午睡の憂鬱

 ずっと幸哉だけを見てきた。今も幸哉だけを見ている。

 五十年振りの山神の原型。

 産んだのは、私の二番目の姉、始子もとこ


 私より一回り上の始子は、とても雑な人だった。

 鬼の血脈の父に似て長身、身体つきはとにかく硬そうで、目鼻立ちのはっきりした顔に化粧っけなどまったくなく、髪の毛はいっそ剃髪した方が早いのではないかというくらいの七分刈りで、趣味は野球と水泳。

 それだけなら単なる男子で、それで雑というと男子に失礼だけれども、始子はさらに、身の回りのことをまったくせず、靴は脱ぎっぱなし、ものは出しっぱなし、服は脱ぎ散らかし、食べたあとの食器を流しに運ぶこともしない人だった。

 ガサツが服を着て歩いている、と母や始子より二つ上の姉、あおいはことあるごとにぼやいて、私も「始子は姉なのだ」と認識したのは幼稚園に通うようになったころ。それも始子の婚約者だと父が連れてきたのが男で、かつ、始子が「わたしはこいつの子どもを産む」と言ったからに他ならず、それがなかったらあと五年は気づけなかったにちがいない。

 始子さんは母さんや碧さんや私と同じで赤ちゃんを産む側の人なのか、と、あの時の衝撃は今でも忘れられない。

 ――見ていな、和佳奈わかな、わたしはきっとすごい鬼を産む。

 始子の婚約者は、父の又従弟で、やはり鬼の血脈だった。鬼の血脈同士で結婚すれば、子どもが鬼となるのは確実。

 そして、二年後、十八で始子は結婚し、翌年、男の子を産んだ。

 ――幸哉ゆきや

 名付けたのは、鬼の血脈の源流、絹山きぬやま宗家の当主の母。

 当時百一歳の老女は、始子の出産直後、特に知らせていなかったにもかかわらず多数の使用人を連れて産院に現れた。

『子どもの名前は絹山幸哉。我が子の跡目は幸哉が継ぐ』

 老女には決して少なくない数の直系の子孫がいた。その全員を差し置いて、老女の遠戚ではあるけれど、直接繋がってはいない幸哉が跡目に決まった。

 わたしの子どもは立派な鬼ってことか? 婆さんよ――まだ分娩台に乗ったままだった始子はそう訊き、老女は鼻で笑ったという。

 ――鬼? なにを下らんことを。


 私たち鬼の主は、山の神だ。


 幸哉は始子とともに絹山宗家に引き取られた。

 そして、私も。始子の使用人として。

 ガサツである以上に頗る健康体だったはずの始子は、産後急激に弱り、一日の大半を眠ってすごすようになっていた。

 老女は始子に近い鬼だけを始子と幸哉の傍に置くと決め、私が学校に行っている間は、前の年に老女の曽孫に嫁いで子どもを産んでいた碧が二人の面倒を見、あとはずっと私が二人の世話をした。

 日当たりのよい庭に面しながら、日中でも薄暗い古い日本家屋の広い部屋。眠り続ける始子の傍で、幸哉とともにすごす毎日。

 幸哉はとてもきれいだった。人間でもなく、鬼でもなく、山神の原型だからだと老女は言っていた――吾らは鬼だから余計目が曇っているというのもあるだろうがね。

 始子にとても似ている、と言っていたのは人間である母だった。

 表情をやわらかくして、肌の色を白くして、髪をほんの少し長く、それだけで始子になる――始子がいよいよ目覚めなくなってから、何度か見舞いに訪れた母は、始子と幸哉を交互に見、か細い声でそう言って笑んでいた。

 そのころから私は幸哉から目を逸らすことができなくなっていた。

 赤ちゃんから、子どもへ。成長の過程すらきれいだった。

 私は一生、幸哉のしもべとして仕えることになるのだろう――

「きれいごとだな」

 ――あれはなんていうことのない春の日の、昼過ぎのことだった。

「始子姉」

 しばらく耳にしていなかったにもかかわらず、私は自分でも驚くほどその声の人の名を呼び、振り返った。

 真っ白い床に横たわった始子がこちらに顔を向け、笑っていた。

「幸哉のしもべとして仕えることになるのだろう――って、小学生のひとり言にしちゃあ重いぞ、和佳奈」

「起きていたの?」

「いいや、今ちょうど目が覚めたところだった」

 身体を起こそうとするのを見、手を貸した。

 やばいな、この身体、もう自由が利きやしない、と顔をしかめた始子は、

「とにもかくにも湿気たこと言うなよな」

 と私を睨みつけた。

 すっかり痩せきっても相変わらず父に似て厳めしく整っている鋭い顔と強い言葉に、ごめんなさい、と半ば反射的に謝る。

 謝ることじゃあない、と始子は表情を緩めたあと、ふと、私の後ろの方に視線を投げた。

「和佳奈、お前、幸哉のことが好きなんだな」

「え?」

 考えたこともなかった言葉にぎょっとする。

 始子は笑った。

「わたしが産んだんだ。好きになって当然だろう。なんせお前ときたら、


 ――今ならわかる。

 老女は幸哉が山神の原型だからと言っていたが、私にとってはそうではなかった。


「幸哉が欲しいなら縋りつけ。縋りついて愛せよ、和佳奈」

 痩せた顔にあって鋭い目がやさしく弧を描く。

 その瞬間、心臓が痛いくらいに跳ねあがった気がして、ぎゅっと自分の胸を強く押さえた覚えがある。

 それを見てか、ははは、と声を立てて笑った始子は、さて、もうひと眠りするとするか、と横になり、それから二度と目を覚まさなかった。


 私はいよいよ幸哉から目を離せなくなった。


「――和佳奈さん? どうかしましたか?」

 眠っていた幸哉が目を開けた。

 あれからもう十年以上が経つ。

 休日の夕暮れ前、私は今、幸哉の午睡がこわい。

「よく眠っているな、と、思って」

 縋りつきたくなるのを堪えて、私は笑んで見せた。

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