第9話 魔人


「なあ、俺は見逃されたってことでいいんだよな」

 さっきの公園で青い空を見上げている。とにかく恨めしい。

「何か言えよ。魔人」

「だから、オジサンはオジサンだって言ってるだろう?」

 魔人の眠たげな声が俺の脳内に響く。魔人は俺の精神の中にいるらしい。

「脳内林を抜けていけ。草根をかき分け囃しをとって。ずんどこどこしょ」

「何を言ってるんだ? 少年」

「うっせえ」

 俺は帰るにも帰れなかったのだ。こんな体でどこに行けというのか…

「で? 少年のしたいことはなんだ?」

「日常に帰る」

 でも、それは無理なことだった。

「嘘つくんじゃねえよ。ガキの時よりもガキだな、少年は」

「まるで昔の俺を知っているみたいじゃねえか」

 事故以前の記憶は俺の中から消えている。事故の後遺症だという。

「昔から少年の中にいたからな」

「いつからだよ」

「さぁな!」

 ケラケラケラと魔人は笑った。顎をカクカクさせて笑っている姿が目に浮かぶ。

「少年。オジサンは少年から生まれたわけじゃないが、少年の心くらいわかってんだよ。少年も薄々分かってんだろ?」

「うるさい」

「適当にでっち上げれば事件に巻き込まれたってことで丸く収まる。丁度マザーファッカーの事件があるからそれに襲われたとか言えばな。適当な犯人の像を教えてもどうせ捕まりっこないんだ」

「うるさい」

「お前は迷ってるよ。少年」

 うるさい、と言いたかった。でも、喉が痙攣して声が出なかった。ヒクヒクと、震える。

「少年が日常に戻りたいと願っているのは分かる。でも、事件が気になっているんだろ? どうして気になっているのかまではオジサンにはわからねえがな」

 俺の心の悪魔が囁く。どうして優しくするんだよ。

「お前は俺の心が分かるんじゃねえのかよ」

「分からねえよ。少年の心まで奪ったわけじゃない。なんなら契約するか?」

「嫌だな」

 心を悪魔に売り渡せば楽になれるのだろう。でも、したくないんだ。

「どうしてお前は優しいんだ。オジサン。何を企んでる」

「世界の破滅」

 本当に信用ならねえな。

「どうやって破滅させるんだ」

「さあね。契約したら教えるかもしれねえな」

 俺はコイツに踊らされているのだろう。掌の上で転がされているのだろう。

「なあ、俺はどうすべきなんだ」

「知るかよ、少年。オジサンでもブチぎれるぞ」

「なんでだよ」

「んなもん、決まってんじゃねえか。何をすべきかなんてのは天使のすることだ。悪魔はなにをしたいかで動くもんなんだよ。少年は何をしたい。自分をどうしたい。他人をどうしたい」

 欲望を解き放て、と悪魔は囁く。

「そうだな。俺は」

 なんで悪魔に慰められてるんだよ。

「誰かが血を流すのは嫌だ。だから、マザーファッカーを止めたい」

 じいちゃんみたいに、誰かが失われるのは嫌なんだ。

「つまらねえ欲望だな。でも、今のところはそれでいいか」

 本当につまらなさそうに魔人は言った。

「なあ、オジサン。マザーファッカーについて教えてくれねえか?」

「契約するか?」

「ああ」

 魔人は狂気に満ち満ちた笑い声をあげる。

「傑作だな! どうしてそこまで他人を重視するんだ!? 少年、お前、死ぬぞ」

「死んだって構わない」

「なあ、少年。それ、二度と言うなよ」

 急に魔人は冷ややかな声で告げる。心に冷たい刃を押し付けられるほどの恐怖だった。

「少年が無茶して死んでしまっても困るからな。教えてやるよ。マザーファッカーってのはその名の通り、マザコンをこじらせた精神から生まれた悪魔だ。でも、今回は切り裂きジャック的な何かが混じっている。簡単に言えば猟奇殺人犯だな」

