2017年5月29日(月曜日)

 JRも私鉄も、すべてが運休していた。

 しかたなく僕は、朝から数時間かけて徒歩で坂本先輩の家へやってきた。

 東京や横浜でも、小規模な事故を発端とする連鎖的大事故が頻発し、そこら中の道路が封鎖され、不要不急の外出はしないように、という注意勧告が政府からなされている。

 その影響で、外を歩く人は少ない。

 だけれども、この事象は外に居ようが居まいが、関係なく襲ってくる。すべては運でしかない。


 祈るような気持ちで坂本先輩の家のインターフォンを押したが、反応はない。

 僕は思わず舌打ちをした。

 全部僕の杞憂かもしれない。

 坂本先輩が作ったグリモアエンジンは、いま世の中で起こっているこの未曾有の事故とは何の関係もないのかもしれない。

 すべては本当に、ただの偶然なのかもしれない。

 それでも、念のため、一度グリモアエンジンを止めてみるのは、決して悪い考えではないはずだ。それで不利益を被るのは、坂本先輩ただ一人なわけで、坂本先輩だってそれが理解できないほど愚かではない。

 しかし、コンタクトが取れなくては、どうしようもなかった。

 僕は途方に暮れて、その場にしゃがみ込んだ。


 もうここまできたら、扉を破ってでも部屋の中に入って、グリモアエンジンを壊してしまおうか。でも、果たして壊しただけで止めたことになるのだろうか? いや、壊さなくても、なにかON/OFFのスイッチがあるのではないか?


 そんな風に一人悩んでいると突然、僕の目の前で閉ざされていた坂本先輩の家の扉が、ゆっくりと開いた。

 そこには、疲れ果てた顔の坂本先輩が立っていた。

「先輩! どこに行ってたんですか! 何度も電話したんですよ!」

 僕は勢いよく立ち上がると、坂本先輩の肩を揺すった。

「世界の名所めぐりのあとね、ロンドンにね、行ってたよ……」

 坂本先輩は虚ろな瞳で答えた。

 坂本先輩の様子に違和感を覚えつつも、僕はとにかく、グリモアエンジンを止めてしまいたかったので、坂本先輩を押しのけて部屋の中へ踏み込んだ。

 そうして、一週間前にグリモアエンジンが入っていたふすまを開けた。

 しかし、そこにグリモアエンジンの姿はなかった。狭い部屋の中を見回すが、どこにもグリモアエンジンはない。

「先輩、グリモアエンジンはどこですか!?」

 部屋の入り口でぼんやり立っている先輩に、僕は尋ねた。


「グリモアエンジンを作るのに参考にした、あの無限の魔力の探求って本さ、実は続きが発刊されててさ、そこに書いてあったんだよね。グリモアエンジンは、魔力を必要としない異世界から、魔力を吸い上げる装置である。って」

「異世界から、魔力を吸い上げる?」

「そして、そのかわりに、向こうの世界へ、運を差し出すんだって」

 坂本先輩はそう言って、床に崩れ落ちた。


「グリモアエンジンはどこにやったんですか先輩」

 僕は問う。

「この世から運が無くなってしまうから、グリモアエンジンは作るべきじゃないし、動かすべきじゃない。以前に出版した無限の魔力の探求でグリモアエンジンを作ってしまった人は、今すぐ止めるべきだ。って」

 坂本先輩は僕の問いには答えず、そう続けた。

「わかりましたって! 早く止めましょう! まだ止めてないんでしょ?!」

 僕は叫んだ。

「ロンドンのさ、大英図書館の地下にさ、いろんな魔導書が所蔵されてる部屋があるんだよ。便利だけど魔力が沢山必要なやつから、もうぜんぜん、使い道がさっぱり分からないようなやつまで、いろんな魔法について書かれた本がさ、これでもかってくらい、沢山あったわけ」

