悲劇の原点:「リアの数量的価値観」

 『リア王』に内在する悲劇の要因は多層的なものと思われるが、私はまず冒頭第1幕第1場の「娘たちに領土を割譲する」場面から考えていきたい。

 リア王は、心にもない追従をならべたて、上辺だけの父への愛情を語る長女や次女に己の領土を割譲してしまう。そこではリアは(『ハムレット』のクローディアス同様)、娘の本心すら見えていないのである。ここでのゴネリルの言葉は過剰なまでに装飾されている。例えば、

「お父様、わたくしはもう言葉では表しきれぬほどにお父様をお慕いもうしあげております。・・・」(野島秀勝訳 以下の引用も同様。)

 この過度な表現はシェイクスピア作品において“嘘”を意味する。


 一方、コーディーリアの答えは「何も(原文は“Nothing”)」である。リアはこの三女の「若さゆえの真」に激怒し、「未来永劫、お前はわしの心にも身にもかかわりのない赤の他人と思うぞ」とまで言う。実際は後に、彼はこの言葉とは真逆の態度をとる。このようなエピソードから、リアは大した深い考えもなく、その場での言葉とそれに対する刹那的な感情で行動している事がわかるが、それにしてもなぜリアは、この三女の真っ当とも思える意見に納得せず、激怒したのだろうか。(現にここでは、リア及びバーガンディ公とは対照的に、フランス王はコーディーリアに対して肯定的に評価している。)そこにはリアの“愛情を数量的に、またはわかりやすいものに変換してはかる”という価値観(岩波文庫の注によると、“交換価値という経済原理“)が明確にみられる。


 考察していこう。そもそも領土を分割する際、“自分への愛の大きさによって決める”、ということは、一国を統治する王としておかしい判断である。さらにその判断方法として、娘たち一人ひとりにわざわざ自分への愛の文句を述べさせることもおかしい。なぜそうしたのか。リアはわからないからである。リアは娘の本心どころか、自分自身でさえ見えていないからである。ゆえに彼は愛情を、その場での上辺の言葉というものから受け取り、領土という目に見える形として返すのである。上記の場面からこの事が明確に示されているが、ほかの箇所でも推定できる所がある。二人の姉に従者を取られるシーン(第2幕第4場)である。


 「(ゴネリルに)お前の五十は二十五の倍だ、お前の愛情はこいつの倍だ。」

ここからはっきりわかるように、リアは本来見えない愛というものを数値や物(ここでは従者)で図ろうとしている。だからリーガンに「一人だって(従者は)、必要あるかしら?」と言われたら、長い台詞を駆使して怒りの感情を露わにする。二人を「鬼婆」といい、「必ず復讐する」ともいう。遂には「ああ、道化、わしは気が狂いそうだ」と漏らす。恐らくリアの狂気が始まったのはこのシーンであろう。また、先に述べたコーディーリアに「何も」と言われた際、彼は「何もないところからは何も生まれない」と答えている。ここからも、彼は愛情を数値に置き換え、“比”で計算できるものだと考えていることがわかる。彼の中では、物質化・情報化したものがゼロであれば愛情もゼロなのである。ご存じのとおりゼロは比(割り算)では扱えない。彼の中では“Nothing”という概念が存在しないのである。

 しかし皮肉なことに、この“ゼロ(=Nothing)”の状態にならなければ本物の愛、コーディーリアの愛に気づくことはできなかった。

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