第2話 魔者と生贄

「皆が追う者であり、また追われる者でもある」

 白く輝く満月の光が、冴え冴えと館の中庭を照らす夜だった。そこに集められた全員に、館の主である魔者まものアナリュシスは歌うようにそう告げた。

「捕まった者が次の生贄いけにえ候補だ。何人捕まえるかは自由だ。また、協力して一人を捕まえても良い。そして一人でも捕まえた者は、今回の候補から外される」

 続けられた内容に、全員が目をぎらつかせて素早く周囲に視線を走らせた。この館に来たばかりのフィレインは知らなかったが、それはアナリュシスが最近気に入って続けているというだけの、ただの座興だった。

 生贄の一族を守る魔者は、それぞれの性格を大きく反映したやり方で生贄をほふる。そこに、特別な儀式も選別もない。

 しかしこの北口の館の主だけは、人間を観察することを条件に守護を引き受けたというだけあり、好んで様々な手段を用いて選別を行った。怯える者、命乞いをする者、身代わりを作ろうとする者。脱走者や、戦って抗う者でさえ、アナリュシスは受け入れた。満足するまで観察し、そして食した。

 だから今夜のこれにも、特別の意味はない。それでも、中庭に集まった人間は全力で逃げた。誰かは必ず喰われることを、嫌という程分かっていたから。

 そして逃げ遅れたのはフィレインのような、館に来たばかりで状況を理解できていない新参者や、生きる気力を失った者だった。

(どうして……どうしてこんな……ッ)

 館で働く誰もが血眼になって生贄とすべき者を探し出す中、フィレインもようやっと何をすべきかを理解して走り出した。

「いやっ、やめて! お願い助けて!」

 食品庫の机の下に置かれた塩漬け肉の壺の後ろに隠れた途端、絹を裂くような悲鳴が耳をつんざいた。続いてガチャガチャバリンッと、物を動かすような割れるような音が上がる。

「ッその手を、放せ! 誰でもいいから連れてかねぇと、俺が生贄にされるんだよ!」

「いやあ! やだやだッ、連れてかないで!」

 辛うじて聞き取れるやり取りの後ろでは、ギギギッ、と何かを引きずるような音と、ガッと何かを殴る音がしていた。壁の向こうからも、「いた! あいつにしろ!」「回り込め! 一人捕まえればいいんだ!」という怒声がひっきりなしに聞こえてくる。

(怖い……ッ)

 フィレインは本能的な恐怖に耳を塞いだが、悲鳴も怒号も破壊音も、耳をろうするほどに館中から響いていた。何より耳を塞いだ分だけ、体の内側から胸をどくんどくんと叩く心臓の音が、外に聞こえるのではないかと思える程に響いて恐ろしかった。

(こんなはずじゃなかったのに……ッ)

 本当なら、すぐに見つけて入れ替わるはずだったのに、と両親への置手紙のことを思い出していた時、


「――いた」


「ッ!?」

 血走った二つの目が、壺と机の板の隙間に縦になって現れた。ビクッと体が反射的に後ろに下がり、ガンッと後頭部をぶつける。けれどそれ以上、体は動かなかった。指が震え出し、足先が瞬間的に冷たくなっていく。

 その間にもゆっくりと近付いてくる右手に、フィレインが出来たのは「……た、助けて」と言うだけだった。

「…………」

「お、お願い、私、人を探しに、」

「それで、あんたを見逃して、私に死ねって言うの?」

「ッ」

「ありえない」

 ぐっと一気に伸びた手が、隠れていたフィレインの襟首を容赦なく掴み上げた。引っ張り出されて目の前に現れたのは、十五歳のフィレインと一つか二つしか違わない女だった。しかしフィレインの首を締め上げそうなその力は、とても同じ年頃の少女のものとは思えない。

「これで……今日も死ななくて済む……」

 ハァハァと、荒い息を吐きながらフィレインを引きずる女が呟く。それだけで、これが今夜だけの特別な出来事ではないと分かる。

(これが、この館の日常なんだわ……)

 大地の裂け目のような大きな谷に住む生贄の一族には、いくつかの掟がある。その一つが、両親が決めた男女一人ずつを除き、他の全ての子供を十二歳になるまでに、それぞれ谷の東西南北の入口を守護する魔者の館に召し上げるということだった。

