3-2―甦る過去の痛み―

 その日の夕飯どきに満里菜から電話が入った。


「もしもし、根津珠樹さんのお宅ですか?鈴木満里菜と申しますが、珠樹さん呼んでいただけますか?」

満里菜からの電話はもちろんはじめてのことだった。珠樹の脳裏には笙との帰り道のいきさつのことが瞬時に過った。

「私です。珠樹です。どうしたの?」

「あ、珠樹ね。電話までかけちゃってごめんなさいね。でも笙君と珠樹のことが気になっちゃって、いてもたってもいられなくて」

「あ、うん……」

珠樹は一瞬返す言葉を失い押し黙った。


「ねえ、笙君と珠樹付き合うことになったの?それだけでいいから教えて。それだけ教えてくれればすっきりするの」

「笙君とは特別なことはなにもないよ」

「じゃあ、付き合うわけではないのね?」

「うん。今日は話したいことがあったみたいで」

「えっ!何だったの?話したいことって」

「今日の国語の授業のこと」

珠樹は満里菜の息急き切った息遣いにためらい、幾分でたらめを交えた思い付きで話を確信から逸らした。


「なんだ。そっかぁ、よかった」

嬉しそうな満里菜の声が受話器を通して響きわたった。


「それに今、受験期だから恋愛どころじゃないでしょ」

「笙君、そう言ってた?」

「笙君はそんなこと言ってなかったけど、私がそうだから」

「そうだよね。でも受験期でも恋愛感情ってどうにもならないよね。私は今は笙君のことで頭がいっぱい」

「私は恋愛どころじゃないの。受験のことで頭がいっぱいってわけでもないけれど」

「そっか!珠樹は恋愛どころじゃないんだよね。なら、私は笙君のこと思ってていいんだよね」

「そんなに笙君のこと思ってるなら、今度その気持ちを直接笙君に伝えてみたら?」

「え、でも……」

「無理にとは言わないけどね。私からは満里菜の気持ちを笙君には伝えられないよ。まだ満里菜が転校してきたばかりの頃、紹介してくれる?って伝えられたの憶えているけど」

「うん、わかった。じゃあ、笙君と珠樹の関係を教えて」

「関係ってほどのこともないけど、友達なのかな。でも笙君には他にも女友達いるみたいだよ」

「そうだよね。笙君、かっこいいし、ファンクラブがあるって噂も聞いたことあるし……うん、私もがんばる。ありがとう。珠樹に電話して少しすっきりした。夕飯どきじゃなかった?」

「大丈夫だよ」

「じゃあ、また明日、学校で」

珠樹が言葉を返す間もなく電話は切れた。


―満里菜の家ってどんなお宅かしら―。

受話器を置きながら、珠樹は一瞬想像を巡らせた。


「お友達から?珍しいのね」

母が珠樹の様子を伺うように言った。

「うん。何が珍しいの?」

「男の子の話題だったみたいだから」

「そうでもないよ。珍しいなんてことないよ。日常茶飯事」

「あら、そう。失礼しちゃったわね。でも受験期だからね。気をつけないと。美咲さんからはお手紙ないの?」

「美咲も受験で忙しいんじゃないかな」

珠樹は幾分ぶっきらぼうに答えると呆気にとられている母と彩菜を残してダイニングを出た。


 ひとりきりになると満里菜の声がこだまして甦ってきた。


―私は笙君のことで頭がいっぱい―。


 自分はなんであんな風に素直になれないのだろう。笙のことをいつもどこかで意識はしているが、心の奥で何かがそぐわないと反発する思いも拭いきれない。もっと素直になれたら、今よりもっと笙に近付けるかもしれないのに自分でどこか心の壁を作っているようだ。それは受験期だからといった理由もあるが、学校のアイドル的存在の笙を好きだというだけで皆の注目を浴びるのが結局怖いのだ。今は仲良しグループの中にいるのでの的になる心配はないが、それでも昔、いじめられたときの記憶が鮮明に甦ってくる。あの頃の辛い過去を胸の奥で今だ引き摺っていることに気付き、珠樹ははっとした。


―笙君に近付くのはもうやめよう。笙君のことは諦めよう―。


そう思った途端、今日の帰り道での笙とのひとときが甦ってきた。

―笙君のことは思い出にしよう。楽しい思い出に。でも明日からも学校で顔を合わせなきゃならないんだわ―。


珠樹は脳裏に複雑な思いを走らせると同時に胸苦しさを伴う強い動悸に襲われてはっとした。また自律神経失調症の発作が起こったのだろうか……。


―今日は勉強は休んで早く寝よう―。


珠樹は幾分朦朧とした意識の中で机に顔を伏せた。さっきまでのはしゃいだ気分が満里菜からの電話で一転してどんよりとした倦怠感に変わったしまったことに珠樹は自分ひとりではどうすることもできない動揺の気持ちに襲われていた。


 

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