「人の内蔵を食ってるのか」

「元の宿主の影響なのかは知らんが。オジサンも事件のことをよく知らない。普通は女性をレイプするくらいの悪魔で、人殺しをするほど凶悪じゃない。多分、何人もの人間に乗り移ったんだろ」

「どうやったら乗り移れるんだ」

「契約だな。だが、それは上級悪魔にならないとできない。今回のマザーファッカーは異常だ。何かのイレギュラーが起ったとしか考えられない。駒を作り出すなんてA級だぞ」

「それは強いってことか?」

「能力的には、な。大抵駒を作り出すってのは副作用的なものだが。実物を拝むまでは能力なんて見極められはしねえよ」

「つまり、マザーファッカーの事件を追えばなんとかなるってことか?」

「オジサンを信用しすぎだろ、少年。オジサンは悪魔だぜ?」

「悪い奴じゃないだろ」

 一瞬の沈黙のあと、魔人はまた狂ったように笑い出した。

「ゲヘハハハハ! 忘れちゃいけねえぜ? オジサンは少年を利用しようとしてるんだ」

「わざわざそのことを告げなくてもいいだろうが」

「悪魔ってのはそういうもんでね」

 よくはわからん。

「じゃあ、次に悪魔について話してもらおうか」

「少年のキンタマを貰おう」

「もってけ」

「おいおいおい。子ども埋めないぞ」

「チンコ持ってかれるよりマシだ」

「すまん。少年の睾丸なんて要らないわ。全てを教えることはできねえが、少年の知りたいことを教えてやる。悪魔は宿主の命を奪わなければ殺せない。宿主を殺す前に他の人間と契約しちまったら、全て最初からだ」

「どうしてもか」

「どうしてもだ。あのクルスニクのお嬢様が言ってただろ」

「クルスニク?」

「おっと。口を滑らせちまったな。俺に聞くなよ。俺が殺される」

「オジサン、じゃなかったのかよ」

 大分焦ってるな。相当ヤバい話らしい。

「それと、宿主を食い尽くしてあの悪魔も相当疲弊しているみたいだな」

「どういうことだよ」

「下級の悪魔は相手を食い尽くしてしまったら消えてしまうんだよ。体を乗っ取って支配し続けることはできない。だから、今回はちょいとおかしいんだが… まあいい。他人に乗り移る前に倒さねえとまたハッスルするぞ」

「なるほどな」

 アリスは、ずっとマザーファッカーを追っていたのか。

 でも、どうして追っているんだ。吸血鬼であるということと関係があるのだろうか。

「それこそアイツに聞けばいい話か。関わりたくねえけど」

「右に同じだ」

 魔人はアリスについて知っているみたいだった。アリスもまた魔人のことを知っていた。昔、会っているのだろうか。その時に殺されかけたとかか? となると、俺とアリスは以前会っている? どこでだ? 事故に遭う前なのか?

「なあ、オジサン。約束してくれ」

「契約じゃねえと守らねえぞ」

「俺と一緒に戦ってくれないか」

「それは腕をもう一本失っても力を使うってことだぞ?」

「分かってるよ」

 そして、人殺しをするってことも。

「アリスだけにこの苦しみを背負わせるわけにはいかない」

「吸血鬼はそんなこと考えてねえとは思うが。少年の心の問題か」

 にやり、と悪魔が笑ったのがわかった。

「いいぜ。もとよりこの身体はオジサンが貰うつもりだしな」

「というか、腕持ってったら傷物じゃね?」

「そのおかげでオジサンは多少外に出られるんだよ。つまり、少年が体を売り飛ばす度、オジサンは子種をばら撒くチャンスがあるってことだ」

「下ネタかよ」

 ま、とりあえず動くことだな。

「レッドフラッシュをどこかで調達しないとな…」



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