいびきは轟々と仏間にひびく。
ぐがが、ががががが。
ひとつの板で隔てられているとはいえ、今夜僕は寝られるだろうか。
そんなことを考えていたから、パパのいびきにまぎれた声に、すぐに反応できなかった。ぐがが、ががが、ががが、と断続的に鳴り響くいびきの間、その間隙を狙うように、耳慣れない声が混じっていることに。
僕は遅まきながら、注目すべき相手が違うことに気づいた。
大いびきをかいているパパの隣、身動ぎもしないママだ。ついさっきまで枕の向こうに髪を投げ出して、仰向けで寝ていたはずなのに、寝返りを打ったかと思えば、そのままうつ伏せになって手脚を縮めていた。まるで身を守る亀のような態勢で、枕に顔を押しつけている。
そこでくぐもった声を上げている。
僕はパパのいびきに耐えかねたのかとも思った。だけど枕に口を押し当てていることを差し引いてもなお不気味な声が、痙攣したように肩をヒクつかせながら、途切れと途切れに洩れていた。
────、────。────、──。
なにか言ってる。
ママは強く顔を枕に押しつけていた。切れ切れの声も合わさって、見方によれば上から馬乗り首を絞められている姿を彷彿とさせる。
ママはいまにも窒息しそうなほどもがきはじめた。布団は羽ばたくような音をたて、うめきは一段と大きくなる。
「・・・・・・ん、・・・・・・ぅん? ──おいっ!?」
幸運だったのは、もがき苦しんでいたママの様子にパパが気づけたことだ。
パパは弾かれたように立ち上がると、うずくまるママの肩を揺する。
「どうした。なにが、えっ。どうした」
戸惑いを口にしながら、ただ子供のようにママを揺さぶる。救急に連絡するなど方法はあるだろうが、起き抜けに家族の異変をみたのなら混乱するのも無理はない。
それでも僅かばかり覚醒したパパの思考は、まず枕に顔を押しつけるママの、その異常に細く、喘鳴めいた呼吸に意識が向いた。
パパは肩をつかんで顔を起こす。気道を確保するのが先決だと思ったのだろう。
ママはそれに抵抗しなかった。
けれど、髪の乱れたママの顔貌を見た途端、パパは短い悲鳴をあげた。
ぎりぎりぎり、と。
僕の位置からは見えないけど、物凄い力で歯ぎしりしているのが分かる。奥歯を噛み砕くような力をこめて、歯列でぎりぎりと音を鳴らす。おそらくママの顔は口端を横に引き絞り、歯茎を剥き出しにした凄絶な形相に違いない。
そして般若のような面貌で、唖然とするパパに吼える。
みるなああぁ。みるなあああ
声は昨晩と同じだった。
老婆の怒りと狂騒が綯い交ぜになった、奇怪なうめきがママの口から洩れる。
きえなさい。きえろおお。ばけものおおお。
パパは茫然とするしか出来なかった。
目の前で妻が異常な状態で怨嗟を吐く。その声はあまりにも妻とは似つかわしく、訴えかける声は鬼気迫るような悍ましさがある。
僕でさえ怖気が走り、すぐにでもママを突き飛ばしていただろう。
そう思った途端、おやっと僕は眉を顰めた。
パパは悪魔憑きのように喚くママを前にして、失神したように動かない。怨嗟を叫ぶママの肩に手を掛けたまま、ずっとママを眺めている。怯えている人間は悲鳴をあげて錯乱する。声を上げずとも息が詰まったようなひきつけを起こすのが常だけど、パパの時間が止まったように押し黙ることは見たこともない。
「・・・・・・え、なんで」
僕の困惑を代弁したのも、またパパだった。
妻の異変に対して、彼は恐怖や驚きよりも困惑と動揺が先立っていた。
しかも混乱は理解の及ばないものに対してじゃない。知識として得ている情報との齟齬に戸惑っている。まるでそんな反応なのだ。
どれくらいそうしていただろう。
ママの狂乱は少しずつ鳴りを潜めて、虚脱したように肩を下ろしていた。
「おい。大丈夫か、おい」
パパは改めて肩を揺する。すると、ママは「んん」とうめき、そして身体に軸を取り戻したようにすっと生気がもどった。
「・・・・・・え、あ。・・・・・・あなた?」
「うん。オレだよ。大丈夫かい」
パパは乱れた前髪を払う。ママは為すがまま受け入れた。
「わたし、その・・・・・・、なにか言ってた?」
パパはとても驚いただろう。ママは自分からうわごとについて尋ねたのだから。
どう答えていいものか考えあぐねていると、ママがぽつりと呟いた。
「悪夢、なのかしら? 夢をね、見ていたの」