 館に上がれば、子供たちは下男下女となって働く。そしてその全員が、早晩生贄となることを定められていた。

 フィレインの両親もまた、この掟に逆らうことは出来なかった。


『わたし、行きたくない……』

『ごめんね。……でも、一族が生き延びるためだから』

 期限となる十二歳の誕生日の前日。フィレインの目の前で双子の妹を強く抱きしめながらも、父と母は揃って他の親たちと同じ科白で我が子を突き放した。妹は泣きながら引き離され、その日のうちに役人の手によって魔者の館へと連れていかれた。両親がフィレインのことを思い出したのは、それから大分時間が経ってからだった。

『貴方だけが私たちの娘よ』

 泣き腫らした目で抱きしめられたフィレインの胸を満たしたのは、選ばれた優越感や安堵を押し潰して余りある、罪悪感だった。

(本当に……私でいいの?)

 フィレインには、双子の妹の他にも、幼い弟妹が三人いる。一族の掟で、多産を求められるからだ。そしてフィレインが選ばれたのは、弟妹よりも僅かに優秀だったからにすぎない。読み書きができて、計算が上手で、両親の意向をよく汲み取った。けれど愛嬌でいえば、妹の方がずっとあっただろう。

 しかし一族が生き残るために、それは必要ではなかった。だからフィレインが残された。

(本当は、妹を残したかったんじゃないの?)

 姉妹の中でなら、自分が最も優れている自信はあった。けれど妹よりも求められている自信はといえば、なかった。正確に言えば、日に日になくなっていった。けれどその問いは、決してしてはいけないものだと、重々承知していた。

(本当は、私が行くと言えれば良かったのに……怖かったから)

 いつか必ず生贄になるという運命は、やはりどうしても恐ろしかったから。

 けれどそれは、妹も同じだった。

『フィレイン……』

 別れ際、助けを求めるように呼ばれた声が、いつまでも忘れられない。両親は夜な夜な妹を思って泣くし、幼い妹たちについても、十二歳まで手元に置いていても辛さが増すだけだと、早めに手放す話をしているのを聞いてしまった。

(いい子でいれば、全ては上手くいくはずだったのに)

 いい子でいようと、幼いころから漠然と思っていた。掟を学んでからは、益々そう思った。けれどその反面、奔放に振る舞う妹が眩しかった。それを微笑ましく眺める両親の眼差しも、また。

(いい子でいるのは、もう、辛い……)

 死にたいと思ったわけではない。けれどあの家で、自分を通して妹を思う両親の前でいい子でい続けるのは、あまりにも辛すぎた。だから三年経ったある日、妹の噂を聞いた時に、フィレインは行動を起こした。

(まだ、妹は生きてる)

 そのことを知ってしまえば、もうただ何もしないでいることは出来なかった。衝動的に置手紙を書いて、気付けばこの館にやってきていた。自分の心が擦り切れてしまう前に。


『お館様に、お願いがあって参りました』

 北の館の出入りは、他の館に比べても簡単だと言われている。館からの脱走は即生贄だったが、アナリュシスはその追跡すら余興とするからだ。

『妹……フィーナとの、お役目の交替をお許しいただけないでしょうか』

 門兵に事情を説明すると、驚くべきことにアナリュシス本人がフィレインの前に現れた。

『あぁ、そう。助けはしないけど、邪魔もしないから』

 心臓がはち切れそうなほどの緊張で伝えた決意はけれど、予想外にあっさりと受け入れられた。

『見付けられたなら、二人とも帰っていいよ。でも、見付けるまで外に出てはならない』

 二言目に付け加えられたそれに、フィレインは最初、随分優しい条件だと拍子抜けした。


 しかし三日が経った今、甘かったのは自分の方だとフィレインは気付かされた。

「痛い……ッ」

 捕まれた手首が、みしみしと音がするほどに痛んだ。乱雑に引きずられて、体のあちこちを床や家具にぶつけた。膝の皮が簡単に擦りむける。けれどそれは、この館に仕える人間ならもう何度も、何年も味わい、耐えてきた現実だった。

