第27話 北陸宮の純真
横浜市中区野毛町にある、神奈川県立野毛山公園内動物園総合学校の校門前には各メディアの記者やアナウンサーなどが大挙して押し寄せていた。公式な発表は全くないが、臣籍降下した北陸宮の保護先がここであるという情報が、宮内庁の一部から漏れてしまったようだ。近年、男性皇族の臣籍降下など、聞いたこともない。「現代の光源氏みたいよね」と、まだ誰もその姿を見たことがないのに、女性を中心に大騒ぎだ。だが、門扉には厳つい警備の者が十人もいて、近寄ることもできない。しかし、ここは学校だ。幼稚園から小中高大と、園児に生徒や学生、それから保護者がやってくる。マイクはそちらに向かうが、皆、ニコニコと微笑むのみで、一言も口を開いたりしない。万が一、余計なことを喋ったら、どんなことになるかを、学校伝統の噂で聞いているからだ。マスコミのフラストレーションは溜まる一方である。なので学校側に、北陸宮の記者会見を共同で申し込んだ。責任者の水沢舞子は、ひとまず、マスコミが校門前から退去すること。宮の体力が尋常でないほど衰えているのでしばらく待ってくれることを条件に北陸宮の記者会見を了承した。
さて、いつもの四畳半で北陸宮はぺこりと対面した。巨大なぺこりの恐ろしげな姿を見ても、北陸宮は全く動揺しなかった。なぜなら彼はクマという凶暴な生き物を知らなかったのだ。だから、
「おいらは、よろしくま・ぺこりと申します」
とぺこりが喋っても一向に驚くことなく、
「北陸宮忠仁(ほくりくのみや・ただひと)でございます」
と普通に返事をした。礼儀作法は教えてもらっているようである。しかし、ぺこりの傍にいた舞子が、
「お抹茶をどうぞ」
と勧めると、
「申し訳ありませんが、お抹茶とはなんですか?」
と質問をしてきた。
「宮さま、いつも何を飲んでたんだね?」
ぺこりが聞くと、
「水を飲んでいました。この世には、水の他に別の飲み物があるのですか?」
と逆質問された。
「おいおい、もしかしたら、宮さまは監獄の囚人以下の扱いを受けていたんじゃないのか」
ぺこりは嘆いた。
「ぺこり殿、わたくしのことを宮さまというのはやめていただき、わたくしは一般市民であると聞かされました。宮はあくまで新しく作っていただいた苗字の一部。ぺこり殿には北陸宮とか忠仁と呼んでいただきたい」
北陸宮は言った。
「では、おいらのことも、ぺこりさんと呼んで欲しいな。忠仁さま」
「はい。わかりました。ぺこりさん」
あまりの北陸宮の素直さに生涯で今のところ、三回しか泣いたことがない、しかも二回は悔し泣きのぺこりの目に光るものが見えた。それをそっと拭く、舞子の目も赤い。
ぺこりは北陸宮を失礼ながら、じっと観察した。皇室には申し訳ないが、皆様、だいたいおんなじ顔立ちをされている。血が濃すぎるのだろう。しかし、北陸宮の顔は整って美しい。おそらく、母親が相当な美女だったのであろう。
「忠仁さま、身長はいかほどかな?」
「はい。百八十センチと聞いております」
「体重は?」
「六十キロと聞いております」
「うぬ、中肉中背かな?」
「ぺこりさん、中肉中背とはどういう意味の言葉でございますか?」
「ああ、ちょうど良いという意味ですよ。ただし、身長体重のバランスの時だけ使います」
「バランスとは?」
「バ、バランスですか? 均衡って言うのかな?」
「均衡とは?」
「ははは、おいら急用を思い出しましたので、失礼します。あとは舞子が懇切丁寧にお教えしますからね」
「懇切丁寧とは?」
「舞子! あとは頼んだ」
北陸宮の質問責めに、ぺこりは逃げ出した。舞子の眉が少し寄っているが、これは構ってられない。逃げるが勝ちだ。
「こりゃあ、サリバン先生を雇わなくてはなあ。でも、五感は正常なんだから、苦労は小さいか。まるで、カスパー・ハウザーのようだな」
ぺこりは思った。先は長いよ。
ぺこりは緊急の十二神将会議を招集した。ヒマだからというのが一番の理由なのだが、北陸宮の今後の処遇について考えていることもある。
「皆、大義である」
「ははあ」
