3.大人って悲しい生き物ですね

「痛ってええええ!」


 ニルスは自室の床で転げ回り、頬を押さえながら痛みを訴えている。この薄い壁では下の階まで響いているに違いなかったが、押し寄せる苦痛の波にそんなことは微塵も考えられなかった。


 アドルフは容赦しなかったのだろう、ニルスの頬は赤く腫れ上がっていた。その加減は落ち着くまでかなりの時間を要したほどだ。


「ふう……く……うぅ」


 落ち着いたとはいえ、痛みは尾を引く。ニルスはかろうじて床から這い上がり、そばにあった机に手をついてゆっくりと立ち上がる。


「アシュレイを……探さなきゃ」


 先程アドルフに声を掛けたとき、彼は「息子について何か知っているか」と尋ねていた。

 息子、という単語が気になって訊けぬままになっていたが、アシュレイの身に何かなければあのように問い質してきたりはしないだろう。


 きっと何か危険な目にあっているに違いない。ニルスはすぐに外へ飛び出す。とはいえ、手がかりも何もない状態で如何にすればいいのだろうか。

 そんなことを考えていたからか、出口から飛び出た瞬間に別の少年とぶつかり合ってしまった。


「つッ!」


「あ、ごめんね」


 互いに尻もちをつくがニルスは痛みですぐには立ち上がれず、同じく走ってきた少年に手を貸されて立つ。


「ありがとう」

「うん。じゃあ」


 少年はすぐに去っていく。こちらにも非があったにも関わらず謝り、手助けしてくれた爽やかな少年だった。

 だが彼は何故か切羽詰まったように慌てて駆けていってしまった。


 そこでニルスははっとして彼を呼び止める。その必死さには何か自身と共通する部分があったからだ。


「ねえ! アシュレイって知ってる?」


「え、あ……それってアシュのことかな? 実は大変な事になってて……」


 ニルスの言葉に少し緊迫感が緩んだ少年は瞳に涙を浮かべる。


「大変な事って?」


「よく分からないんだけど……大人の人がいじめてるみたいで」


 いじめている、とは彼なりの表現だが要するにアシュレイと彼らとの間に何か揉め事があったのだろう。


「場所は⁉」


 ニルスは尋ねる。少年も本来は答えるべきでない回答を緊迫した様子の彼に気圧されてしまった。


「町を離れたところの小屋だけど……」


「そうか、ありがとう!」


 その小屋の場所には覚えがあった。以前魔物を狩っている時に偶然人気のない小屋を借りて逃げ隠れたりもした。そう思ってニルスは素早く走り出す。


「あっ、危険だよ!」


 少年は呼び止めようとするも、ニルスは振り返ることなく目標を一点に定めて走っていく。


「こういうの、蛮勇っていうんだっけな」


 呟いたニルスには元よりアシュレイを救い出す力はない。そう思っていた。ただ、空回りした勇気のようなものが自身を突き動かしている。そんな感覚だけがあった。


 少年もそれ以上追いかけはせず、自分がすべきことを今は達するのみと、また走り出すのだった。



 そしてすぐにその山小屋へは辿り着いた。ニルスは乱れた呼吸を整えながら中の様子を見る。


「やっぱりこいつ、女だったなあ! これが知れたらアドルフの所も終わりだな」


「長い間奴を失脚できないかと考えていたが、まさかこんなに近くに恰好の材料があったとは笑えるぜ」


 そこには下卑た笑みを浮かべる二人の男、あれは確か昼間にからかいを受けた男達だっただろうか。そして部屋の隅には衣服を破られて蹲っているアシュレイの姿があった。


「この町一番の鍛冶師はエドメの旦那で決まりだな」


 二人の笑いが起こる。

 男達は鍛冶師エドメの弟子だった。彼らは師が腕の一二を争うアドルフを陥れようと画策して、アシュレイの性別を知るまでに至った。

 それを公言したところでアドルフの腕が落ちるわけではないが、彼の評判が落ちるのは火を見るより明らかだった。

 女児を男として育てていたことはもちろん、この町では工場に女性を立ち入らせることは禁忌とされていた。


 それが知れ渡れば、アドルフは現状を維持したままではいられない。そう思うと、笑いが止まらないのだった。

 ニルスは思わず小屋へ飛び込んだ。


「アシュレイを……離してください!」


 そして彼は真っ向から懇願した。

 彼女が女だと知れればその身に危険が及ばないわけがなかった。たとえ、女の子として生きたいというアシュレイの願いが結果的に叶えられたとしても、その決断は彼女自身にしてほしかった。


