内的カオス・道化の正体

(1)『ハムレット』との比較


 ハムレットは父の復讐を遅延させる。是ゆえ、心理学での「ハムレット症候群」の言葉の由来となり、優柔不断の典型・象徴と扱われることも多い。

 この理由を小田島雄志氏は「シェイクスピアの人間学」の中で、“価値判断のない内的カオス”によるものだとしている。彼は同書の中で、シェイクスピアの四大悲劇はこの“内的カオス”を扱ったものだとしているが、リア王に関して言えば、私はそうとは言い切れないと思う。このレポートでも論及したように、リアは、価値判断が「ない」のではなく、「あるけれどまちがっている」と捉えるのが正しいように思う。それは前述したリアの数量的価値観からもわかるだろう。


 またリアは後半、あらゆる苦しみによって狂気に陥り、ここが“内的カオス”と言えるという人もいるだろう。しかしそれは、狂気によって価値判断以前の理性も崩れてしまっている、とも考えられる。

 この根拠・関連を二つの側面から論じてみる。


(2)道化の正体


 この作品中、最も異彩を放っている存在であり、私も一番好きな存在である道化であるが、さらっと一回読んだだけでは、そのキャラクターはわかりにくいし、煮え切らないという人が多いだろう。

 道化は前述したが、一番この物語において展開される世界全体を俯瞰している存在と言って良い。そしてそれを言葉(台詞)として表現できる存在でもある。

 岩波の注の言葉を借りれば、何を言っても許される「天下御免」の職業なのである。登場してからすぐリアに、コーディーリア追放の件を絶妙な言葉選びで皮肉っている。しかしリアが転落し、狂気へ陥る過程の中、突如姿を消す。第3幕第6場である。

最後の台詞は

「じゃあ、おいらはお昼時に寝るとしよう。」

である。

これは勿論、表向きは直前のリアの

「夕食は朝になったら食べるとしよう。」の言葉遊びによる返しである。

リアの言葉は疲労から出た言葉なのか、狂気に侵されつつあるのか判然としない。おそらく流れからして両方であろう。そこで今一度道化の言葉に戻ると、「寝る」という語にひっかかる。オースティンの授業で習ったように、「寝る」は「死」を連想・間接的に表現しているからである。つまりこの台詞により、道化はこの劇で「死んだ」のである。

 ではなぜ突如死ななくてはならなかったのか。それはリアが、一度理性を失い、しかし最後には本物の愛に気づくことに由来する。どういうことか、第1幕第4場に戻って考える。ここでリアは自問自答する。

リア「誰か、このわしが分かる者はいるか?これはリアではない。 …略… 誰かいないか、教えられる者が、わしが誰であるかを?」

道化「リアの影法師さ。」

これは一見して、何を言いたいかわかる人は少ないだろう。おそらくこの段階では大方、知力・政治力などを失ったリアに対する言葉であろうと思える。あるいはその後失う権力・娘・命を示唆する言葉とも捉えることができる。しかしもう一つ、この言葉には意味が含まれている。今の間違った価値観に支配されているリアは「影」であり、本物の愛に気づいた存在が「道化」である、ということだ。現にリア自身も

第4幕第6場において(この時点で既に道化は存在しない)、

「わしは運命の女神に可愛がられてきた生まれついての自然の阿呆道化だ。」

と言っている。

故に,狂気になりながら本物のも愛に気づいていく後半部分では、道化は存在しなくなるのである。つまり道化はリアの精神状態と呼応した存在である。このことは、度々リアに的確かつ大胆に苦言していることからもわかる。


 また、上の台詞を言われた後もリアは

「わしが誰であるか、それが知りたいのだ。国王の身分、知識、そんな見せかけの印にたぶらかされて、わしには娘があると思い込んでいただけかも知れぬ。」

という。この時点ではまだ、道化の表現(と苦言)はリアには伝わっていないのである。まだ自分の力などをわかっていない。娘に対する自分の愛がおかしいことに気づかず、現実逃避しているのである。だからこそこの時点では、道化は劇に欠かせないのだ。


 道化自身に名前がつけられていない、ということも、道化は「リアと呼応した、本物の愛を知る象徴(存在)」と捉えることで説明は着くと考えられる。

 他に道化喪失の意味を、「道化の物語上の役割」としてではなく、「シェイクスピア劇の背景」の観点からみる意見もある。当時劇団員は十名ほどしかなく、コーディーリア役が道化役を兼任していた、とする説である。このような背景は確かに存在したのかもしれない。しかし個人的な意見とし、それはあまりに浅はかに思える。なぜなら殆どの優れた作品は、その作品において一文・一文字も無駄なものはないからだ。むしろ私たちが読み取るべきは、書かれていない何か、あえて著者が余白を作った意味、なのである。


 「影法師」という語は第3幕第4場にも出てくる。そしてそれは意外なことに、エドガーの口から出てくるのだ。

「自分の影法師を裏切りと思い込ませて追っかけてさせたんだ。」と。

これはトムのふりをしているエドガーが、自分自身について「本来のエドガー=影法師」と言ったのだと考えられる。この点についてはまだ論考し得るものがあるであろうが、本考察では簡潔に述べるに止める。私の解釈としては、エドガーもリア同様に地位や権力を失ったが、そこに由来する原因は対照的であったに違いない。いずれも地位のある時期の人格を「影法師」と呼んだところは、この物語の悲劇性を強めていると考えられる。


 リア王は他の四大悲劇に比べて長く、トルストイなどはグロスター家のエピソード・道化との会話が無駄である、と批判している(1897年『芸術とは何か』)。しかしシェイクスピアの脚本でなければ、リア王はこれほどまで壮大にはならなかっただろう。

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