妻がキレイになった理由~ワケ
実野明子
第1話 僕の妻と僕の彼女
ほら、テレビにばかり向いていないで早く食べなさい!
ああ、またか。そんな独り言を呟きいつもの朝、いつもの目覚まし代わりの少々大き目な声で毎朝目を覚ます。目をしばしばさせながら寝室から洗面台へとゆっくり進み洗顔を済ましてから鏡に映る自分を見つめる、これも毎朝の習慣だ。鏡に映る自分を見つめ寝起きの顔から社会で働く男の顔になっているか確認をし、よしっ!と気持ちを整え切り替えることが背筋を伸ばしてくれる。着替えを済ませてキッチンへ行くといつもの通り5歳の娘がパンを頬張りながらテレビを観ようとしている。
僕の姿に気付いた娘がパパ!おはよう!グッドモーニング!ととびきりの笑顔で朝の挨拶をする。僕もおはよう!と娘に挨拶をしそれと同時に視線を妻に向ける。妻は朝からとても忙しそうだ、毎朝5時に起きて僕と娘のお弁当を作り娘を幼稚園に送り出す準備をする。まずは娘と共に僕を見送りその後娘が出発するまでの40分で洗濯機を回し掃除機をかけてから娘を幼稚園まで送り届ける。妻は教育ママ、ということではないが娘の教育にはとても熱心で、雑誌やブログに載っているような今どきの、ケーキやクッキーを子供と一緒に焼く、というタイプの母親ではない。どちらかというと子供と何かを一緒にすることより子供の安全や栄養、教育に対して「娘が20歳になるまではしっかりと守り育てなければならない」ということを全うしている母親だ。現に娘は私立の幼稚園に入り2つほど習い事もしている。だが休日に家族で出かけるときは娘には好きなことを好きなだけ遊ばせているし週に何度かは友達と公園で集合し洋服が汚れたり手が汚れることを気にさせず好きなだけ遊ばせている。妻は学びと遊びの2つのバランスをうまく保ち娘も楽しそうに幼稚園や習い事に通っているし、まだ5歳ではあるが娘はとてもまっすぐな良い子に育っている。正直、娘のこういった教育に関しては妻に丸投げしている感も否めず申し訳ないと思うこともあるが、それよりも妻に対してさすがだな、と思うことのほうが多く明るくまっすぐな娘を見ていると妻への感謝の気持ちがより一層強くなるものだ。いつもの朝、いつもの幸せを実感したところで僕は「行ってきます」と、仕事へ向かった。
僕は会社のビルに入り同時刻に出社してくる社員や受付の女性たちに挨拶をしながらエレベーターに乗り込み14階のオフィスへと急いだ。僕は世間一般でいうところの一流商社に勤めていて同期よりも先に課長になった。社内では出世街道に乗ったなどと言われていてまたそれを面白く思わない奴らからは巧くやったな、などと言われているらしい。けれど僕は上司のご機嫌取りをしたり腰ぎんちゃくになって課長になったわけではない。僕は入社以来、自分の仕事を迅速かつ確実に処理しただただ自分のやるべき仕事を全うしてきた結果がこれなのだと自信を持って言える。部下や上司に対しての愚痴や好き嫌いを口にしたこともなく誰にでも平等に接しチャンスを与えるという僕のやり方を好み僕の下で働きたいと自ら異動願いを出す社員もいるのだ。だから僕のチームにはとても活気があり社内でも評判のチームだ。彼らとの朝の定例ミーティングを10分ほどで終えたところで内線が入った。受付の女性からで来客の知らせだった。来客とは僕の大学の友人で現在は外資系証券会社の課長をしている皆瀬だった。僕らは週に一度はお互いの会社に行き来してはコーヒーを一杯だけ飲み仕事の話しをする間柄だ。二人とも結婚して子供もいる上に毎晩9時10時までの残業は当たり前だから仕事の後に一杯、というわけにもいかない。僕は急いでロビーにあるカフェへ入った。