第十八話 取り戻すセカイ

 封印されている魔王を前にしてハインスはマリーの生存を確認し、心の中を覗いた。それは融合したマリーの意思を感じ取った証拠であった。


「マリーは今でもこの世界の未来を心配してたよ。本当に心が強い」


「元気そうならば何も言うことはない。このまま封印する。下がってくれ」


「ガド……。少し言いづらいんだけど……」


「何だ? ハインス」 


「闇の精霊の長老の寿命が近いのかもしれない。彼女の心も覗いた。相変わらず歪んだ理想を呟いていたよ。それと……次の長老のことが見えた」


「そうか……。だが、今は我慢するしかない……。寿命はまだ先だと思っていたんだがな……」


「彼女だって必死なんだよ。この封印を解こうと常にもがいている。魔力だって相当消費するだろう。それが寿命を縮めているんだ」


「どちらにせよ。急がないといけないことには変わりない。だが、今は何もできない……。―――では、新しい封印の結界を張る」


 苦渋の表情を見せるガッシュフォードは詠唱を始めた。それを見てハインスは無言で後ろに下がる。


 目の前には変わり果てたマリーの姿。それを前にして再び封印の儀が始まる。


 だが、ここで予想されていない出来事が起きた。いや。予想はある程度あったのかもしれない。それでも可能性というだけの憶測のもののはずだった。


「―――っ!」


 いち早くそれに気づいたのは緋翠だ。魔王に背を向けていた緋翠はその男の存在を今になって認識した。ずっとその方向を見ていて気づけない訳がなかった。


 だが、何もないところから突如現れたその男は歩み寄り、笑みを浮かべる。


「くくく……。そのまま封印するつもりなら邪魔をせざる得ないなぁ―――」


 落ち着いた低い声。その男の声はキャムの村に響き渡る。それに気づいたガッシュフォードは詠唱を止める。そして、皆が振り返った。


「誰だ?」


 ハインスの問いかけにその男はニヤリと笑った。


「僕が誰かは今は問題ではない。そろそろ長老を返してもらわないとこちらも困る。いろいろとやることもあるんだ。僕は野蛮なことは嫌いな質でね。争いは好まない。これでも一応、お願いしているつもりだが?」


 皆の目の前には背の高いスーツの男。そして、その男の肩には小さい闇の精霊。ちょうどナズくらいのサイズの闇の精霊が足を組んで座っていた。


「リーちゃんっ!」


 緋翠が感情的に叫んだその名前は、かつて天と契約したリンダという闇の精霊の女の子の名前だった。それにはハインスも驚いていた。


「ひ、緋翠。あれはリンダじゃない……。け、けど……似ている……」


 緋翠の呼びかけに気づいたその闇の精霊は冷たい目を向ける。


「はぁ? あんた誰? 私の名前を気安く呼ばないでくれない?」


「き、君はリーちゃんだろ? 生まれ変わったのかい?」


「ミッチー。あの女うるさいんだけど……消してくれない?」


「まぁまぁ。ここは僕に任せてくれないか?」


「別にいいけど。さっさとやってよね」


 そう言って闇の精霊は姿を消した。男が皆に近づく。


 それを見た緋翠はその男に筆を走らせようとした時だった。緋翠は動きを止めた。というよりは何者かの力で体が言うことを聞かなかった。そればかりか緋翠の筆を持った右手は勝手に何かを描き始めた。


「な、何を……。みんな! 離れ……―――っ!」


 緋翠が描いたのは魔王の姿。もちろん、緋翠の意思で描かれたものではない。それはかつて伝説のパーティーが戦った時の姿そのものだった。


 そして、現れた魔王は恍惚の笑みを浮かべて男に寄り添う。


「悪いけど。争いは好まないと言っただろ? これ以上何かする気ならこちらも抗わなければならない。えーっと……。ガッシュフォードにハインスだっけ? もう一度だけ言う。僕の精霊ルナミスティアを……長老を返してもらいたい」


 二人は動けなかった。緋翠にしたことでさえ何かわからないうちはうかつに手を出せなかった。それ以前に魔力の全く持たないその男がそれを可能にしたことに疑問さえ覚えていた。


 ガッシュフォードは眼鏡を直し、男を睨んだ。


「好戦的でないというのならまずは緋翠を自由にしろ。こちらもこの状況で事を構えるつもりはない」


「ガ、ガド! こいつは敵だぞ!」


「ハインス。この男が何者であるかは知らん。だが、危険なやつには変わりはない。黙って俺の目を見ろ」


「な、何を言っている……。ガ、ガド―――?」


 ハインスはそれ以上何も言うことはなかった。ガッシュフォードのそれは合図だった。誰にもわからない意思の伝達方法。ハインスだけが可能なそれはガッシュフォードの無言のメッセージを受け取る。


