第2話 

いつもより早めに仕事を切り上げ出先から直接、理子との待ち合わせ場所へ行った。彼女との待ち合わせはいつも決まって会社から30分ほど離れた場所にあるカフェだった。そして僕と理子はそこでコーヒーと紅茶を飲みながら他愛もない話をし当然のように都内のシティホテルへ行き週に1度の逢瀬を重ねていた。情事の後は僕は帰宅をするが彼女はそのまま部屋へ泊る。僕が屋の代金を払い彼女は週1回の自分へのご褒美、愛人料金として毎回このホテルの部屋に泊まり翌日はここから出勤しているのだ。こんなことをして…と思われるだろうが僕はこの理子との時間も少なからず愛しいと思っていた。彼女はいつもどれだけ僕が憧れの存在なのか、こんな日は一生来ないと思っていたなどと褒めちぎり僕に甘え、男としての自信を持たせてくれ癒してくれる。もちろん家庭に帰れば妻や娘の存在も癒しになっているのは事実だ。妻は食事など僕の環境にはとても気を配り僕が常に気持ちよく出勤し帰宅できる環境を完璧なまでに整えていてくれる。僕が特に忙しい時が続いたときは僕が帰宅する時間をさりげなく聞き、僕の帰宅前までに娘を寝かしつけておいてくれる。それは僕が帰ったときに娘がパパ!パパ!と興奮して僕に負担がかからないようにだ。そしてそんな晩は暖かい風呂に入りパリッと整えられたベッドで妻の香りと体温を感じながら熟睡する。そうすることで翌朝はすっきりと目覚めることができるし朝から元気な娘にも常に笑顔で接することができている。おかげで娘は機嫌の悪いパパをほとんど知らないで育っている。僕は妻のこういう気遣いには本当に感謝している反面、こういう何をやっても完璧で嫌味がない完璧が当たり前という妻に対し少し隙をみせてくれてもいいのにな、と物足りなさを感じることもあった。だからなのか、理子のように直球で甘え頼られると何とも言えない気持ちになる。例えるならば妻は最新医療で病気を完全に治し悪い部分を除去する有能な医師、そして理子は自然療法で痛みをを和やらげ癒すセラピストのようだ。その晩も僕は理子との逢瀬の後に帰宅し娘の寝顔におやすみ呟き1杯のビールと妻が用意してくれた温かく美味しい夕飯を食べいていた。「今夜は炊き込みご飯か、すごくいい匂いで食欲がそそられるな」と上機嫌な僕の目の前に座っていた妻が満足そうに頷いていた。