毎回15分ほどの時間だがお互いに仕事の近況報告をした。彼は大学時代からアメリカンフットボールをしており身体も大きく肌はほど良い小麦色で誰が見ても爽やかな素晴らしい男だ。声のトーンは低く優しく口調も穏やかだが会話には芯があり聞く人を引き付ける何かがある、僕はいつもそう思っていた。「お前のその物腰と口調、そりゃ顧客も増える一方だよな」と冗談交じりに毎回彼に言っていた。そして皆瀬は毎回僕に「実沙ちゃんは元気か」と同じことを聞いてくるのだ。それもそのはず、僕の妻と皆瀬は会社の同期で僕はこの皆瀬の紹介で妻と巡り合い2年の交際を経て結婚して今に至るのだ。皆瀬は言う、あの実沙ちゃんがまさか家庭に入るとは本当にびっくりだよ。彼女が今でも働いていたら俺よりも出世していたに違いないよな。そう言って僕を見て笑っていた。
僕の妻は彼と同じくして外資系証券会社に入社し女性ながらバリバリと働くいわゆるバリキャリというカテゴリーの女性だ。彼女に初めて出会った時の印象も「凛としていてかっこいいな」だった。自分の妻をこんな風に言うと恥ずかしいのだが、妻は見た目から頭の良さや聡明さがにじみ出ていて誰が見てもキレイだという正真正銘の美人なのだ。妻は結婚後も仕事を続けていたが2年後に娘を妊
娠し悪阻が思っていたよりも酷くこのままでは会社に迷惑をかけてしまうと退職をした。当時は彼女の上司から子供が1歳になったら戻ってきてほしいと常々ラブコールをもらっていて妻自身もそのつもりだった。が、いざ娘が生まれると育児や家事に追われてしまい仕事どころではなくなる、と言うよりは完璧主義の妻の性分故、まずは娘のことに集中したいという思いからだろう、復職の話はお断りしたのだ。
皆瀬と別れ際にがっちりと握手を交わしエレベーターホールに向かう途中、受付の女性が僕の元へやってきた。「陣内課長お疲れ様です」そういうと僕にポストイットを手渡しその場を去っていった。ポストイットには「今夜8時でしたよね?いつもの場所でお待ちしています」と文章の最後はハートマークで〆られていた。彼女の名前は武藤理子、うちの会社の受付をしている25歳の女性だ。僕らは半年前から男女の関係を続けている。そう、僕は半年前から不倫をし家族に嘘を付いているのだ。彼女と関係を結ぶきっかけになったのは僕が会社の受付カウンターに携帯を置きっぱなしにしたところからだった。携帯を見つけた理子が僕に内線をかけてきたのだ。僕はその携帯を受付まで取りに行ったのだが、エレベーターを降りたときに理子がすでにエレベーターホールの片隅で僕を待っていた。僕は、よく僕の携帯だとわかったね?と聞くと彼女はすこし恥じらいながらこう言った。「陣内課長が受付のカウンターに携帯を忘れていったのは気付いていたんです。本当ならそこで声をかけるなりしなければなんでしょうけど…これは”良い”キッカケ”が出来た、ラッキー!と思って。」そう言って理子は意味ありげに僕に微笑んだのだ。そして「携帯を忘れたことを教えた代わりにいつか私を食事に連れて行ってくれませんか?陣内課長、私の憧れなので…」と頬を薄ピンクに染め可愛らしく俯く理子に僕は何とも言えない感情を抱いてしまった。彼女は僕の妻とは性格も見た目も正反対に位置するような女性だ。妻は凛としていてかっこ良く自分の足で歩いている自立した女性、そんな印象を相手に与える女性だし現にそういう人だ。だが理子は風船のような雲のような、ふわっとしていて守ってあげたい、特に男性はそんな感情を抱かずにはいられないそんな女性であった。今思えば相手が理子じゃなかったとしても同じ手を使われていたら結局は落ちていたんだろうと思う。