 フィレインはただ、知識も覚悟も足りていないだけだった。こんなことで痛いと泣き、怯え、足をすくませるのは。

 だがそうと気付かされても、否、気付かされたからこそ、こんな所で諦めることは出来ないと思った。

「フィーナ……!」

 掴まれていた手首に爪を立て、がむしゃらに引っ掻いて引き剥がす。女の「アッ」という悲鳴が上がる前に、フィレインは駆けだしていた。

「ッ待て!」

「待てない! 私は妹を、フィーナを助けるの!」

 そこからはもう、無我夢中だった。

「フィーナ! フィーナ、どこっ!?」

 誰かが誰かを追い詰めて引っ立てる横を、妹の名を叫びながら走った。強い目的を持っている者は標的になりにくいのだと、こんな時に知るのは皮肉だった。

「フィーナ! 私よ、フィレインよ!」

 次から次へと部屋を渡った。髪を掴まれた女も、顔を殴られている男も、亀のように体を丸めて抵抗する子供も、妹ではなかったから、全て見捨てた。妹の名だけを呼んで、帰ろうと叫んだ。

「フィーナ、フィーナ、フィーナ!」

 自分と瓜二つの、十五歳の少女。フィレインよりも目が大きく、愛嬌があって、きっと笑顔の似合う素敵な女性になっている。見つけたら、すぐに分かる。

「フィーナ、フィーナ、フィーナ!」

 次に飛び込んだ部屋でも、女ばかり三人がかりで、一人の少女を寄ってたかって引きずり出しているところだった。

「やめて! やだやだ怖い! 怖いよおっ!」

 少女のひび割れた叫び声を聞きながら、妹の名を呼び続ける。

「フィーナ、フィー――」

 その声が、止まった。


「……フィレイン?」


 目が合った。泣いて抗う少女の頬を、無言で張り飛ばした女と。

「……まさか」

 目の前の同じ年頃の女は、自分で切ったような乱雑な短い髪に、暗く血走った目をしていた。その青白く引きつった頬に、輝くような笑顔も、かつて羨んだ愛くるしさも、微塵もない。けれど。

「……フィーナ?」

 少しの確信も持てないまま、フィレインはずっと求めていた名を口にした。



 三日の間に見た館は、静かではあるものの、ひどく陰鬱というわけではなかった。男女は淡々と働き、二十歳を超えるような数少ない年長者は年少者に仕事を教え、時折笑声も聞こえていた。

 誰もが生贄になる未来に怯え、震えて縮こまっているとは、とても思えなかった。

 だからフィレインは、何の疑問も抱かず、妹について聞いて回った。自分と同じ顔と年の、愛くるしい少女を知らないか、と。けれど誰に聞いても、そんな者は知らないと返された。

 その理由を今、フィレインはまざまざと理解した。

「本当に、フィーナ……なの?」

「…………」

 いまだ泣き叫ぶ少女の声を背景に三年ぶりに再会した妹に、かつての面影はどこにもなかった。頬はこけ、目は据わり、眉間にはずっと険しい皺が刻まれたまま。三日間呼びかけていた姿とは、まるで違う。それでも、目の前の女性が妹であることは、間違えようがなかった。

「……フィ、」

「そのガキを連れてって」

 意を決して言葉を続けようとした矢先、フィーナが喚く少女の頭を抑えていた他の二人に視線を滑らせた。

「……でも、」と迷う二人に、フィーナは最初の冷たい表情に戻って「早く」と促す。

「ご主人様は、経過がお好きなんだ。問題ない」

 そう続けられた言葉で、フィレインは二人の躊躇ちゅうちょの意味を理解した。二人だけで連れて行けば、フィーナは捕まえた者に数えられないのではと心配したのだろう。だが観察する魔者は、結果よりもそこに至る行動を観る。

(恐らく、今もどこかで……)