「このたび、皇室から北陸宮様という大事な宝をいただいた。臣籍降下をしたとはいえ、皇室の血は尊い。大切にお護りし、なおかつ我らの目的のための旗頭としなくてはならない。ただ、かなり冷遇されていた形跡があり、うーん、はっきり言ってしまおう。礼儀作法以外、何も知らない阿呆のようだ。だが、悲観してはいけない。学習に対する貪欲さを強く感じた。一年くらいたてば、まっとうな社会人になるような気がする。また、もしダメだった場合も別の扱いようがあるだろう。そこで、きみたち全員で、北陸宮を鍛えて欲しい。きみたちにはそれぞれ得意分野がある、個性豊かな将軍たちだ。スケジュールを決めて、無理のないように北陸宮を育てて欲しい。それから、遥!」
亥の将、唯一の女性将軍、座間遥が呼ばれた。
「はい。大将、なんでしょう?」
「大将って呼ぶなって。まあいいや、きみなあ、北陸宮の嫁になれ!」
「はあ?」
座がざわついた。
「お前の得意の空手で北陸宮を守るんだ。それに、きみは若くて、チャーミングだ。北陸宮の子を成せば、我々の組織も安泰になるだろう」
ぺこりは朗々と喋った。しかし、
「あたいは嫌です!」
遥は真っ赤な顔をして怒っている。
「なんでだよ?」
「嫌だと言ったら嫌です!」
「なんだ、他に惚れている男でもいるのか? それならば、仕方ないな。それは、一体誰だ?」
「……大将です!」
「大将って、もしかしたら、おいら?」
「……そうです。ぺこりさまです」
「こ、この、大たわけが。馬鹿なことを言うな! 人間とクマが結婚なんかできないだろ。遺伝子が違うんだよ!」
「でも、大将のお父様はかき氷ですよね!」
「うぬぬ……かき氷などではない。鹿児島名物『しろくま』だ……」
ぺこりは答えに窮した。自分の父は氷菓子、生物ですらない。それなのに、自分は存在している。しかし、考えているうちに、だんだん腹が立ってきた。
「わかった、遥! 今晩、おいらの部屋に来い! おいらの巨大なチンチンとお前の小さなあそこが結合できるか確かめてやる。覚悟しろよ。死んだって、弔ってやらないからな! 本気で来い。ビビったら来るな!」
ぺこりが怒っている。非常に珍しいことだ。
「絶対に行きます。大将こそ、覚悟してください!」
遥もかなりキレれている。
他の将軍たちは呆れてしまって、いつの間にかいなくなっていた。
その夜。
ぺこりの部屋に、遥がそっと入って行った。舞子は気が付いていたが、知らないふりをして、自室に戻った。
ぺこりの部屋で何が起きたかはわからない。ただ翌日、またもや開かれた十二神将会議の席で遥は北陸宮の嫁になると宣言して、諸将を驚かせた。
十二神将による、北陸宮への教育が始まった。
まずは重鎮、関根勤勉による総合学習である。北陸宮の知識は幼児のそれとほとんど変わらなかった。そこで、勤勉は配下のものに命じ、書店で絵本や図鑑を山ほど買って来させた。その際「必ず、紀伊国屋書店で買って来るように。神奈川を中心とした某チェーンでで買ったと知ると、ぺこりさまのご機嫌が悪くなる」と某有名書店の名前を挙げた。
幸いなことに、北陸宮は知識はないが、馬鹿ではなかった。最初は絵本を楽しげに眺め、ひらがなは読めるので、熱心に字面を追っていた。そして次第に絵本では飽き足らなくなり、図鑑に手を出すようになった。初めは『動物』であった。
「この世界にはこのような者たちがいるのか」
北陸宮は感慨深げにページを見つめていた。やがて、
「はてな? これはぺこりさんではないのか」
と傍に寄り添っていた勤勉に尋ねた。
「はい、忠仁さま。それはクマという動物であります」
「動物であるぺこりさんがなぜ、言葉を話し、皆の上に立っているのか?」
「それは、ぺこりさまが特別な能力を持っているからです」
「すまぬ、能力の意味がわからない」
「失礼しました。能力とは力です」
「それは、そなたらの力を超えるものなのか?」
「私たちは足元にも及びません」
「つまりはぺこりさんは神様のような者なのだな」
「神様ではありませんが、似たような者と言えます」
「それはすごいなあ」
「そう思われるということは忠仁さまがご成長された証です」
「そうか。わたくしは成長したか。それは嬉しい」
「私も嬉しく思います」
