【壱】

【壱】

「始祖、始祖……っ」

 山の木立を縫って遠くから声が聞こえてきた。

 少女は遊んでいた手を止め、声のした方を振り返る。肩甲骨までを覆う長い黒髪が、動きに合わせて翻った。

 まだ呼び声がしている。はっきり聞こえたその声は祖母のものだ。

「もう……『始祖』じゃないって何度も言っているのに……」

 少女は頬を膨らませると、ぷいとそっぽを向く。

「……私は、カグヒメだってば」

 ぼそりと呟いたその声を掻き消すように、祖母の呼び声が被さる。ここで遊んでいることを祖母は知っているはずだ。

 きっと後で来るのだからと、カグヒメは一人遊びを続行することにする。

 ――そうだ。隠れて吃驚させても面白いかも。

 何度言っても改めない祖母に、ちょっとした悪戯をしてやるのだ。

 カグヒメは辺りを見回す。緑が茂る木の葉や草むらは、その先を化粧し始めていた。しかし、まだ落葉の季節ではないから、隠れる場所は沢山ある。

 手頃な場所を見つけた時、ぎしりとカグヒメは動きを止めた。刺されるような視線と気配を背後から感じたからだ。

 祖母ではない。それを証拠に、まだ遠くの方で祖母が自分を呼んでいる。

 ――誰だろう。全然気がつかなかった。

 視線は真冬のような冷たさだが、敵意ではない。

 カグヒメは一瞬悩む。そして、一度深呼吸をすると思い切って振り返った。

 そこには確かに人がいた。男だ。けれどその装束はカグヒメが見慣れた着物ではない。

 彼女は咄嗟に一歩後ずさる。

 静かに自分を見てくる視線は、やはり冷めていた。逃げようと思いはするが、足は根が生えたように動かない。

 硬直しているカグヒメを頭の先から爪先まで眺めると、男はおもむろに口を開いた。

「お前が白狐びゃっこの娘で相違はないな」

 有無を言わせぬ尊大な口調だった。声が低いのも相まって迫力がある。

 気迫に圧され、首を軋ませながらカグヒメは頷いた。

「我は水神。神々はお前のような者を集めている。――よって、我と共に来てもらおう」

「は?」

 唐突に告げられた内容に、思わず胡乱気な声が零れる。言われていることに頭がついていかない。

 男は一瞬にして、地面を滑るように、カグヒメの傍らにやって来た。

 ずっと上にある顔を見上げる。彼は値踏みでもするかのようにカグヒメを見下ろしていた。そして、訝しそうに目を細める。

「……お前は、本当に白狐の娘か?」

「え……?」

 問われた意味がわからない。ついさっき、自分は頷いたばかりじゃないか。

 水神を名乗る男は、暫く眉間にしわを寄せ、カグヒメを凝視していた。しかし、そんなことは些末であると結論づけたようである。唐突にカグヒメの手を掴んだ。

「さぁ、来るのだ」

「さ……触るなっ! 離せっ!」

 ぞっとするほど冷たいその手を、振り払おうとして叫ぶ。

「――我は水神だと言ったはずだ。お前の威嚇は効かない」

 カグヒメは悔しそうに下唇を噛む。

「では参ろうか」

 カグヒメの是非など聞かず、男は彼女の手を掴んだまま、ふわりと浮かび上がった。

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