第十話 筆が奏でるセカイ

 ガッシュフォードは結界を解き、イナビを睨みつける。


 結界を解いた理由は大魔術を発動させるために自らの魔力を集約させるためだ。いかにガッシュフォードが伝説の大賢者と呼ばれているとはいえ、魔力の勝負ではイナビには勝てないであろう。だが、ガッシュフォードには揺るぎない勝算があった。


 ――多少の眠りでは魔力を全て回復できまい……。天に会ったことを後悔するがよい。


 天が小羽と共にGMAにイナビの玉を持ってきた時点でイナビ自身は魔力を奪われたのと同じことであった。そして、それを回復するために眠りについたところを魔族に種を植え付けられたのだと確信していた。そうでなければただの魔族がイナビに近寄ることなど不可能だ。神の五分の魔力ならばとガッシュフォードは自らの魔力を増幅させる。


 イナビは急激に膨らんだ魔力に敏感に反応し、ガッシュフォードの目の前に降り立った。


 すでにガッシュフォードは大魔術の詠唱を始めていた。大魔術は普通の魔術より詠唱時間が長く、魔力を大量に消費する。

 そして、強力過ぎるために周りを巻き込む恐れがあった。大魔術を発動させるのは誰でも可能だ。その魔術の詠唱コード。すなわち、呪文。それに伴う魔力があれば発動はできる。だが、並の魔導士はその力を持て余し、暴発させてしまう。

 魔術は派手で華やかに見えてもそれを完全に使いこなすのは難しい。

 これは魔導全般に言えることだ。色魔導も発動しなければ時間の無駄。詠唱魔導もコントロールできなければ不発や巻き添えなど、危険な行為であることには違いなかった。


 ガッシュフォードが大賢者と呼ばれる所以ゆえんはそこにある。コントロールの難しい大魔術を普通の魔術のように当たり前に使いこなす。そこには冷静な判断力と観察力。そして、ガッシュフォードの魔術に対しての想いがあった。


 だが、それを待っているイナビではない。イナビは長い尻尾をガッシュフォードへと振り回す。ガッシュフォードは上空へ飛び上がりそれをかわした。だが、イナビの目から出ている触手がガッシュフォードの足に絡みつく。片足にシュルシュルと巻き付いた触手はビクビクと脈を打つ。


 ――ふむ……。これがあの種の成長したものか。この触手自体に意思はありそうだな。手始めにこの種を消滅させてやろう……。


 その動きを冷静に観察しているガッシュフォードの体にも触手は絡みつく。すでに下半身は触手に覆われていた。


 遠くからそれを見ていたハインスは焦りを感じていた。


「ガドのやつ。一人で大丈夫か? 天に対抗しやがって……。あの負けず嫌いが……」


「だ、大丈夫でしょうか?」


「イナビ本体をどうにかするのは難しいだろうな。ガドはこの世界の神に対しての信仰が強い。おそらく五神への攻撃は必要最低限に抑えるはずだ。手加減して勝てる相手じゃないのはわかってても……だ」


 ハインスの不安そうな表情を察して小羽は突然立ち上がり、足に何かを描き始めた。


「ガ、ガッシュフォードさんを助けましょう! 私は行きます!」


 小羽は一人、その場から走り出した。


「ちょっとっ。小羽っ!」


「小羽ちゃん! 戻れ! ……って早っ!」


 ハインスが驚くのも無理もない。小羽の走る速度は異常だった。もちろん。自分の足に色魔導を使っていた。あっという間にイナビのもとへたどり着くとイナビの全身に何かを描き始める。


 小羽に気づいたガッシュフォードは思わず詠唱を止め、叫んだ。


「い、一色小羽! 何をしている! 戻れっ!」


「ガッシュフォードさんを見殺しにできません! ニルさんのためにも!」


「いいから戻れっ!」


 ――くそっ! 詠唱を途中で止めてしまった。触手ごと片目を爆発させようとしたのだが……もう間に合わん。


 イナビは小羽に気づくと尻尾を振り回し始めた。小羽はそれに気づくも描くのを止めなかった。


 ――お願い! 間に合ってっ!