翌朝、僕が目を覚ますしいつもの朝の風景だった。テーブルでパンを頬張る娘、そして忙しそうに僕の食事の支度をしながら窓を開け空気の入れ替えをしている妻。その日はすでに洗濯物を干していて開いたバルコニーのドアからは柔軟剤のほんわかとした微かな香りが部屋に立ち込め清々しい朝だった。今日も一日頑張ろう、そう思いながら朝食に手を付けようとしたとき一つ、いつもの朝と違うことに気付いた。キッチンからコーヒーの香りがしていたのだ。僕は遠い昔はコーヒーを飲んでいたのだが妻は昔からコーヒーだけは一切飲まない。飲むとお腹の調子が悪くなり頭が重くなるというのだ。目を覚ますためにコーヒーを飲む人もいれば飲むと逆に調子が悪くなる人もいるんだなと当時は驚いていたが妻と出会い付き合うようになってからは彼女の影響でいつしか僕も紅茶を好むようになっていたのだ。妻のお気に入りの茶葉専門店の本店がシンガポールにあるといって結婚前に二人でシンガポールまで旅行し、その専門店でアフタヌーンハイティーというスイーツと軽食のセットと高級な紅茶を堪能しその美味しさに感動したことは今でも忘れられない。そんな妻の影響で僕は約10年コーヒーを飲んでいないのだ。それなのに家にコーヒーの香りがするのはなぜだろう?と不思議に思っていたが娘を幼稚園に送り届けた後に妻の友人やらママ友達とお茶会でもするのだろう。そんなふうに考えながら娘との朝食を楽しんでいた。すると妻が「はい、どうぞ」と言ってコーヒーを僕の目の前に置いた。僕はえ?という顔で妻を見上げた。「ここ数か月、会社から帰って来るとあなたコーヒーの匂いがしてたから。また飲み始めたのかなと思って。私もコーヒーが飲めたらいいんだけど。こんなに良い匂いなのに飲むとお腹を壊すなんてね。」と妻は笑いながら僕に言った。僕は焦った。僕が理子と待ち合わせしているカフェというのが世界各国のコーヒー豆を取り扱っているコーヒー専門店で店内にコーヒーの香りが立ち込めているのだ。人というのは自分の匂いには疎くなりがちだが人の匂いには敏感に気付くことがある。僕は週に一度、理子と待ち合わせしているときに自分がそのコーヒー店に数十分座っているので衣類や髪の毛に染み込むコーヒーの匂いにほとんど気付いていなかったのだ。しかしコーヒーを一切飲まない、買わない我が家にひとたび入ればそのコーヒーの匂いは妻にはすぐにわかったのだろう。僕はできるだけ低いトーンで「僕は相変わらずコーヒーは飲まないけど会社の奴らが飲むからな…だからスーツや髪の毛がコーヒーの匂いがするのかもな。自分では全然気付かなかったよ」と妻に言った。妻は「やだ、私てっきりあなたがコーヒーを飲みたいのに私に遠慮して家では飲んでないのかと勘違いしてたわ。でもほんのりとコーヒーの香りを感じるとお腹が満たされてダイエットに良いかも。」とニッコリと笑った。僕は妻のその笑顔を見て胸を撫でおろしいつものように会社へ向かった。電車に揺られながら僕は考えていた。妻は僕の不倫には何も気付いてはいない、それは間違いないだろう。だが今朝のようなことが今後もたびたびあっては心臓が幾つあっても持たない。これは天からの警告なのだろうか。人様に言えないようなことをしていてもそう長くは続かない、悪事はいつかは誰かの知るところとなり暴かれ罰せられる。いや、そうでもないか?浮気を繰り返したり不倫を何年にも渡り続けている人たちだっているだろう?僕はそう自分に語りかけ満員電車を後にし会社へ向かった。会社のロビーではいつものように理子が受付で道行く社員に挨拶をしている。彼女は僕に気付くと視線を送りにこりと笑いかけた。しかし今朝の僕は彼女を直視することができず咄嗟に視線を反らしてしまった。理子と視線を合わせると妻の姿が脳裏を過り何とも言えない罪悪感に襲われ、また理子を直視出来ないこの現実に申し訳なさを感じ、この一瞬の視線のやり取りに色々な思いを馳せ僕はエレベーターに乗り込んだ。

いつものように朝のミーティングを済ませ得意先へと急いでいた時だった。僕の携帯がメッセージの受信を知らせている。送信者は理子だった。「今朝はちょっと様子が変だったけど?何かあったの?」僕は迷った。何でもないよ、と返信し彼女との関係を続けるのか、それとも詳細は語らずとも彼女にこの関係を終わらせる提案をするか。僕はこの8か月の間、彼女との関係を終わらせようと考えたことは一度もなかった。だが今朝の妻のちょっとした行動で僕の心にはずっしりと重い十字架がのしかかりその偶然が天からの警告に思えて仕方がなかったのだ。今までは妻と理子を同じ測りに乗せたことは一切なかった。妻と浮気相手では立場や自分にとっての役割が違うと呑気に構えていた。要はバレなければ罪にはならないという浅はかな精神だったのだ。しかし今朝、「妻に知られたかも」という罪悪と恐怖の波に襲われ僕は初めて実沙と理子、妻と愛人、家庭と浮気を同じ測りに掛けた。そして言うまでもなく僕は実沙と娘、家庭を失いたくない、手離したくないと僕の家族のこと以外は考えられなかった。「ここが潮時か」と小さく独り言を呟き理子にメールを返信した。

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妻がキレイになった理由~ワケ 実野明子 @mino-aki

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