 坂本先輩はぼそぼそと言う。

「古今東西のあらゆる魔法を覚えてやろうと思ってね、次々にその魔導書に書かれた魔法を覚えていったわけ。ほらもう、私の魔力は無限でしょ? 普通だったら1日1つ覚えたら限界なんだろうけど、なにせ無限で限界がないから、どんどん覚えられちゃうわけ」

 坂本先輩は細い腕で頭を抱えた。小柄な坂本先輩がそうしていると、まるで父親にしかられた少女のようだった。

「でもさ、いっぱい覚えると、何がどんな効果だったかとかさ、魔法の文法とかがさ、段々とゴチャゴチャになっていくじゃない? 特に、数日の詰め込みで覚えたりしたら、そうなるじゃない?」

 坂本先輩は呟く。

 僕は、徐々に坂本先輩が何を言おうとしているのか、わかりかけてきた。


「魔法を、唱え間違えて、グリモアエンジンを、どこか分からない場所へ転送しちゃったんだ……。だから、グリモアエンジンはもうここには無いんだ」

 坂本先輩の声は怯えた声で言った。

 目を真っ赤に腫らし、鼻水を流しながら、坂本先輩は僕に絶望に満ちた視線を投げかけた。「……どうしよう……」


「飛ばした先から、取り戻すことはできないんですか。こっちから転送したのなら、再転送だって出来るはずですよね? いや、再転送できなくても、そこに取りにいくことだって、出来るじゃないですか」

 僕は平静を保ちつつ言った。坂本先輩は、自分がやってしまったことに慌てて、冷静さを欠いているだけなのだ。まだ手遅れなんかじゃあないのだ。

 しかし、先輩は茫然とした調子を変えることなく答えた。

「宛先が分かればね。宛先が分かっていれば、とっくに取り戻しているさ。だけどね、間違えて出鱈目に唱えた魔法が、偶然正しい文法で、それでグリモアエンジンをどこかに飛ばしちゃったんだ。だから、どこに行ってしまったのか、もう分からないんだ……。ほんとはさ、ほんとはさ、グリモアエンジンを魔力を生み出す機能を持ったまま、複製しようと思ったんだよ……」


 先輩が嗚咽混じりにそう答えたときだった。部屋の片隅でつきっぱなしになっていたテレビで、唐突に大げさなアラートが鳴った。それは、これまで一度たりとも聞いた事のない、不気味な不協和音で、何か非常に嫌な予感のするものだった。

 続いて、テレビには強張った表情をした、総理大臣が映し出された。

「国民の皆様に、お知らせしなければならないことがあります」

 僕と坂本先輩は、ほぼ同時に、ごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。

「本日、地球近傍を通り過ぎるはずだった小惑星、1998SB2、通称オデュッセウスが、数十分前に突如軌道を変えました」

 総理大臣は沈痛な表情を浮かべ、一瞬言葉に詰まった。

「オデュッセウスは、まもなく大気圏に突入し、アラスカのアンカレッジ付近に衝突します」

 世界中の音が、一瞬消えたような気がした。

 総理大臣は、なぜ軌道が変わったのかは不明だとか、国民の皆様はどうぞ慌てないで下さいだとか、もはや聞いたところで意味のない言葉を続けた。

 直径127kmの、恐竜を絶滅させたものより十倍以上も大きい隕石が衝突して、慌てないでくれも糞もない。


 しかし、すべてを諦めそうになった瞬間、僕に強いひらめきが起こった。

「先輩! 無限の魔力を持つ先輩なら、オデュッセウスを止めらるんじゃないですか!」

 だが、部屋の片隅でうずくまっていた先輩は、精気の失せた瞳で僕を見上げると、こう答えた。

「もうやっているけど、やっぱり魔法を全て反射するオリハルコン合金で覆われた小惑星には、魔法が効かないみたいだ」

 

 窓の外で、何かが強く、激しく、鋭く、光った。 

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