 小羽の描いているのは鎖だ。イナビの体中にぐるぐると巻き付く鎖。最初に描き始めた鎖はすでに現れ始めていた。イナビは尻尾を一度丸めて小羽めがけて振り回した。


「一色小羽っ!」


 身動きのできない体でガッシュフォードは叫んだ。


「ま、間に合った……」


 土煙の中、安堵した小羽の声が聞こえる。


 小羽の目の前には白いキラキラした尻尾。モフモフしたそれは美しくも小羽の目前まで迫っていた。なんとかギリギリのところでイナビの動きは封じた。だが、安堵したのも束の間。ガッシュフォードは増殖する触手に飲まれ始めていた。


「逃げ……―――」


 ガッシュフォードの全身を包んだ触手は片目から新しい触手をどんどん増やしていた。


「ガ、ガッシュフォードさん! そ、そんな……。イナビの動きは封じたのに……。ど、どうすれば……」


 なす術のない小羽は焦っていた。だが、それを見ていたナズは声をあげる。


「小羽ってば凄いっ! ねっ? ハインス」


「いや……。確かにイナビを封じたのは凄いけど。ガドが危ない……。小羽ちゃんが側にいる以上、ガドは大魔術を発動できない……」


 無邪気なナズに対してハインスは冷静に見ていた。おそらく触手に飲み込まれたとはいえ、ガッシュフォードがその種を消滅させるのは容易に可能だ。だが、視界を奪われてしまえば直接攻撃は難しい。イナビを傷つけないようにそれをやるのはもはや不可能だ。だが、今イナビを巻き込むということは小羽を巻き込むのと同じ。このまま大魔術を発動させれば小羽は確実に巻き込まれる。ハインスはガッシュフォードをよく知っているからこそ危惧していた。


「小羽ちゃんっ! 戻れ! 戻ってこいっ!」


 ハインスの声は小羽に届いてはいなかった。ガッシュフォードが飲まれていく様を小羽は何とかしなければと焦り、見上げていた。


 ――な、何か方法が……。


 だが、小羽にはそれをどうすることもできずにいた。その時。


 ―――ザサ……。 


 足音と共に小羽の隣に一人の女性が突然現れた。小羽に目もくれずに上を見上げる。


 女性はきれいな着物を着て、髪を後ろで束ねていた。背も高く、派手な柄の漆黒の着物に似合う色白の美人。その姿はどこか懐かしくも時代劇にでも出てくるような装い。小羽はその女性に気づいた瞬間、釘付けになっていた。


 女性は上を見上げてぶつぶつと何かを呟いている。小羽はその横顔に見惚れながらも思わず声を発する。


「……えっ? だ、誰……?」


 その女性はニコリと笑いながら口を開いた。小羽を見つめる女性は何ともなまめかしくもどこを見ているかわからない虚ろな目をしていた。


 そして、艶のあるその唇を開いた。


「発想は悪くはない……でも、詰めが甘いよ……」


 そう言いながら女性は胸元から筆を取り出した。派手な筆管の魔導筆。スーっとしゃがみ込んで地面に何かを描き始めた。


 ――い、色魔導? そ、そんなところに描いても……。


「な、何をしているんですか? は、早く助けないと!」


「見ていればわかるよ。少し離れた方がいい」


 女性は振り返り、その場を少し離れた。小羽も言われた通りに離れる。


 突然、地面からぴょこんと芽が飛び出した。二つの小さな葉をつけた緑の新芽だ。


「うん。上出来だ」


「こ、これは……。な、何の意味があるんですか! ガッシュフォードさんが死んじゃいます!」


「…………」


 焦る小羽をよそに女性の口元は笑っていた。


 小羽がその芽に目線を映した瞬間だった。その芽は一瞬で成長を遂げる。凄まじい勢いで一気に空まで伸びた芽はイナビの体ごと触手の生えた片目を貫いた。ビクビクと痙攣した触手は動きを止める。それを確かめた女性はさらに地面に何かを描き始めた。その姿は優雅だった。次の動作に全く無駄のない動き。流れるような筆使いを見せる。