「なるほど。ガッシュフォード。君が一番僕の話を理解してくれそうだね? さぁ、答えを聞かせてもらおうか」


 その時、その男の側面にいたルアスバーグが動いた。魔王の魔力に慣れ始めた彼はずっと様子を伺っていた。体さえ自由に動かせればその男を始末できると考えていたルアスバーグはランスの先端をその男の首に突き立てる。


「お前の目的は何だ? 緋翠を離せ。さもなくば……」


 男はその状況で笑っていた。額に手のひらを当て高笑う。


「―――くっくっくっ。おいおい……。ガッシュフォード。お前の答えはこいつのしていることと受けとってもいいのか? さっき言ったよなぁ? 僕は争いは好まないと……。だが。あくまでもやる気ならここにいる全員今すぐ殺すぞ?」


 男はガッシュフォードを睨む。


 ――く、くそ……。こいつの自信はなんなんだ……。ルアスの槍を目の前にして臆する様子もない。そればかりか何か絶対的な自信さえ伺える。今はこらえるしかない……。必ず隙が生まれるはずだ。


「ルアスっ! やめるんだっ!」


「し、しかし……。このままでは……」


「いいからそれを下ろせっ!」


「く……くそっ!」


 ルアスバーグはランスを男の首から引いた。その瞬間、ルアスバーグはその場に転ぶ。誰がどう見ても不自然な転び方だ。仰向けになったルアスバーグの首元には自らのランスが突き立てられていた。首からわずか二ミリといった距離にランスの先端は浮いていた。


「怖いだろ? 自分でしたことを自分でされてどうだ? 動いたらどうなるかはわかるよなぁ? ガッシュフォード……。少し勘違いしていないか? その気になればここにいる連中ぐらい一瞬で殺せるんだ。……この僕にくだらない手間をかけせるなっ!」


 男は豹変したかのように声を荒げる。


「す、すまない……。だが、闇の精霊の長老には我々の仲間が融合している。そのまま返すことはできない」


「あー……。あの小っちゃい女か。あれはあれで邪魔だ。ではこうしよう。あの女の融合を解いてやる。その代わりにルナミスティアは返してもらう。それでどうだ?」


「そ、それは願ってもないが……。再び世界を混乱に招くのであればそれはできない……。お前はなぜ人族を襲う。たとえそれが闇の精霊の宿命だとしてもそれだけはさせるつもりはない」


「はっ……。笑わせるな。そのおかげでお前らが今の地位を手に入れている。世界を創るためのただの遊びだろう? そのおかげで王国も発展しただろうが。あの時は僕が負け、お前らが勝っただけの話だ」


「あ、遊びだとっ! そのためにマリーは家族を失い、多くの犠牲を払ってきたんだっ。それを遊びだとっ! き、貴様っ!」


「犠牲ね……。生きる価値のない者の命など犠牲などと呼ばない。くくっ……。そういう意味じゃルナミスティアに融合している女も価値はないのも同然だ。正直……。お前らが女のためにしていることなんて無意味なんだよ」


「ゆ、許さん……。貴様―――っ!」


 その時のガッシュフォードは冷静ではなかった。誰も見たことのない狂気の表情のまま男に飛び掛かる。


「ふっ……。どいつもこいつも……」


「ガドっ!」


 ハインスはガッシュフォードを止める。


「落ち着け。ガドっ!」


「あ、あいつはマリーをっ!」


「いいから落ち着けっ! お前の心は読んだ。その時を待つんだ」


 ハインスに抑え込まれたガッシュフォードは眼鏡を直した。


「あ、あぁ……。すまない」 


 その様子を見ていた男は緋翠の描いた魔王を抱き寄せ口づけをしていた。それは魔力も持たないただの人形。意思もなければただそこにいるだけのもの。そして、魔王は口づけと共に姿を消した。


「ルナミスティアは僕の大事な人だ。彼女がいなくなってからの僕の気持ちは……。愛する人が失われる悲しみがお前らにわかるか? 僕はずっとこの時を待っていた。これが最後だ。女は返す。それと引き換えにルナミスティアの封印を解いてもらう。これ以上の猶予はないと思え。決めろっ!」


 ここで、ここまで黙っていたハインスが動いた。


 ハインスが先程ガッシュフォードから受け取ったメッセージ。すなわち、ガッシュフォードの心の中でハインスに伝えたメッセージは―――


「ハインス。もしかしたらマリーの融合が解けるかもしれん。私の生徒の融合を解いたのもおそらくはこの異世界者だろう。だが、こいつの能力のわからないうちは手は出せない。私がこいつを誘導する。マリーの融合が解かれたその時に攻撃を仕掛ける。お前はお前にしかできないことを頼む」


