第3話 死体と口づけ

 頬に涼しい風が当たって、フィレインは目を覚ました。

 何かがこびりついて固まってしまったような睫毛をどうにか押し上げて目を開けると、横になった床と、その上に大きく広がる乾ききった血だまりが見えた。

「……え?」

 鉄錆びた血臭が鼻につき、状況が分からないままに吐き気が込み上げる。重い体を両腕で支えて持ち上げると同時に、床に吐いた。しかし散ったのは、血混じりの唾ばかりだった。

(何が、あったんだっけ……)

 唇についた酸っぱいものを拭いながら記憶をさかのぼる。まず思い出したのは鳩尾みぞおちに食い込んだ冷たく熱い鋼の感触だった。ハッと手を当て、けれど何もないことにフィレインは困惑する。

 腹全体が発熱したような激痛も、失血の感覚も痺れも、鳥肌が立つほどの生々しさで覚えている。けれど腹に剣は刺さっておらず、フィレインは死んでいない。

(どういう、こと?)

 全く状況が理解できない。混乱する頭が次に思い出したのは、耳朶じだを震わせた男の低声。

『返せ』

(あれは……何だったの?)

 はち切れそうな怒りのようで、必死に堰き止めている悲しみのようでもあった。声を思い出すだけで、胸が苦しくなる。

(なぜ……?)

 疑問はけれど、同時にアナリュシスに呑まされた何かの存在を思い出して、再び強烈な吐き気に掻き消された。

「ッァ、かはッ……!」

 けれど喉を焼くような胃酸を感じても、血と唾以外は何も出てこない。けれどフィレインは確実に、『何か』を飲み込んだ。それが何だったのか、考えることすら怖くて血の気が引いた時、

「……?」

 風が、再び頬を撫ぜた。そこでやっと顔を上げて、周りの景色に目をやる。そこにあったのは、記憶の最後にあるのと同じ部屋、ではなかった。

 入口や家具は同じだが、壁の一ヶ所が大きく破壊され、その向こうの景色が――霞む月光に浮かび上がる中庭が見えた。そしてその中に点々と転がる、幾つかの人影――血まみれの死体をも。

「――ヒッ」

「起きたか」

「ッ!?」

 出し抜けに声をかけられて、フィレインはその場に飛び上がった。真っ先に頭に浮かんだのは薄ら笑いを浮かべた魔者の異貌だったが、顔を上げた目の前にいたのは、普通の人間の男だった。

 すっと通った鼻筋の上、切れ長の冷たい瞳の一つを真っ黒な――否、文字とも紋様ともつかない、白い汚れが数か所付いている――眼帯で隠した、精悍ながら不穏な印象を与える、美しい男だった。

 年の頃は二十歳前後だろうか。生贄とならずに生き残った者たちの中には、二十歳を超える者も僅かながらいる。彼らは館の中でも重要な職や長に就き、新人を教育したりもするらしく、フィレインも妹のことを聞くために訪ねたが、こんな印象的な男はいなかった気がする。

「……だ、」

 れ、と続けようとした言葉はけれど、一瞬の間に伸ばされた腕に首を掴まれ、掻き消えた。そして気付く。フィレインの意識を奪った当の男が、目の前の人物だということに。

(また殺される――!)

 息苦しさに身構え、抗うこともできず両目をきつく瞑る。だがそんなものに何の意味もなく、次には呼吸を奪われていた。生温かくしっとりとした、唇の感触と共に。

(……え……?)

 何が起きたのか分からず、ぱちくりと目を開ける。先程見た男の端正な顔が、視界にはみ出して広がっていた。

 目が合った、と思った時、熱い程の舌先が押しのけるように口腔内の皮膚を這う。

「…………ッ」

 ぞくり、と衝撃が頂点に達すると同時、別の映像が脳裏を掠めた気がして、くらりと眩暈がした。体を支えていられない、と思った頃、やっと熱っぽさを増した唇が離れる。は、と男の吐息がフィレインの唇にかかり、瞬間的に場違いな羞恥心が全身を駆け上った。

「なっ、なにす」

「傷は痛むか?」

「るの――は?」

 最初、突然襲いかかった幾つもの初めてに混乱が極まって、フィレインは何を言われたのかまるで分からなかった。

(傷? って何? お腹のこと? この男に貫かれた、あの?)