 ガッシュフォードを包んでいた触手は力を失い、巻きついていた体からゆっくりと朽ちて剥がれ落ちていく。当然のようにガッシュフォードはその場から真っ逆さまに落下する。


「あ、危ないっ!」


 小羽は急いで筆を取るも間に合わなかった。


 だが。女性の描いたその地面から新しい芽が現れ、みるみる成長を遂げた。それは葉をたくさんつけた見たこともない草。幹を持たない大きい葉だけをつけた草だ。ガッシュフォードはその上に落下した。しばらくしてガサガサとその草の中から葉をかきわけてガッシュフォードが立ち上がる。それを見て小羽は心配そうに叫ぶ。


「ガ、ガッシュフォードさんっ!」


 ガッシュフォードは無言で体についた葉をはらい、女性に近づき、眼鏡を直す。


「相変わらず独創的で素晴らしいな。どうしてここに?」


「珍しく警報が鳴っただろ? グロールの村の警報はイナビが出る時にしか鳴らないからね」


「そうか。ここにはよく来るのか?」


「たまに買い物しに来るぐらいだよ。久しぶりだね? ガーちゃん」


 何事もなかったかのように話し込む二人を見て小羽は言葉を失っていた。


「え、えーっと……」


「あぁ。一色小羽は初めてだったな。こいつが緋翠だ」


「初めましてではないけどね。よく来たね。一色小羽ちゃん」


 ニコリと笑う緋翠に対して、小羽は恐縮そうにお辞儀をする。


「は、初めまして……えっ? 初めましてではないってどういうことですか? ま、前にどこかで……」


「この世界に来た時に話をしたじゃないか。といっても一方的だったけどね」


「あっ……。あの声の人……ですか?」


「そうだよ。その声の人だよ。君はあたしに誘導されてガーちゃんに会いに行った……」


「その話は後でいい。それよりもイナビ本体はどうする?」


「それはハーちゃんが何とかしてくれるよ。ほら、ちょうど来てくれた」


 緋翠の言った通り、ハインスとナズが走り寄ってきた。ナズは小羽の腰あたりに抱きつき、ハインスは嬉しそうな笑顔を見せる。


「緋翠じゃないか。相変わらず美しいね?」


「あはは。ありがとう。ハーちゃん。イナビを森に帰してやってくれないかい? おそらく本意ではないみたいだからさ」


「そうだな……」


 ハインスは光の精霊に語りかけ、イナビを帰すように促した。五神に命を吹き込んだ光の精霊はイナビとの対話が可能だ。


 ――イナビ様は魔力の回復のため、眠りにつくでしょう……。


 自身の光の精霊の言葉にハインスは微笑んだ。


「小羽ちゃん。もう鎖を解いても大丈夫だよ」


「は、はい」


 ちょんと筆をイナビの体に当てる。ゆっくりと鎖は消え始めた。体の自由を得たイナビは浮かび上がり、黒い影の中へと戻っていった。

 やがて影は消え、辺りには太陽の光が差し込み、獣人族の民は歓声をあげていた。


 一行は少しほっとした様子で去り行くイナビを見つめていた。だが、一人、ガッシュフォードだけは眼鏡を直し、小羽に冷たい目を向ける。


「……一色小羽。緋翠がたまたま来たから良かったが……。今後、二度と勝手な行動はするなっ!」


「は、はい。す、すみませんでした……」


「ちょ、ちょっとっ! いくらガッシュフォード様でも言い過ぎよ! 小羽は助けに行ったんだからっ!」


 小羽を庇うナズの言葉にガッシュフォードは何も言い返さなかった。それを見ていたハインスはフォローを入れるように口を挟む。


「ナズちゃんの気持ちもわかるけど、ガドの言う通りさ。冒険している以上は一人の身勝手な行動が仲間を傷つける時もある。現にガドが捕まった時、小羽ちゃんは何もできなかっただろ? 冒険を知らないのは仕方ない。でも、迷惑をかけたってことぐらいわかるんじゃない?」