 このメッセージはガッシュフォードの心の中を見たハインスにしかわからないことであった。そして、ずっと黙っていたのには訳があった。


「こちらとしてはマリーが帰ってくるのなら何も問題はない。しかし、魔王の封印を解いてここで暴れられても国王としては困るんだ。そこで、こちらからも条件を出させてもらう」


「ハインス。お前も勘違いしているのか?」


「そんなことはないさ。愛する人と離れ離れが辛いのはとてもよくわかるからね。そして、これはギラナダを治める国王としての交渉のつもりだ。無理強いするつもりはないよ」


「ふっ……。意外と話がわかるみたいだな? まぁいい、その条件を言ってみろ」


 ここら辺のハインスの言動は幾度となく交渉を交わしてきた国王の片りんを見せていた。実際、ハインスは若いながら数多くの国々と対等に渡り合ってきた。心の中を見ずとも互いの求めているものが何なのかさえわかればハインスの饒舌で大抵の交渉は可能だった。


 ハインスの出した条件は。


「……互いの身の安全を保証すること。それだけさ」


「ふははは……。何を言い出すかと思えば……。くくっ……。僕に手を出せないのを知っててその条件か? 笑わせるな」


「飲むのか? 飲まないのか? 飲むのならこの場ではお前の命は保証してやる」


 男は今にも吹き出しそうなのを我慢し、口を手で覆い隠していた。理由は簡単だ。互いの身の安全といっても自らに危害を加えることは不可能だと思っていたからだ。

 事実、緋翠とルアスバーグは何者かにすでに囚われていた。残る三人を見ても絶対に手を出せないという自負が男を笑わせていた。


「……いいだろう。どちらにしても封印を解かなければ女は返せないからな。では封印を解け」


「では交渉成立だ。ガドっ」


「う、うむ……」


 ガッシュフォードが詠唱を始めると魔王の拘束が徐々に解かれていった。剥がれ落ちていく無数の札。ゆっくりと解けていくロープ。そして、闇の精霊の長老ルナミスティアが姿を現す。美しいその姿は七年前と一つも変わっていなかった。


 ルナミスティアはゆっくりと瞼を開く。


「おぉ……ルナミスティア……。会いたかった……」


 男はルナミスティアを見上げて一筋の涙を流していた。懐かしむその目は真っ直ぐルナミスティアを見つめる。―――そして、ニヤリと笑う。


「いやぁ……。お前らがバカで助かった。小さい女は一緒に連れて帰って後で始末をつけてやる。といってもお前らもここで果てるんだがな……」


「き、気様っ! 約束が違うぞっ!」


 ガッシュフォードは叫びながら男の胸ぐらを掴んだ。


「…………互いの身の安全を保障するか……。実にくだらない条件だ。……ガッシュフォード。お前はルナミスティアにとって邪魔だ。死ね―――」


 男はガッシュフォードの手をねじ伏せその場に転がした。寝転んだガッシュフォードの顔面をその男が足で抑えつける。ガッシュフォードは動くことすらできずにいた。身動きがとれないのは緋翠やルアスバーグにその男がした得体のしれない何かだ。


 屈辱に満ちた顔を踏まれるガッシュフォードを見てハインスが口を開く。


「ガドにこれ以上手を出すならお前……死ぬぞ?」


 男の動きはハインスの一言で止まった。ハインスが口にした言葉は自らの交渉での約束事だ。

『互いの身の安全を保障する』

 男がそれを破ろうとしたことでハインスもそれを破るというもの。


 そして、男は何かに気づいた。


「なるほど……。ただのバカじゃないみたいだな……」


 ガッシュフォードから足を離した男は自分に手を出せないという自負に反省をしていた。


 ハインスがずっと黙っていた理由はこれだ。闇の精霊の長老を使い、人族を襲わせるほどの男が黙ってマリーを返す訳がないと思っていた。ガッシュフォードからの「お前はお前にしかできないことを頼む」というのはハインスが男の心を覗くこと。それと。