 想像した途端、部屋のそこら中に魔者の目が張り付いているようで、ぞくりと悪寒が走った。引きずられて部屋を出ていく少女の高く細い悲鳴が、尾を引いていつまでも残った。

「で、あんたもついに捨てられたの?」

 二人きりになった部屋で、フィーナが壁に背を預けて、腕を組んだ。そこに三年ぶりの再会を喜ぶ様子はない。フィレインは慌てて事情を説明しようとして、

「ち、違うのよ、フィーナ。私は、」

「妹の方が優秀になっちゃった?」

 せせら笑う、というのが最もしっくりくる顔だった。その瞬間、フィレインは大きな勘違いをしていたことにやっと気が付いた。

 妹はきっと怯えて泣きながら、助けを求めている。魔者の館に恐怖し、家族を恋しがって震えていると。

(私が、助けないとって……)

 けれど現実には。

「やっと私の気持ちが分かった? いい気味よ。……ざまあみろ」

「――――」

 探し求めていた妹は、記憶の中とは似ても似つかない形相で、感謝ではなく悪態を吐き捨てた。そこに込められた憎悪の深さに、フィレインは何も言えなかった。

(違った……。フィーナは私の助けなんて要らないくらい、強かったんだわ)

 否、強くならざるを得なかった。他者に助けを求めるようでは、この館で生き残れはしなかったから。

 フィレインが三日間で感じた普通も、単に魔者がそう振る舞うように求めたに過ぎない。結局、気を抜けば死ぬという現実は、常にこの館に住む人間の心をむしばみ続けていたのだ。

(……でも、こんなことで諦めるわけにはいかない)

 自分の知る妹でなくなっていたとしても、一緒に帰れる希望があるのだから、諦める理由はない。

「違うのよ、フィーナ、聞いて」

「今さら命乞い? 言っておくけど、私は私が守る人間の数はもう決めてるの」

 それはつまり先程一緒にいた二人だろうかとか、その結論に辿り着くまでに一体何があったのとか、聞きたいことは山ほどあった。けれど今はそれにかけている時間も惜しい。

「だから違うの! 私はあなたを迎えに来たのよ!」

「迎えに? 馬鹿らしい。誰がそんなことを許すの」

「アナリュシスよ!」

「……は?」

「アナリュシスに直接お願いしたの! 私がここに入る代わりに、フィーナを解放してって。そしたら、フィーナを見付けられるなら、二人とも出ていっていいって。だから!」

 だから、一刻も早くこんな正気を保てないような場所から一緒に出ようと、一歩踏み出してフィーナの手を掴む。その手を、パシンッと憎しみも露わに弾かれた。

「フィ――」

「信じられない」

 弾かれた手を胸に抱いて、妹の顔を見る。引きつった瞳が、渦巻く憎悪に小さくない悲嘆を抱いて、かつての自分の顔を見下ろしていた。

「そんな、そんな簡単なことで助かるなら、なんで今まで、誰も、誰も……!」

「……ッ」

 ぐっと襟首を掴み上げられた。けれどその手は震え、すぐに汚らわしい物に触れたかのように突き放される。

「フィーナ……」

 飲み込まれた言葉の続きは、聞かずとも知れた。

 なぜ今まで誰もそうしなかったのか。

 その答えは、三日しか過ごしていないフィレインでも、僅かに推察できる。それは、あの魔者が気紛れだからだ。そしてどんな反応をするか全く予想ができない以前に、魔者は魔者で、生贄はやはり生贄に過ぎない。実際、どんなに脱走がしやすいと言っても、逃げおおせた者はいないのだから。

「フィーナ」

 二度も振り払われた手を今度はしっかりと握りしめて、フィレインは妹の目を覗き込む。

「一緒にここから出よう。あの魔者の気が変わらないうちに」

「フィレイン……」

 フィーナが、あの日、別れ際に縋ったのと同じ声で名を呼ぶ。これで、全てが報われる。妹は助かり、両親は愛しい娘を取り戻す。全て――その渇望は、突如湧いた声によって呆気なく阻まれた。


「出会えたようだね」


「!?」

 変わらず阿鼻叫喚あびきょうかんが満ちる館の中で、それはあまりにも場違いに穏やかな声だった。二人して驚いて部屋中を見回す。

 入口とは反対の部屋の隅に、先程中庭で見た異形の姿があった。

「いつから、そこに……」

 掴まれた手から伝わるほどの震えを押し殺して、フィーナが問いかける。しかしそれには応えず、観察する魔者アナリュシスはゆっくりと二人の前へと歩み寄った。

「さて、これから君たちはどうするのかな?」

「ッ」

 意味深な問いかけに、二人同時に息を呑む。先に答えたのはフィーナだった。

「私は捕まえた! 私を外に出して!」

「!?」

 フィレインを突き出すようにして訴えた内容を、フィレインはすぐには理解できなかった。

(『私を』? 一緒に出られるって、ちゃんと言ったのに)