「夢?」
「うん。河川敷みたいなところ。水の音は聞こえるけど、川はなくて、砂利よりちょっと大きい、なんていうか子供が水切りで遊ぶような大きさの石がね、ずっと広がっている川縁なのよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「誰も居なくてね、しかも途中から霧が出てきて、わたし、恐くなって。そしたらね、遠くにひとり、人影が見えたの。わたしは呼び掛けたんだけど、全然反応してくれなくて。変だなあと思いながら近づいたらね、そこに立ってたの」
そこでママは少し空白を置いた。まるでパパから話を差し向けられるのを待っているかのように。でもパパは、誰が? と訊かなかった。
まるでその人物を承知しているかのように。
「お義母さんが、凄い形相で睨んでいたの」
ママはぽつりと漏らして、パパの肩越しから仏壇をみた。
そこに映る、どこか厳しそうな面持ちの遺影を見つめる。
彼女が亡くなったのは四日前の夜。
このアパートでささやかな告別式が催された、二日前のことだった。
チィン────。
蕭然としたお鈴の音色で目が覚めた。
僕はあれからいつ寝たのか。さして覚えていないけれど、多分、あのあと二人が仏壇の前で頻りに手を合わせていたのを見た後だったと思う。
どうやらまた仏壇の前で誰かがずっと拝んでいるらしい。仏壇のお茶とお水を替えるのはパパの朝の日課と聞いたから、十中八九、パパだろう。
ずっと自分の母親に手を合わせている。
どんな気持ちだろうか。僕は少しばかり予想してみたけど、すぐに飽きてしまった。以前中学校で実施されたパーソナルチェックテストがあった。個々の特性を示すマーク形式のテストで、返ってきたチェック項目の内、独創性は星三つだったけど協調性、社会性ともに星一つだったから、どうやら人の心を推し量るのは苦手らしい。
パパはようやく仏間から立ち上がり、いつものようにリビングに向かった。
僕も固まった節々を伸ばしたあと、パパに続く。
ママはあんなことがあったというのに、いつものように朝食をつくり配膳していた。匂いで分かる。今日は和食らしい。炊飯器から炊き上がったお米と湯気だつ味噌汁の香りが鼻腔をくすぐった。
僕は口にたまっていく唾液を抑えきれないほど食欲が湧いてきたけど、どうやらパパとママはそうでもないらしい。箸が食材をかきわける音は聞こえても、話し声は一言として聞こえず、テレビの音声だけが虚しく流れている。
こんなとき口火を切るのはママだろう。
そして予想は的中した。
「あなた覚えてる? お義母さんが亡くなる二週間ぐらい前のこと」
「・・・・・・あれが関係あるとでも」
コトと箸を置く音がして、パパは苦々しくいう。
「だけど、あのとき母さんはもう認知症を患ってただろう」
「そうだけど。でもなんていうか、あのときからちょっと様子が変だったじゃない?」
僕は口を挟まず、ただじっと耳を傾けた。
「多分、自分の死が近いって悟ったんだよ。虫の知らせっていうのかな。母さん、なんていうか元から信心深い人だったから」
「そうだけど・・・・・・」
ママにも思い当たる節はあるらしい。だけど不安を払拭するには到らず、ママは改めてお婆ちゃんの奇行について話し始めた。
「でもやっぱり変よ。信心深いっていっても、盆の仕来りや正月の歳神さまの祭事とか、そういう昔ながらの慣習に詳しいだけで、あんな風にどこぞと知れない神社の御札や数珠を買い占めたり、急に京都に行ったと思ったら、なんとか寺っていう名刹に二百万も寄付しだしたり。亡くなったばかりのお義母さんにこういうことをいうのは良くないって分かるけど、それでもやっぱりどこかおかしかったじゃない」
「だから、それは認知症で」
「違うわ」
「いや、そうはいうけどさ」
「違うの。そうじゃないの。そうじゃなかったの」
ようやくパパもお互いの話がすれ違っていることに気づいたのだろう。
ママが言及しているのは、お婆ちゃんが死ぬ二週間前から行っていた寺社への異常な散財ではないことに。たしかにお婆ちゃんの奇行は強い信仰心に囚われたような振る舞いに思える。それが認知症の影響だとパパはいうが、ママには別の影響があったと思っている。それは漠然とした不安による否定じゃなく、どこか確信めいたものを匂わせていた。