「お前が魔王を愛しているのはよくわかるよ。けどね……。僕の愛する彼女たちもとても素晴らしいと思わないかい?」


 ハインスは心を覗いた上で男の嘘を見抜いていた。そして、自らの五精全てをすでに男に差し向けていた。ハインスの精霊たちは姿を現し、男を取り囲む。


「美しいだろ? この子たちは僕のためなら何だってしてくれるんだ。君の命を奪うこともね……」


 男は突然笑い始めた。


「あははは。面白い……。面白いぞハインス! 褒めてやる」


「そりゃどうも……」


 ハインスの作戦は見事だった。精霊は五神と七精とは争わない。かつて闇の精霊の長老がアブドゥース―の里に魔王として現れた時も虹の精霊の長老とは争わなかった。魔力では勝てないのはもちろんのこと。精霊同士の争いは世界の終わりを示しているからだ。


 故に闇の精霊の長老は間接的に人族を襲った。そして、ハインスは今、間接的にその男を包囲していた。闇の精霊が人族を襲った時のように。


 男がハインスの行動に気づかなかったのはガッシュフォードの見抜いた「この異世界者は―――」という言葉。魔力の感知できないこの男はハインスが交渉しながら仕込んでいたこの行動に気づけなかった。


「益のない交渉はしない。それと、条件を違える交渉もね」


「ふっ……。では女は解放してやろう」


 そう言うと男は何かを呟いて振り向いて歩き始めた。


「ど、どこへ行く!」


 男は振り向くことなく片手を挙げた。


「女は解放した。行くぞ。ルナミスティア」


 その呼びかけに魔王は男の側に一瞬で移動する。少しよろよろとした様子で男の隣へと立った。


「ミチヒコ様……わ、わらわは……」


「あまり気にするな。今日は機嫌が良い。久しぶりにお前に会えたからな」


 それと同時に緋翠、ルアスバーグ、ガッシュフォードの体の自由が元に戻る。緋翠は追いかけるように走り出す。それを見たハインスが緋翠を抱きしめて止めた。


「ハーちゃんっ! 邪魔するなっ! あいつは殺すっ!」


「緋翠……。お前も命は大事にしてくれ……。これ以上、誰かが傷つくところは見たくない……」


「うるさいっ! 離せっ! ハーちゃんっ! んんっ―――」


 ハインスは緋翠に口づけをした。だが、緋翠は突然のことにハインスの体を引きはがす。その時のハインスの表情を見て緋翠は我に返っていた。


「頼む……緋翠……。俺の前からいなくならないでくれ……」


「ハ、ハーちゃん……」


 魔王の拘束されていた場所に横たわる一人の女の子。融合の解かれたマリーだ。


 ずっと傍観していた小羽とナズはその女の子の側にいた。傍観していたというよりは動けなかった。自己防衛のためでもない。ただ怖くて動けなかっただけ。


 緋翠やルアスバーグが動けないのを見て黙っているしか選択肢はなかった。

 だが、魔王が男に呼ばれて移動した時に小羽は足を動かした。その女の子が現れた瞬間にだ。そして、女の子を抱き起こして無意識に叫んでいた。


「マリーさんっ! しっかりしてください! マリーさんっ!」


 そして、四人が小羽に近寄る。


 ガッシュフォードとハインスと緋翠は涙を流していた。


 やがて、マリーは目を開いた。


「マ、マリーさん……」


「あ、あなたは? あっ……」


 マリーは泣いている三人に目をやった。そして、自身も涙を流す。


「ガッシュ君。ハインス君。緋翠ちゃん……」


 ガッシュフォードは笑顔を見せる。そして、涙が溢れ出る。


「こ、このバカ野郎……。禁忌の魔術なんか……ううっ……」


「ご、ごめん……」


「マリー……。無事で良かったよ……。本当に良かった……」 


 緋翠はゆっくりと近づき、小羽の抱き起こしたマリーを抱きしめた。


「緋翠ちゃん……。か、体の具合は大丈夫?」


「マーちゃん……。マーちゃん……。ううっ……うわーん……」


 緋翠の震える体をマリーは力弱く抱きしめた。


 そこにはかつての姿のままのマリー。小さいままのあの時のマリーがいた。


「マリー……。お前は大丈夫なのか?」


「う、うん……。体は何ともないみたい。ガッシュ君。また背が伸びた?」


「お前が伸びないだけだ。さぁ……。帰ろう」


「うん……。天君は? ここにはいないんだね?」


「天は古の言い伝えの五神の玉を集めている。全てはお前のためにな……」


「そうなんだ。会いたかったな……」


「これからはいつでも会える……」


 マリーを取り戻した皆はハインス城へと戻った。


 ずっと魔王に融合していたマリーは自分の体では歩くこともできないほど筋肉は衰弱していたため、しばらく療養の身となった。その付き添いとして緋翠が側にいることを買って出た。