「で、でも!」


 ナズの言葉に小羽は首を横に振った。


「……ナズちゃん。私が悪いんだよ。ほ、本当にすみませんでした」


 小羽はガッシュフォードに頭を下げた。


「わかればいい。……学園で言ったことを忘れるな。胸に刻んでおけ!」


 ガッシュフォードはそう言い放ち、朽ち果てた触手を拾い上げ観察していた。


「こ、小羽。気にすることないよ。間違ったことはしてないじゃん」


「ありがとう。ナズちゃん。で、でも……ガッシュフォードさんは本当に優しいな……ぐすっ……」


「はあ? どこが優しいのよ。厳しいだけじゃん」


 小羽は涙を拭っていた。


 この冒険をする前に学園で小羽が言われたこと。「……この世界は命が一つしか存在しない。それを守るのも消すのも全ては自分次第だ」

 その言葉に偽りはない。命を大事にするガッシュフォードの重い言葉を小羽は頭でもわかってはいても実感はなかった。


 この世界は小羽にとってはおとぎの国。夢のような世界であり、現実ではないと思っていた。それがいかに無防備で危険なのかを小羽は身を持って知らされた。


「ひ、緋翠さんも……。ありがとうございました……」


「感謝される覚えはないよ。あたしはガーちゃんの死ぬところを見たくなかっただけ……君のためにした訳じゃない。それと……君の色魔導はまるでお遊びだね? あれじゃあ、誰も救えない……」


「わ、私は……」


「別に責めてる訳じゃないよ。これから同じような状況の時に君がどうするか楽しみだ……」


 緋翠はニコリと笑ってガッシュフォードとハインスの側に歩いていった。


「な、なんなのよ! この人たち! 伝説のパーティーだかなんだか知らないけど小羽だって頑張ってるのに!」


 ナズは頬を膨らませて怒りをあらわにしていた。それを見た小羽は後ろからナズを優しく抱きしめた。


「小羽?」


「ナズちゃん。今の私にはちゃんと理解できないけど、みんなが言ってることは間違ってないと思う。……もし、ナズちゃんが同じ状況になってたらって思うと……。私は……」


 小羽の目からは勝手に涙が流れていた。悲しい訳でもなければ泣きたい訳でもない。結局は何もできなかった悔しさが小羽の内側から溢れ出てきていた。


 ハインスが離れた場所から声をかける。


「小羽ちゃん。ナズちゃん。そろそろ行こうか。日が暮れる前に出発したい」


 その隣の緋翠は横目でため息をついていた。


「……ハーちゃん。勝手にお尻を撫でるのは止めてくれないかな?」


「ごめんごめん。緋翠のお尻は柔らかくて忘れられないんだよ」


「あはは。変わってなくて安心したよ。じゃあ。あたしの家に行こうか。グロールからもう少し西に行ったとこだよ」


 イナビの登場により、守護するイナビの森の入り口にある村との境界線として破壊されたグロールの村のことはハインスが王国にいきさつを説明し、修復の要請を促した。その際、イナビの森へいた天の捜索隊をそこに回すように騎士団へ通達した。


 ハインスは村長にもそのことを伝えた。そして―――。


「いつもイナビを見守ってくれて助かっているよ。でも……これはギラナダ王国の国王として命令させてもらう。これからはイナビの守護の強化をしてもらう。騎士団の要請が必要ならいつでも言ってくれ。これから風向きが変わる可能性もあるとだけ伝えておこう。よろしく頼んだ……村長」


 グロールの村にさりげなく警戒態勢を取らせた。村には獣人族たちによる自警団がある。村での騎士団のような存在ではあるが、その人数は年々減少傾向にあった。薄くなりつつある獣人族の血。変わりゆく時代の流れは魔王を倒した七年前から徐々に平和ボケさせていた。

 ハインスはその様子を自ら感じたからこそ一石打ったのだ。 


 それが済むと一行は緋翠を加え、馬車に乗り込む。


 馬車はゆっくりと西の地を目指して進み始めた。



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