第2話

 僕は靴を脱いでスリッパに履き替えた。荷物やコートはそのままにまっすぐリビングへと向かう。リビングにつながる戸を開けるとコーヒーの香りがした。戸を開けてまず目に入ったのは一人の女性だった。彼女はソファに座っている。「おかえり」と言われたので「ただいま帰りました」と返した。ソファの横にリュックサックを下ろす。コートを彼女とはす向かいにあるソファにかけた。そのソファに腰掛ける。それから僕は今日の顛末をすべて彼女に語った。子供のように。彼女は僕の話を適当に相づちを打ちながら聞いた。そして彼女は話を聞き終えると、「それで頼んでいた方は?」と僕に聞いた。僕が「万事言われたように処理しました」と答えると、彼女は酷薄に微笑んだ。彼女の手がコーヒーカップに伸びる。コーヒーカップを片手に彼女は言った。

「そういえば、手洗いうがいはしたかしら」


 そういえばしていなかった。僕は立ち上がり、キッチンへと向かった。手を洗い、うがいを済ませ、コーヒーカップを食器棚から取り出した。勝手知ったる他人の家。他人というよりかは上司の家、と言うべきかも知れない。インスタントコーヒーの粉をカップの中に入れ手洗いうがいの間にわかしておいたお湯を注いだ。「あっ! という間にすぐに沸く」と言う触れ込みの電気ケトルは羨ましいけれど、それよりも温度を指定できる電気ケトルや保温機能付きマグカップが最近は気になっている。あまりコーヒーのいい香りはしない。やっぱり彼女が飲んでいるもののようにコーヒー豆からのものの方が香りはいい。コーヒーカップを持ってリビングに戻る。

 彼女のコーヒーカップは空になっていた。コーヒーカップを持ったままソファに座った。コーヒーを一口飲む。味は及第点。テーブルに置く。「それで、あれは誰だったんですか」と僕は聞いた。「あなたには関係のないことよ」と彼女は言った。僕は僕の殺した人の名前を知らない。


 さてここで、いい加減、彼女について少しは語ろうと思う。この部屋の主である彼女について。彼女は人間である。間違いなく人間だ。彼女はいわゆる吸血鬼ではない。僕が勝手にそう呼んでいるだけである。ではなぜ、彼女を吸血鬼と呼んでいるのかといえば、それは彼女が血を飲むからである。彼女の飲血行為には何らかの必要性はない。彼女の嗜好、ただそれだけである。本物の吸血鬼のように血を飲まなければ死んでしまうということではないし、太陽の下を歩けないわけでもない。他の人がコーヒーを飲んだり酒を飲んだりたばこを飲んだりするのと同じである。そして僕はその提供者だった。いうなれば献血に参加している善意の人、もしくはコーヒー農家。その対価は生活費の提供、住居の提供、などなど様々である。正しい表現は家畜なのかもしれなかった。


 彼女はコーヒーカップをキッチンに持っていくと、代わりに注射器を持って戻ってきた。彼女は人間なので、吸血能力は持っていない。噛んだところで僕が無駄に傷つくだけである。人の犬歯で人の肌に穴を開けることができるのか僕は試したことはないが相当痛いことは確かだろう。それは絶対にいやだった。痛いことをするのはいいけれどされるのはいやだ。

 彼女は僕の腕に注射針を刺した。血が吸われていく。痛みはあまりないが倦怠感はつきまとう。吸血鬼に吸血されると快感が与えられるという伝説はあるけれども、注射針で血を吸われているだけのこの行為には快感などかけらもない。ただこの吸血は僕にとってはある種の自罰行為というか内罰行為のようなものでもある。これによって救われている面も確かにあった。自罰、内罰ではなく、現実逃避と言ってもいい。要するには、防衛機制のひとつだ。彼女は僕を利用し、僕も彼女を利用する。家畜生活も殺されなければ快適だ。

 彼女は僕の腕に白い正方形のシールを貼った。僕の体にある注射痕は人に見られたら薬物中毒者か献血マニアか、あるいは治験マニアだと思われるかもしれない。それぐらいに異常だった。僕はまくっていた袖を元に戻した。コーヒーを一口すする。冷めたコーヒーは何の味もしなかった。夏場の水道水を飲んでいる気分だ。

 彼女が血を飲んでいるのを見たことは実は一度しかない。彼女と出会ったその日だけ。こうして僕の血を採った彼女はひとまずそれを保存する。彼女なりのこだわりがあるらしい。そもそも飲血行為自体が彼女なりのこだわり、というか、彼女のみであろう嗜好なのだけれど。嗜好といえば。

「そういえば、血の味って人によって違うんですか」

「飲みたいの」

「いえ、そういうわけではないんですけど」

「違うわよ」

「違うんですか」

「さすがに劇的に変わったりはしないけれどね。食習慣だったり、生活習慣だったり、そういうもので多少は変わるわ。大丈夫、あなたの血はおいしいわよ」

 彼女はそう言い残して血液の保管に向かった。

 彼女の言葉を解釈するに、糖尿病とかそういうものが血液にも起こるということなのだろうか。それとも、そういう医学的なものから離れてオカルト的に、超自然的に、感覚的に違うのだろうか。後者だとしたら、それは飲んでみないと分からないだろう。ただ、医学、科学的に違うのなら魚にチョコレートをあげたり、豚に米をあげたりするのと同じだと考えられる。まあ、それはいいや。美味しいらしいし、僕の血。ただ蚊がよってこないかだけが心配だ。虫除けスプレーでも買っておこう。

 血液の保管を完了した彼女が戻ってきて、ソファに座った。彼女の前にはコーヒーカップはもうない。

「それで、これからどうするの」

「とりあえず、家に帰ります」

 そう言いながら、僕は立ち上がって上着を着た。リュックサックを背負う。コーヒーカップをキッチンに置き、そのまま玄関に向かった。彼女も玄関まで来てくれた。

「夜道に気をつけて」

 家までの間に道はない。あるのは廊下だ。それに、殺人鬼に言う台詞じゃない。

「お休みなさい」

 これも吸血鬼にいうことじゃなかった。あえて言うならhave a good night.だったろう。僕は外に出た。吸血鬼には通れないドアをくぐって。

 エレベーターを使って下に降り、自分の部屋にたどり着いた。貧血気味で体がだるい。頭が痛い。倒れ込むように家に這入った。靴を足だけで脱いで壁に手をつきながら自室に向かう。着替えもそこそこにベッドに倒れ込む。血をやった日にはいつもこうなる。人を殺した日にはいつもこうなる。果たして僕の人生はこれでいいんだろうか。そんな思いがあるようなないような。ただただ頭が重く気が重い。血の提供、殺人、殺人の後処理、食費、生活費、人脈。どう天秤に乗せれば釣り合うのか。現状釣り合っているのだろうか。手づかみで分銅を脳内天秤に乗せた。弥次郎兵衛のようにゆらゆら揺れる天秤は左右釣り合っているはずだ。土台もしっかりしているはず。僕はねじを回した。ほら釣り合った。満足げに笑っている僕が見える。夢現の状態から思考がブラックアウトした。

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殺人鬼と吸血鬼 板本悟 @occultscience1687

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