 ガッシュフォードと小羽とナズは学園に戻った。ルアスバーグも騎士団に戻り、ハインスもまた国王としての忙しい日々を過ごしていた。


 元に戻ったといえば戻ったのだが。マリーの融合が解かれてから十日ほど経ったある日、ハインスはルアスバーグを王の間へ呼んだ。


「ハインス様。お呼びでしょうか?」


「ルアス。魔王更新の儀はご苦労だったな」


「いえ、皆が無事で戻ったことがなによりです。ハインス様のあの機転はお見事でございました」


「あのぐらいは大したことじゃないよ。マリーも無事に戻ってきたしな。もう何も言うことはないと言いたいんだけど……」


「あの男が何者なのか……。ですね?」


「あぁ。それに、あの異世界者がなぜ闇の精霊の長老が契約したかだ」


「あの男は見えない何かを使ってきました……くそっ……」


 悔しがるルアスバーグは王の間の床を拳で叩く。


「ルアス。そう悔しがるな。これで振り出しに戻っただけの話だ」


「し、しかし……。これでまた魔王は人族を襲うことに」


「当分はありえないな。魔王の魔力もそこまでではなかった。しばらくは何もしてこないだろう。いや……できないと言った方が正しいのかもな」


「あ、あの恐ろしい魔力で本気ではないのですか?」


「あぁ。半分以下だ」


「そ、そんな……。で、では本気を出されては……」


「そうだな。けど僕たちも本気ではなかった。魔王だけなら今の僕たちでも倒せるかもしれない……。魔王一人だけならな……」


「…………」


 ルアスバーグは体の震えを抑えていた。あれだけの魔力で半分以下と聞いただけであの時の恐怖が体の震えを呼び起こしていた。そして、その魔王を従えたあの男の底のしれない力に新たな恐怖を覚えずにはいられなかった。


 少しの沈黙の後。ハインスは神妙な面持ちで口を開く。


「それで……。お前に頼みがある」


「た、頼みですか……」


「あぁ……僕個人として少し旅に出たい。アリスに代理としてギラナダの国王をやってもらうつもりだ。アリスに協力してこのギラナダを守ってほしい」


「ハ、ハインス様が旅……。ど、どちらに?」


「まだはっきりは決めてない。目的は決まっているけどな。僕のわがままなのは許してほしい。けど、あいつを仕留めるためには必要なことだと思っている」


「そ、それならば……。マ、マリー様と緋翠様は?」


「あの二人は王国に残ってもらう。まだ本調子に戻るには時間がかかるだろう。それに……あの二人にもう冒険はさせたくない。これは僕とガドの願いでもある」


 少しの間を空けてルアスバーグはハインスに問う。


「あ、あの……失礼ながら……。ハインス様は緋翠様が……」


「僕だって愛している人を守りたい……。それにギラナダだって守りたいさ」


 ハインスは笑っていた。いつものお調子者の笑顔ではなく、何かを決意し、それを成し遂げようとする笑顔。無邪気とは違う目的のはっきりとしたその表情を見てルアスバーグは何も言えなくなっていた。


 ハインスはその夜。アリスにもそのことを伝えた。


 当然のようにアリスは反対した。だが、ハインスのその表情を見てアリスは一つの決断をせざる得なかった。それは兄との決別。シュタイン家のこれまでの血を良く思っていなかったハインスはアリスに対して。

「アリス。シュタイン家の血は途絶えてもいい。これまで辛い思いをさせてすまなかった。僕はアリスを愛している。でも、それは妹として……家族としてだ。アリスが誰を愛するのかはもう自由なんだよ……」

と言った。


 アリスも薄々は気づいていた。身内によって守られていた血の呪縛はハインス城に来てから外の世界を知ったアリスにとっては非常識的でありえないものとなっていたからだ。


 そして、アリスは涙を拭い、ハインスの目を見てこう言い返したという。


「アリスは……ハス兄を今でも愛しています。ですが……。このギラナダも愛しています。国王の妹として必ずや王国を守ることを約束します。だからハス兄も約束して? 必ず無事に帰ってくると……」


 ハインスはその言葉に最後の口づけを交わした。


 まだ子供だと思っていた妹アリスの心を覗かなくてもわかるその表情から取れる決断は兄として、一人の男として、アリスシュタインを一人の大人として認めた。


 一方で兄との決別を決めたアリスの唇は震えていた。そして、涙が溢れ出ていた。だが、アリスは幸せだった。一人の女として認められたことに素直に喜びを感じていた。


 その長い口づけを最後にアリスの初恋は幕を閉じた。


 そして、ハインスは王国の仕事を片付けてアリスを国王代理として据え、姿を消した。


 何も知らないマリーと緋翠にはそのことを告げずに。

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