「誰かと思えばいつかのガキじゃねえか」


「はっ、小さな勇者がお姫様を助けに来たってか?」


 冗談を言うと二人はまとめて腹を抱えて笑う。その傍らで不安そうに座り込むアシュレイがニルスの目の端に映り込むと、ニルスは笑顔を向けて頷いた。


「あー、おもしれぇ」


「いいぞ、俺達は今すごく機嫌が良い。遊び相手になってやるぜ」


「えっ、ちょっと交渉を……」


 ニルスは拳を構え出す大人達に戸惑いながら後退る。


「行くぜ」


 問答無用とばかりに一方が近づいてきてニルスに蹴りを入れる。長い脚を活かした重い攻撃は、ニルスの横腹に突き刺さったのだった。


「ニルス!」


 アシュレイはその様子に堪らず声を上げる。男達はその声に振り向きながらも下品な笑みを浮かべることをやめない。


「お姫様に心配してもらえてよかったなあ!」


 男は言葉尻に合わせて拳でニルスの頬を叩く。

 しかし痛くはあるが、アドルフのものほどではない。そして実際の損傷も大したことはなかった。


「あんまり、痛くないですね……」


 ニルスは強がった。アシュレイに危害を加えることを厭わない存在が目の前にいる、その事実に沸々と怒りが湧き上がってきたためだ。


「何だとこのガキ!」


 ニルスの言葉に怒りを顕わにした男がまたしても蹴りを入れる。それにも関わらず、ニルスは平然としていた。


「俺をガキだと馬鹿にするほど、お兄さん方は偉いんですか? それほど痛みを背負ってきたんですか?」


「は? なんだこいつ、恐怖でチビッちまったのか?」


 男は声を低くしたニルスを指差して笑う。しかし先程から何故だろう、情緒が安定しない。

 そんな彼に構うことなくニルスは近づいていく。


「俺と同じ痛みを味わってもらいますよ」


 片手で男の手首を掴み、もう片方を彼の指に添える。そして不思議なことに、彼は抵抗するが引き剥がせない。

 先程から何かおかしい、こんな子供に力負けするはずがないのに。彼は内心、動揺していた。恐怖していたとも言う。


 そしてニルスは手首を掴んでいる左手を自身の体へ引き、右手は反対に押し出していく。

 力は拮抗する間もなく、メキメキと男の指の骨が音を立てる。


「ぎゃあああああ!」


 悲鳴を上げる男をよそにニルスは更に押し込み、骨を砕くような音とともに動作を止めた。

 骨を折られた男はその場に倒れ込み、指の代わりに手首を押さえて苦しむ。そしてズボンの股関あたりには染みが広がる。「チビって」しまったのはニルスではなく彼だった。


「おい、ジャックに何をした!」


 もう一人の男、エディは異変に眉をひそめてニルスの肩を掴む。しかし彼はそれに答えず、エディの顔に付いている中央の出っ張りを手で右に曲げる。


「ぐぎゃッ!」


 奇妙な声を立て、折られた鼻に手を当てる。その目には涙が浮かんだ。そんな彼の鼻を親切にもニルスは元に戻してやるのだった。


「ああッ!」


 彼は短く叫んだ後、呻きながらしゃがみ込んでしまった。

 ニルスは手を払いながら二人を見下ろす。


「少しは伝わりましたかね、俺の痛みが」


 当然、二人にその声は届いていなかったが。


「アシュレイ、無事か?」


「……うん」


 アシュレイは彼の一連の行動に驚きつつも、その呼びかけに応える。

 そして彼を見上げて気づく。


「その頬」


「ん? ……ああ、お揃いになっちゃったな」


「あ、そっか……」


 彼女は自身の頬に手を当てて思い出す。触れた部分に電撃でも受けたように、痛みが走った。


「それは、家で出来たものか?」


「……うん」


「そっか。アシュレイのお父さんとも一度話をしないとかな」