「ねえ、覚えてる? わたしの働いている保育園で、雲梯の上から子供が落ちて額を四針縫ったって話したじゃない」
「ああ、慥かオレが学年の先生と一同で飲み会に行ってた日か」
パパは記憶を探り、相槌を打つ。
「あの日、わたしも病院の付き添いですぐに帰れなくて、お義母さんにコウのことをお願いしたの。コウは夕方の五時ぐらいになったら、すぐに『お腹空いた』って騒ぐでしょう? それまでに帰るのは無理だって分かりきってたから、お義母さんに料理頼んだの。そのときは普通で、余り物で夕飯つくっておくわ、って言ってて。どこもおかしいところはなかった。それで帰りが八時ぐらいになって。玄関開けて、ただいまって言ったのよ。そしたらコウが駆けつけてきたの。すごい顔で」
「どんな?」
「どうしたら分からないって、泣きすがるような表情。そして『お婆ちゃんが。お婆ちゃんが』っていうの。話の要領が掴めなかったけど、ふと義母さんの声はしないことに気づいたの。いえ、声だけじゃなくて物音ひとつしなくて。おかしいなと思ってリビングに駆けつけたら、居間でお義母さんがへたり込んでたの」
「へたり込んでた?」
始めて聞いたのだろう。パパは胡乱げに訊く。
「そう。ずっと呆けたように窓のほうを眺めてた。わたし一瞬強盗とか変質者がベランダに居るのかと思って。すぐに窓側に駆けつけて鍵をしめて。そしてゆっくりカーテンをめくってみたの」
「誰かいたのか」
「いいえ。居なかった。というより、お義母さんは窓の外を怖がってたんじゃなかったの」
「じゃあ何に」
「分からない」
ママはいう。
「でも尋常じゃない、何かよ。だってね、コウ、夕飯食べてなかったのよ?」
「・・・・・・・・・・・・ああ、そういうことか」
パパはややあって理解する。コウくんは夕方の五時ぐらいに晩ご飯をねだる。それに合わせて作るはずにも拘わらず、晩ご飯は準備すらされてなかったらしい。
つまりお婆ちゃんは、およそ三時間余り、居間で放心していたことになる。
それからしばし落ち着かない静けさが流れた。
どちらも言い淀んでいるのだ。
なにか疾病の類いが発症したのではないか。脳の血管がおかしくなったのではないか。あるいは心臓か。そんなことを言える雰囲気ではなかった。
分かっていた。耳を澄ましている僕でさえ理解した。
理由があるのだ。
それをママは知っている。そして余りに不気味で、非現実的で、口に出すのも憚られるものであるから、今の今までパパに伝えられなかったのだと。
そしていま、その形容しがたい不安の澱を吐き出す。
「よくないことが起きる」
「え?」
「あのとき、お義母さんはずっと目を見張ってベランダを、いえ虚空を見つめながら念仏のように唱えてたの。よくないことが起きる。よくないことが起きるって」
そう、亡くなる二週間ほど前、呟いたのだという。
「・・・・・・よくないことって?」
ママは力なく首を振る。
「知らないわよ。でも尋常じゃない様子だった」
それから再び沈黙の帳がおり、コウくんがやって来たところで、お婆ちゃんの奇妙なうわごとの話は幕を閉じた。コウくんは両親の微妙な雰囲気に気づいたのだろう。今日は溌剌とした声は聞こえず、物静かに押し黙っていた。賢い子である。
そんな静かな食卓に、ニュースの音声が流れ込んできた。
ニュースの内容は、ひろむ町を戦慄させている一家惨殺事件だ。
けれそ新しい情報はないらしい。以前取材した周辺住民の不安の声を再度繰り返し流していた。
『──いえ、ほんと他人に恨まれる人じゃなくって。ええ、それに自殺も考えられないと思うんですよ。ちょっと気が早いけど、今年のクリスマスの電飾かざりをどうしようかなんて話をしてたぐらいですから。
それにねえ、ほら。大きな声では言えないですけど、ずっと介護していたお爺ちゃんが数日前に亡くなられて、ようやく介護から解放されたでしょう? だからお宅で告別式あげたとき、わたし参列したんですけどね。そこまで意気消沈してなかったですよ。ええ。これからですよ。奥さんなんて介護でずっと大変になさってたから。だから自殺とかでもないと思うんですよ。ただそうですね。まさかお爺ちゃんが亡くなったあとに、まさか自分達も亡くなるなんてねえ』
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