北陸宮の学習は次第に高度になって行き、わずか半月たらずで高校レベルに達した。驚くべきことである。その報告を聞いたぺこりは「えっ、マジ?」と言ったきり絶句した。もしかしたら、とんでもない怪物を拾ってしまったかと思ったからである。しかし、あの純真さは素晴らしい。天性のものであろう。これを大切に育てればきっと花は咲く。そう瞬時に考え直した。
北陸宮の学習は個別指導になった。別に家庭教師の渡来人ではない。まずは座学である。まずは羽鳥真実が国語、文学を教える。北陸宮は小説にとても興味を持った。
「小説を読むと、違う人生を送っているようですね、真実さん」
そう語る北陸宮に、真実は彼の悲惨な半生を思い辛くなった。
続いて、竹馬涼真による歴史。北陸宮は世界史よりも日本史が面白いようで、
「帝が政治を司る期間は短いのですね。臣下の者が天下人になっています。今もそのようですね」
と言った。
算数は勝栗洋三。本人は柔道を教えたがっていたが、小学校の教員免許を持っているため、ぺこりが彼を指名した。
あまり乗り気でなかった洋三だが、足し算からゆっくりと教えて行くうちに、スポンジのように学問を吸収して行く北陸宮の潜在能力に興奮してしまい、高校の代数・幾何まで教えてしまった。北陸宮はそれ以上のものまで教えて欲しいと洋三に頼んだが、洋三の方にこれ以上深い知識がなく、いずれ友人の大学教授を紹介するということで我慢してもらった。
理科は将軍たちに教える適任者がいなかったので、なんと、ぺこりが重い腰をあげて教授となった。しかし、ぺこりは物理・化学・地学・生物と全部、全くわからないので、ハーバード大学時代のアメリカンフットボール部で顧問をしていたアインシュタイン教授をわざわざ招いて北陸宮に教えさせた。通訳は舞子である。正直、北陸宮は理科が苦手なようであったが、この授業のおかげで、英会話をマスターしてしまった。重い腰をあげたつもりだった、ぺこりはすぐに重い腰を下げてしまったのが災い転じて福となしたようである。
頭脳が発達した後は、体力をつけなければならない。基礎体力の担当は土佐鋼太郎の務めるところとなった。鋼太郎は北陸宮に室内の体育館を走って一周するように言った。北陸宮はすぐにバテた。長きに渡る幽閉で筋力などありはしない。当然の結果だ。鋼太郎は、
「忠仁さま。それでいいのですよ。でも、あしたは二周走ってみましょう」
と北陸宮を励ました。次の日は三周、その次は四周。結局一ヶ月後には百周してもバテない体ができた。
「これで、全体の筋肉が出来上がりました。後は武芸のプロに習って、技を会得しましょう」
鋼太郎はまとめた。
剣といえば、目白弘樹か銘抜刀である。弘樹は無口な男で、戦闘時以外に声を出すことはない。それでは、北陸宮に剣を教えられない。だから、銘抜刀が選ばれたのだが、この男は常に酒に酔っている。他の諸将が「おい、抜刀よ、ご指導なんてできるのか」と尋ねると「わしはちびっこ剣道教室の先生をやっていたのだぞ。できないことがあるものか」とちょっと怒っていた。
その指導法は、ひたすらわらで作った人形を斬るというものだったが、北陸宮が上手に斬ろうが、失敗しようが、抜刀は「うむ、うむ」と微笑んで、うなずいているだけであった。なので、北陸宮は黙ってわらの人形を設置し、それを斬る、という動作を朝から晩まで繰り返していた。そんなある日、北陸宮の斬った人形がスーッという澄んだ音を出した。
「忠仁さま、ご開眼!」
突然、抜刀が叫んだ。その後ろで実はずっと黙って稽古を見ていた弘樹もうなずく。
「はて、どういうことでしょう?」
と問う北陸宮に抜刀は、
「真の剣とは切られた相手がそのことに気がつかぬほどの斬れ味を持っていたします。ただいまの忠仁さまの剣、まさにその一撃。我に劣らぬ剣客である目白も納得しております」
「そうですか。わたくし、とても嬉しく思います。先生方、ご指導ありがとうございます」
「なんの、なんの」
と抜刀が言い、弘樹も目を細めた。しかし、目白弘樹、口を開かぬ男だ。小説だと扱いにくい。
北陸宮の修行はまだ続くが、ちょっと章が長くなったので一区切りしよう。
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