「ううん、それは――」


「アシュ君っ! 大丈夫⁉」


 ほどなくしてニルスに居場所を教えた少年――ルイがアドルフとエドメを連れてやってきた。当事者の登場にやや乱れていたニルスの精神も落ち着きを取り戻す。


「アシュレイ!」


「お父さん……」


 アドルフがアシュレイにいち早く駆け寄って抱きしめる。


「すまなかった……俺がお前を男として育てたばかりに」


「ううん、僕のことを考えていてくれたって、分かってたから」


 そして親子は和解した。ニルスを通して、二人の想いがようやく互いに届いたのだった。


 一方のエドメは床を舐める二人の男を見ていた。


「これは君が……?」


「あ、まあ一応」


 その言葉にエドメは申し訳無さそうな顔を作る。その後ろでルイが驚愕を浮かべていたが、ニルスには見えない。


「私の弟子がすまなかったね。キツく言っておくよ」


 しかしこの男、今回の事件を企てた張本人でもあった。


 エドメは狡猾な人物だった。誰に対しても分け隔てなく紳士的な態度で接する。その人当たりの良さは周囲に人を集めていく。もちろんそれは演じてのことであったが。

 しかしそんなことをニルスが知るわけもなくほんの僅かに生じた不審感とともに「こちらこそすみませんでした」と頭を下げる。


「私も初耳だったが、その子、まさか女だったとはな。しかしどうする? このまま隠しておいても私の弟子達がうっかり口を滑らせてしまうかも分からん。もちろんこいつらには言い聞かせておくがね」


 エドメは内心笑いながら「全く、人間というのは分からないものだよ」と発した。


 そしてアドルフは考えた。公表してしまえばやはり娘は苦しい思いをするのではないかと。

 同時にニルスも考えていた。公表だとか、隠匿だとかいう話ではない。エドメの、全てを見透かしたような言葉が心に引っかかったのだ。


 ニルス自身勘が鋭い訳ではないが、彼の口振りはまるで誘導するようだったと気づく。


「えっと、エドメさん……でいいんですかね?」


「おや、どうして私の名を?」


「さっきそこの人達が教えてくれました」


「へえ、なるほど」


 エドメの口調は依然穏やかだが、その目は鋭い。どうやら、ニルスがどこまで知っているのか尋ねているようだった。


「全部……教えてくれましたよ」


「全部、とは何のことかな?」


 彼らは互いに探り合う。そしてエドメはハッタリが通用するほど甘くはなかった。

 穏やかながら威圧を与えてくるエドメに、ニルスは後退りしそうになるが耐える。彼について知っていることなら一つあるのだ。


「アドルフさんのことです。エドメさんはアシュレイのお父さんと鍛冶師としての頂点を争っているそうですね」


「どうやらそうらしいね」


「でも、あなたはアドルフさんを陥れようと以前から探りを入れていた。そしてアシュレイが女の子だと知った」


「まさかこれは私が仕組んだことだとでも言いたいのかな? とんでもない、私は実力でここまで上り詰めた。それを今更こんなやり方でのし上がったりはしない。全ては、私の弟子が独断で仕出かしたことだよ」


 ここまできても、エドメの余裕の表情は崩せない。もはや苦しいか、とニルスが声を上げる。


「弟子の行動が、あなたと全く関係ないとでも? 師の指示を仰がずに、人を失脚させるなんて大それたことをあの人たちが――」


「もういいよ、ニルス」


 しかしそれを断ち切ったのはアシュレイだった。


「いいの、ニルス。もう……いいの。僕……いや、私は、女として生きていくから」

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