 一瞬で抜かれた毒気が、今度は明確な怒りになってフィレインを突き動かしていた。

「……よくもそんなことを抜け抜けと!」

 男の頬を目掛けて、右手を大きく振り上げる。だがそれは、フィレインよりも余程素早く動いた男によって、難なく掴まれた。

「それだけ動いて喋れれば、問題ないな」

「……ッ」

 次には冷淡に断じて、フィレインの体を捨てるように突き放す。そして四分の一近く欠けた月を背に立ち上がると、用は済んだとばかりに歩き出した。

「待っ……待ちなさい!」

 無我夢中でその背を呼び止める。だが顔だけで振り返った男は、魔者よりも人間味のない顔でこう言い捨てた。

「館の中なら、自由に行動していい。だが逃げようとすれば、今度は足を斬り落とす。次は治さない」

「な……ッ」

 そして今度こそ中庭に降りると、フィレインの瞬き一つの間に軽く跳躍して、中庭を囲む屋根を飛び越えて夜の森へと消えてしまった。

「……なん、だったの……?」

 その一言を絞り出したのは、頭上の月が随分と森の枝葉に近付いた頃だった。しかし時間の経過に反して、答えは何も出ていない。

(今度はってことは、やっぱり私はあの男に斬られた……のねよ)

 そして「次は」ということは、自分で斬り付けておきながら、フィレインを治療したということになる。

(治すくらいなら、最初から斬らなければいいのに。意味が分からない)

 否、そもそもまず、この状況の何もかもがフィレインには分からなかった。気を失っていた間に、一体何があったのか。

(フィーナは……アナリュシスはどこ?)

 男の出現と奇行によって一時的に怒りで忘れていた現実が、冷静な思考によってじわりと打ち寄せてくる。嫌がる体に鞭打って、中庭から室内へと視線を戻す。そこにはやはり、自分の物では決してあり得ない量の血が壁と言わず床と言わず全面に飛び散っていた。

「……ぅっ……」

 正視に堪えぬ現状に、再び吐き気が込み上げる。思わずその場から逃げようとしたが、足は痺れたように言うことを聞かなかった。

(まだ、傷が……?)

 見れば、自分の両足もまた血塗れだった。殆ど乾いて、触ればパリパリと剥がれ落ちた。傷はないようだが、手で触れた感覚はどうにも鈍い。

「……フィーナ」

 気付けば、そう呼んでいた。こんな状況で魔者までも現れたら殺されるだけだと分かっていたが、フィレインにはそれ以外に縋れるものがなかった。

「フィーナァ……」

 よもやこの館に生きている者が誰一人いないなどということは、一抹の念頭にも浮かばなかったから。



 いつの間にか、フィレインは眠っていた。

 そして翌朝目が覚め、足が動くと気付いた途端、血と死体の見えない部屋に逃げた。しかし夜になると、男は再び現れた。

 別の日には三日間寝起きした部屋に籠ったが、やはり現れた。

 どこに隠れても、夜になれば男はふらりと現れ、逃げるフィレインを抑え込んで、唇を奪った。

 そして逃げている間、生きている誰とも出会わなかった。館の唯一の出入り口である巨大な門扉はぴたりと閉じられ、フィレインの手ではびくともしなかった。

 今この館にいるのは、フィレインと、物言わぬ幾つかの死体と、そして殺戮さつりく者だけだった。

「っ……んッ……!」

 そして今宵も、両手と首を抑え付けられたまま、フィレインは乱暴にその唇を塞がれていた。

 暴れる両足は男の片足で押さえ付けられ、息は上がり、酸欠気味で頭がくらくらした。視界が滲み、するといつも、脳裏に現実とは別の映像が過るのだ。

 ある時は館の中らしき部屋が、またある時は見知らぬ少女が食器を運ぶ姿。また別の時には、魔者が人間に喰らいついている場面すらあった。

(今日も、また……っ)

 ぎゅっと目を瞑っても、その映像は唇の熱がある間押し寄せた――。


『……内緒よ、みんなには』

 裏庭の花壇の片隅で、花の香を楽しみながら、フィレインと同じ年頃の少女が微笑んでいる。

『この館では、誰かが誰かを好きなことは、祝われることではなく、鼻白むことだから』

『でも、俺はテュシアが好きだよ。テュシアがいるから、こんな場所でも生きていける』

 少女の頬に、大人になりきっていない少年の手が触れる。温もりまでが伝わるような柔らかな感触に、大人びていた少女が頬を赤らませて笑みを深めた。

『私もよ、ストルギ』

 生贄になると決まっている少年少女の、誰にも内緒の逢瀬おうせ。それはいつも短く甘く、余韻すら許されず――


「ッ…ぷは……!」

 突然呼吸が回復し、フィレインは盛大に咳きこんだ。今日も赤くなっているだろう喉を押さえながら、既に背を見せている男を睨む。

 今夜こそ男の目的を聞き出そうと思っていたのに、今回もまた問答無用で押さえ付けられてしまった。このまま行かせては、また分からないまま怯える一日が始まるだけだ。

(そんなの、もう嫌……!)

 そう思って、けれど口をついて出たのは、ずっと考えていた疑念でも糾弾でもなく、

「『ストルギ』……?」

 口付けの間に書き込まれた映像に引きずられたままの、誰かの名前だった。

 誰それ、と、自分で続けるよりも早く、男が初めて振り返った。

「!」

 その表情は、どこか愕然としていた。一瞬だが確かに二人の視線が絡み合う。

「ねぇ、」

「――いや」

 次に口を開いたのは、二人同時だった。フィレインは追及の隙を広げるため、そして男は、ありもしない幻を振り切るように。

「待って、話を、」

 フィレインが急いで立ち上がって呼びかける。だが男が振り向くことはもうなかった。



(なにあれ……泣きそう?)

