第53話『正しい拳』
その顔は、戦場で見せるには戦いからかけ離れすぎていた。
まるで大事な友達が遠くに行ってしまうのを、ただ見送るしかない少年のようでもあり、遊乃は思わず構えを解きそうになる。
しかし、トランフルは遊乃の敵。
倒したわけでも、停戦が宣言されたわけでもない。
構えを解かないまま、遊乃はほくそ笑んだ。
「けっ。どうしたどうした勇者様。傷つくのが怖くなったか」
そんな、遊乃のわかりやすい挑発を受け流し、トランフルはその顔を変えようとしないまま、子供が馴れない説得をしようとするかのように、必死さを全身から溢れさせながらも、しかし、威厳を保ったまま言った。
「君は、いや。君たちは、考えを変えなかったのか。なぜだ? あれは世界を滅ぼした災厄だ。あれを放っておけば、地上だけじゃない。空世界まで滅びるかもしれない。……もう人間に逃げ場はないんだぞ」
空が堕ちれば、地上に戻るしかない。しかし、耐性がある者でも二日が限度という毒が蔓延し、人を襲うキャファーという化け物に支配している世界だ。
もう地上は、人間が住める環境ではない。
人類という種の未来を考えるなら、リュウコを殺した方がいいというトランフルの言葉もわかる。
だから、ネリネも琴音も何も言えず、遊乃の背中をただじっと見つめていた。
「世界を滅ぼした、かもしれん。だが、二度目はないかもしれん」
遊乃はそう言うと、一歩一歩踏みしめるかのごとく、トランフルに向かって歩みを始めた。間合いを計っているようでもある、ゆっくりとした動きに、何故かトランフルは気圧されそうになった。
自分の体が一歩退いた時、トランフルはそれに気づいた。
「バカな、一度あったんだぞ! それに、リュウコの主人である君が、世界を滅ぼすと決意するかもしれない!」
「未来に対してマイナスな気持ちから見る、お前のその話は聞き飽きた! 俺様は、まず信じるところから始める! でなきゃ、何も開けん‼」
遊乃は力強い言葉と共に、強化されたスピードで、まっすぐトランフルに向かって、突っ込んだ。
疾風のような勢いで走る遊乃。
相対するは、閃光と呼ぶに相応しい、トランフル。
二人はかつて、仲間から互いにこう称されたことがあった。
『ご主人様は、風なのですね』
『トランフル。あなたは、私達の光なの』
風と、光。
互いにそう称された男の、激突である。
「君の希望は、希望とは言わないッ‼ それは楽観と言うんだッ!」
「それのなにが悪い! 大丈夫なやつだから、俺様は仲間になったんだ‼」
二人は互いに剣と拳で打ち合う。
まるで鉄同士がぶつかるような甲高い音が辺りを包み込む。離れて見ている琴音とネリネも耳を塞ぎそうになるほどの轟音。
拳で剣やりあっているトランフルにも驚愕すべきだったが、しかし、それよりも、琴音が驚いたのは……。
「遊乃くん、トランフル様と、互角に戦ってる……!?」
そう、互角。
拮抗状態と言ってもいい。遊乃の放つ剣閃をトランフルが防御し、トランフルの放った拳を、遊乃が紙一重でかわす。
そして、驚愕しているのは、トランフルも同じだった。
自分と遊乃の実力が遠く離れていることなどわかっていたし、潰そうと思えば一瞬で出来る。
しかし、何故かできない。
トランフルの、多くの修羅場で裏打ちされた膨大な数の経験ならば、脳内でなら、すでに十回以上遊乃を殺している。
だが、何故かそれを出来ないでいた。
まるで、高い品物を壊さないよう、丁寧に扱うかのように。
彼が生きるべき人間であると、トランフルが本能的に思ってしまったのだ。
「バカなッ……バカなッ‼」
トランフルは、そう叫んだ。
自分の中にある、遊乃への期待感。勇者とまで呼ばれた、実力も段違いの自分を前にしても退かない剛胆さ。段々と、間違っているのは自分では無いかと思わされてしまうような、彼の無根拠な自信。
『人は自信のあるやつについていくもんなんや』
このネリネの言葉は、端的に、遊乃のカリスマ性を表したものだ。
人の話は聞かない。自分のやりたいことをやる。それなのに、何故か上手く行く。
覇王。
そんな言葉がトランフルの頭に浮かんだ。
かつて彼を、人類を苦しめた、破滅の象徴が名乗っていた。
トランフルは遊乃の中に、正しい覇王の素質を感じたのだ。
「認めるか…そんなことッ。私は、もう二度と、覇王なんて生み出さないッ!」
トランフルは、今までの彼とは違う、乱暴な前蹴りで遊乃を蹴飛ばした。
まるで大砲に腹を撃ち抜かれたような、あまりにも力のこもった一撃が、意識外から飛んできたのだ。
だが、遊乃は今、エンジンがトップギアに入っている。その集中力と、彼自身のセンスが警戒を怠っていなかったからこそ、放たれたと同時にバックステップし、威力を殺すことができた。
だが、間合いが開いてしまう。
遊乃は近接専門だ。トランフルには光魔法がある。遠距離は不利になる。だから、慌ててトランフルに向かって、突っ込んでしまう。
彼が最も得意とした技の構えを取っていることに気づかずに。
「……この技を使うことは、私の敬意だと思ってくれ」
遊乃に聞こえないくらいの声で、トランフルはそうつぶやき、左手を前に突き出し、腰を落として、右の拳を引く。
それは、彼が最も得意とする武術、その最も基本的な技。
そこに彼が光魔法を織り交ぜた、この世で最も鋭い拳。
正しい拳で、突く。
その名は、
「正拳突き」
トランフルの右腕が光を放った。そこまでは、遊乃も見ていた。
だが、そこから先は、何かを感じることすらなかった。
彼の拳が遊乃の胸の真ん中に当たった、本当に、ただ当たったと思っただけなのに、なぜか、彼の体は崩折れて、地面に倒れていたのだ。
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