「なんで……? 二人で帰れるって、」

「馬鹿じゃないの?」

 気付けば声に出ていた疑問を、フィーナの冷酷な一言が踏み潰した。

「あんた、私より頭が良かったんじゃないの? 村に残れるのは、家を継ぐ男と、嫁ぐ女の二人だけなのよ。余分な女が現れたらどんな目で見られるか、少し考えれば分かるでしょ」

「そ、れは……」

 虫けらを見る目で責められて初めて、フィレインはその先のことを何も考えていないことに気付かされた。

 村の大人たちは、二人の両親と同じような思いで子供を魔者の館に差し出してきたのだ。だというのに、フィレインとフィーナだけが掟に背いて戻れば、どうなるか。

 いくら魔者自身が許したと説明しても、両親も、跡を継ぐ弟も、生き辛くなるのは目に見えている。双子を嫁にもらいたがる家などあるはずもなく、子を成さない二人を誰もが白い目で見るだろう。

「帰るなら、私だけよ」

「――――」

 その言葉を聞いた瞬間、フィレインの中の決定的な何かが崩れ落ちた。

(助けよう、なんて……馬鹿みたい……)

 掴まれた腕からは力が抜け、視線が宙を彷徨った。何かを言う気も、する気も起きなかった。その耳に、小さな笑声が滑り込む。

「あれ、もう終わり? もう少し話し合う姿を観察したかったんだけど」

「話し合う?」

 冗談じゃないと、フィーナは口元を歪ませた。

「こんな狭い世間しか知らない愚か者なんかと、これ以上話すことはないわ」

「そうか」

 冷たく切り捨てたフィーナに、アナリュシスはどこか満足そうに頷いた。それから、懐から何かを取り出す。

「ところで、愛が欲しい者はどちらかな?」

「は?」

「……え?」

 アナリュシスの問いに、フィーナが怪訝そうな顔で後ずさった。フィレインは問いの意味が分からず、ゆるゆるとおもてを上げる。見ればアナリュシスの右手には、赤黒く光る胡桃ほどの大きさの何かが、どくどくと脈打っていた。

(あれは、なに……?)

「そんなものは要らない」

 フィレインの疑問を追いやるように、フィーナが毛を逆立てた猫よろしく拒む。するとアナリュシスの視線は、当然のようにフィレインの上へと移動した。

「私は……」

 愛は、あると思っていた。けれど今この場に限れば、それは幻想だった。この喪失をもう一度味わうくらいなら、最初からない方がいい。自分一人の勘違いなのに、裏切りと感じるのは、辛い。辛いと、今思ったばかりなのに。

「――欲しい」

 呆然と、操られたようにそう答えていた。

 アナリュシスが、かんと微笑む。

「では、これをお食べ」

 そして、右手の物を差し出された。

「これは……」

 なに、と問うよりも早く、その赤黒い何かを口に突っ込まれた。

「がっ……!?」

 突然の質量に、オエッとえずく。無味無臭だったが、その気持ちの悪さに咄嗟に吐き出そうとすると、更に手で押し込まれた。新たな声が割り込んできたのは、その時だった。


「――それは、俺のだ」


 誰、と思考する余裕もなかった。生理的な涙で滲んだ視界から魔者の異貌いぼうが消え、代わりに眼帯をした男が入り込む。しかし意識はその下――腹のど真ん中に食い込んだつるぎに奪われた。

「……ッ?」

「返せ」

 耳元で男が囁き、腹を貫いた剣に更に力が込められる。痛い、と思う時間は僅かだった。すぐに視界が掠れ、血が失われているという感覚が生まれ、気付けばごくり、と嚥下えんげした。


「これで、呪いは完成だ」


 背後から小さく魔者の満足そうな声が聞こえた。それが、最後だった。

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