 昨夜見た男の顔を何度も思い出しながら、フィレインはまさかとまた首を横に振った。しかしきつく絞られた眉根も細められた隻眼も瞼の裏に焼き付いてしまったようで、何をしていても振り払えない。どころか、最初の一言が無駄に蘇って、困惑ばかりが深まった。

『返せ』

 あれも、怒っているのに、泣いているような声だった。

(返せってことは、やっぱり、アレだよね)

 あの夜の記憶を引っ張り出しながら、自身の腹を撫でる。気を失う前に、アナリュシスの手で口に突っ込まれた何か。無味無臭の、けれど獣の心臓のように脈打つ、気色悪い何か。

(アレを取り戻すために、毎夜私に……してくるの?)

 口付け、と明確な単語を思い浮かべるのは、複雑極まりない感情のせいで出来なかった。だが実際、男はその先をしてくるわけではない。まるで、口付けが終われば用無しだとばかりに離れていく。思えば視線が交わったのだとて、二度か三度くらいだろう。

(って、そんなのどうでもいいし!)

 問題は、あの時飲み下してしまったものを、男は腹を裂いてでも取り返そうとしたこと。そしてそれが叶わなかったために、別の方法で取り戻そうとしていること。

(でも、あんな方法でどうやって……?)

 そもそも、腹の傷を治したという言葉が信じがたい。記憶が蘇る程に、あれは瀕死の重傷だったはずだ。

 それに、毎回現れるあの映像と、昨夜見た少女は――

「っああもう!」

 考えれば考える程余計な思考が邪魔をして、フィレインは手の中のくわを再び大きく振りかぶった。

 ざっくざっくと土を掘り返す。朝から掘り続けて、これが三つ目の穴だった。フィレインの周りは、掘り返した土で荒れに荒れている。だが視線を遠くへ伸ばせば、裏庭の四隅に植えられた色とりどりの花や、その前に整然と並んだ幾つもの小さな墓石が見えた。

(みんな、生贄にされた人たち、なのかな)

 ここが墓地だと知ったのは、昨夜の口づけの間の映像でだった。並べられた頭ほどの大きさの石には何も彫られていないし、人ひとり分にしては間隔が狭すぎたが、少女はあの花をこの石の前に供えていた。

(でも、花はどこにもなかった)

 それはつまり、あの少女が奇特ということか、そもそも映像が過去や現実ではないということだ。だが、真実などどちらでも構わない。

 他にも、フィレインは男から逃げる間に幾つかのことをした。この鍬を見付けたのも、あの男に対抗するために武器を探していた時のことだった。

 生きている者がいないか、フィーナはいないかと、遠巻きながら遺体も見て回った。結論から言えばどちらもなかった。そして遺体は損傷も少なく、どう見ても魔者に食べられたようではなかった。だが、死ねば皆同じだ。

 そう思えば、墓を作る単純作業は、思考を振り切る為にも丁度良かった。

「あんな」

 ざっく。

「男の」

 ざっく。

「ことなんて」

 ざっく。

「考え」

 ざっく。

「ない!」



 しかし三つ目の穴を掘りきる前に、夜はやってきてしまった。

「……その物騒な物は何だ」

 足音もなく現れた男に向けて、フィレインは手に持った剣を突きつけた。

(勝てるわけがないのは分かってる。それでも)

 武力も知力もないフィレインには、他に取れる手段がなかった。

「私は話をしたいの」

「…………」

 初めての剣と脅迫に震える手を堪えて、要求を伝える。しかし男が足を止めたのは一時で、すぐに下らないとばかりに再び距離を詰めてきた。しかし武器を持って気が大きくなったようで、フィレインは構わず言葉を続けた。

「あなたの目的は何? 何でここの人たちを殺したの? あの魔者はどこにいったの? フィーナは……あの晩、すぐそばにいた私の妹をどうしたの?」

「…………」

 しかし男も、まるで剣などないかのように目前まで迫る。その、月光に照らされた美しい顔を見上げて、フィレインは言った。

「答えて――ストルギ」

「ッ」

 剣身の横まで来ていた男の足が、ぴたりと止まった。宝石のように輝く左目が、確かにフィレインを見ている。

(また、泣きそうな顔をして)

「ストルギって、あなたの名前でしょ」

 一瞬の思考には蓋をして、フィレインが詰め寄る。しかしその間に、男は先程僅かに見せた動揺を綺麗に隠してしまった。

「……知りたければ、黙ってその口を差し出せ」

 そして何の進展もない横暴な結論を返され、フィレインの顔は瞬間的に赤面した。

「は、あっ? だからそれが……!」

「そうすれば、分かる」

「アッ」

 フィレインの裏返った声が終わる前に、男――ストルギに手首を軽く捻り上げられて剣を取り落とす。がらんっ、と重い音が響くのと、唇を塞がれるのとは同時だった。

 唇の熱っぽさに導かれるように、今宵もまた映像――ストルギの記憶のような未知の映像が脳裏に流れてくる。

 この中から答えを探せと言われているようだった。

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