第38話『自分がいる人にはわかりませんよ』

 さすがに、美術館内でお姫様抱っこしながら歩き回っている男は目立つらしく、すぐに係員に捕まった。

 ツレの調子が悪い、と言えば、迅速で裏のスタッフ控室に入れてもらい、スタッフ達が休憩を取るソファにリュウコを寝かせることができた。


 監視カメラのモニターがいくつも並んでいるそこは、警備員たちが使っているのだろう。こんなところに通していいのかと、一瞬遊乃は疑問だったが「ああ、そういえばそうですね。出てってください」と言われては敵わないので、黙っておいた。


「お連れさん、どうかされたんですか」


 と、タイトスカートとブラウスベスト、シンプルなフォーマルファッションに見を包んだ女性係員が、顔を真っ青にしたリュウコの顔を覗き込んでいる。

 遊乃もソファの傍らで同じようにしながら「わからん。最後の聖戦を見ている時、急にこうなった」と言った。


「あぁ……美術酔いですかね、もしかしたら」

「美術酔い? なんだそれ」

「あれ見る人はたまにこうなるんですよ。すごいリアリティでしょ? かつての戦争をその目で見た、一流美術家の傑作ですからね。感受性豊かな人は、ちょっと気分が悪くなることあるんですよ」


 まあ、美術酔いって名前は、私が勝手につけたんですけど、と照れくさそうに笑う若い女。


「ふうん……しかし、そんな感じじゃなかったがな」


 リュウコがそんなタチにも見えないし、何より気分だけでなく体が強張るとまで言っていたのだ。

 何かもっと、心の芯に来るようなことがあったはず。

 だが、それはわからない。遊乃はまだ、リュウコのことを何も知らないと、痛感させられた。


「偶然、具合が悪くなったとか、ですかね」

「……だといいがな」


 おそらく、リュウコはあの時代に生まれた、あるいは活動していたキャファーである。もしかしたら、人類と戦っていた過去でもあるのかもしれない。

 そう察していたが、この場では無関係な女性もいるし、なによりリュウコがどう受け止めるかわからなかったので、それ以上口にはしなかった。


 別にリュウコが何者であっても構わない。

 それが、遊乃の考えだから。


「……申し訳ありません、ご主人様」


 そう言って、リュウコは薄く目を開き、遊乃を見つめた。

『ご主人様』という言葉に、係員が少し驚いていたが、最低限空気を読み、何も言わない。


「気にするな。お前にだって、そういうことくらいあるだろ」

「いえ、従者として、主人に運んでもらうなど、メイドの恥です」

「そもそも、お前はメイドじゃない。仲間だ。気にするなと言っている」

「……はい」


 体を起こすと、リュウコは小さくため息を吐いた。


「一体、どうしたのでしょう……なぜ、あの絵を見て、あんなに……」

「まだ寝てた方がいいですよ。メイドさん……なんですか? 日頃の疲れが出たのかもですよ」

「あぁ、それもあるかもな」


 普段ならば「俺様はそんなにコキ使っとらん」と言うところだが、今はリュウコが余計なことを考えないのであれば、それに乗っかるのが最善だと思い、合わせる。

 だが、リュウコはさすがに、そんな遊乃の言葉が不自然だと感じ取ったのだろう。ちらりと遊乃を見て「なぜそうおっしゃるのです。普段通り、軽口を叩いてくださらないのですか」と、寂しげに顔を沈めた。


「軽口なんて叩いとらん。いつも通りだ。……それに、疲れてるかもと、今日はここに来たんだろうが」

「ご主人様は、何かに気づいたのではないですか。私に言いにくい、何かを」

「あぁ……かもしれんな。もしかしたら、だったりして、と思っただけだ」


 横に立っていた係員の女性が、軽蔑したような顔で遊乃を見る。なぜ体調を心配しているのにそんな目を向けられるのか、彼にはさっぱりわからない。


「あの日……? 何を、わけのわからないことを……」


 だが、そもそもそんな日など無いらしいリュウコ(あっても自覚していないか)には、わけがわからず、首を傾げていた。


「それこそ、軽口ではないですか」

「うるさいぞ。いいから、自分の体調をよくすることだけ考えろ」

「体調なら、もう大丈夫です……」


 そう言って、リュウコは立ち上がろうとするが、ふらりと体勢を崩し、倒れかける。それを遊乃が支えた。

 リュウコ的に言うのならば、恥の上塗りという形になる。


「さ、触らないでください」


 リュウコは、遊乃の手を、力の入っていない動作に振り払い、倒れ込むようにソファへ腰を下ろす。


「私の気持ちなど、ご主人様にはわかりませんよ……がある、ご主人様には」

「はあ?」


 その言葉は、遊乃のあまり触れられることのない、怒りの琴線に触れた。


「自分なんてのは、自分で決めるもんだ。お前はそこにいるだろうが。それに、気持ちがわからないなんて当たり前だ。お前、俺に気持ちなんて言ったことあるか」


 力のある視線でリュウコを睨む遊乃。

 それとは逆に、力のない視線で、遊乃を見つめるリュウコ。


 二人は今、明らかに喧嘩の一歩手前まで来ていた。


「はいはいはいはい!」


 だが、そんな二人の間に割って入ったのが、係員の女性だった。

 手を叩き、声を出し、二人の注目を集める。


「まったくもう。体調悪いっていうんだったら、おとなしくしててください。あなたも、メイドさんの体調が悪いんだから、そんな挑発しない」


 年上の女性にそんな風に怒られると、無意識に申し訳なさが湧き出し、遊乃は「……わかった。すまん」と言って、部屋の隅へ行き、壁に体を預け、目を閉じた。


 喧嘩にならないよう、離れたのだ。これが彼なりの気遣いである。


 そして、リュウコと喧嘩になる前に止めてくれた、係員の女性に、小さく頭を下げた。


 その空気を読まない対応に救われたのは、確かだったから。

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