僕は決して妻や家庭に不満を持っている男ではない。こんなことを言うと支離滅裂だがそれは真実なのだ。僕の妻は美人だ。妻が結婚をすると周囲が知ったときは悔しがった者もいたと皆瀬から聞いていた。頭脳明晰で美人、男勝りな部分もあるが竹を割ったような性格で裏表はなく一緒に仕事も会話もしやすい、おまけにスタイルも良い。そんな彼女を射止めた男とはどこの誰だ?と彼らの社内で噂になったほどだ。そんな完璧ともいえる様な妻が家で僕の帰りを待っていてくれるというのになぜ理子と?最初の数か月はこんな自問自答を繰り返していた。そして僕なりに、浮気をしていることへの言い訳を考えた。妻は現在は専業主婦で育児と家庭のことに専念していてくれる。だが家庭の中でも彼女のその完璧に近い家事や育児の様子をみていると外資系証券会社で働いていた頃の彼女を彷彿とさせる。当時妻は僕の何倍もお給料を貰っていた。そしてその独身時代の貯蓄を結婚した時に見せられ度肝を抜かれた。僕らは話し合い、その貯蓄には出来るだけ手を付けずに将来生まれるであろう子供の学費やいざという時の資金にしようと決めていた。僕のお給料も現在では決して安くはないしむしろ高給取りの分類に入ると思う。結婚して妻が妊娠した時に娘の学校のこと、僕の通勤のことなどを考慮し都心のタワーマンションを購入した。その頭金やローンは僕の収入だけで賄っている。十分な生活費に何も不自由はないし妻も不満がありそうには全く見えない。ここで僕が言っているのはお金の問題でなく「そんな貯蓄を持つほど稼いでいた、働いていた妻」のことだ。家庭に入り6年近くが経つが妻の立ち居振る舞いを見ていると今すぐにでも職場復帰が可能だろうと思う。そして実際に現在でも彼女の同僚や上司から復職の話を年に何回かはオファーももらい続けている。そして僕は職場復帰しないという妻の意見を聞いて少し安心しているのだ。妻が社会にでたらきっと以前にも増して彼女のフィールドで活躍するだろう。妊娠出産、そして育児という経験を通じて彼女の視野はより広くなり人間としての魅力さえも増している。そうして更なる躍進をしたときに妻は僕を必要としなくなるのでは?僕はそんなことさえ考えているちっぽけな男だ。だがそんなちっぽけな男もひとたび外へ出れば仕事や社会と戦い部下からは憧れられる男、そして浮気までやってのける大きな男なのだ。浮気など胸を張って言えることではないしむしろ社会のクズだと罵られる行為だが僕はこの武藤理子との関係を持つことで自分を大きく感じることができていた。理子は僕の妻とはまったく異なるタイプであり一緒にいるときは全力で僕に甘えて頼ってくる。どんなに忙しくても一人でなんでも出来てしまう妻とは正反対なのだ。
理子と僕の初めての食事は都内のホテルだった。おいしいフカヒレを食べたいと言われたのだが僕はグルメではないしお洒落でおいしいお店などほとんど知らないと答えた。すると理子は彼女自らお店を探しておく、そう言って都内のホテルにある中華料理を指定してきた。そして食事の席で「お部屋行きません?」と無邪気な笑顔で誘われた。こんなふうにストレートに女性にベッドに誘われたのなんて人生で初めてだった。あの「竹を割ったような」妻でさえ最初は、というよりほとんど僕から誘っていたしそれは結婚して7年経ったいまでも当時のままのような気がする。
ふわっとしていて可愛らしい彼女だが自分自身の欲求には変化球を使わず直球勝負してくる彼女のそのギャップに僕は瞬時に落ちた。そしてその後は言うまでもなく男女の関係になり現在に至っているのだ。
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