第4話:金井家の子供達の進学と就職

 1959年に長男の金井義朗が小学校に入学して、後を追って1961年に

次郎が小学校へ、1963年に長女悦子が小学校に入る頃には、夏は、家が

狭くて暑苦しくて困るくらいになった。母の金井かなえが金井猛と一郎の

給与を預かり働き出した1954年頃から年に100万円を目標に貯めていて

、朝鮮特需、神武景気と岩戸景気による10年に及ぶ好景気のために、

貧乏であった金井家の資産も1963年末には1千万円と10倍になった。


 そこで1964年の3月から庭に6畳の簡単な木造の勉強部屋を作ること

を計画して、セメントで土台をつくり、4つの支柱を建てて、毎週日曜日に

金井猛と一郎が2人で木材を買ってきては木の板を張っていき6月末迄に

全部板張りの6畳の勉強部屋を設けて、長男の義朗と次男の次郎のために

、2段ベッドを手作りでつくり、机と椅子を買ってきて、2人の勉強部屋

にすると、喜んでくれ、宿題もしっかりして、勉強するようになった。

翌年の1965年、地元の中学へ長男、義朗が入学して熱心に勉強してい

し、疲れると父に誕生日プレゼントで買ってもらったラジオにイヤホンを

つけて耳に聞こえてくるビートルズの音楽に痺れ、 ラヴ・ミー・ドゥ、

P.S.アイ・ラヴ・ユーから入りほとんど全ての曲を良く聞いていた。


 その後、深夜放送「オールナイト・ニッポン」特に木曜日担当の今仁哲夫

が好きで良く聞いていた。その後は米国の女性歌手のキャロルキング、

ブラジルのサンタナ、サイモン&ガーファンクルの音楽に興味を持ち、

洋楽を中心に聴いて、英語の勉強に生かしていた。


 1967年に次郎が中学に入り、やがて、義朗が高校受験を迎え、

中学3年でクラスで2位で志望高校を地元の名門、川和高校に的を絞り

勉強に励み、1968年3月に合格した。負けず嫌いの弟も負けじと、

夜遅くまで勉強して、中学ではクラストップで学年で3位となり、特に

数学が良かったようて、工業系をめざすと宣言して、志望高校を橫浜で

トップクラスの翠嵐高校に的を絞り1970年3月に合格した。


 ちなみに、長女の金井悦子も川和高校に合格した。その後、長男の義朗

は、橫浜市大商学部を目標に勉強して行き1971年に合格した。次男の

次郎は、橫浜国大の工学部に的を絞り勉強して1973年に合格した。


 金井家の資産の方では1972年末には更に2千万円を預金して合計

3千万円になり、1973年から郵便貯金の定額預金(3年満期)を年に

3回4月、8月、12月に100万円ずつ、預け入れて1975年の年末

には3800万円になった。1976年から長男の金井義朗の勤める

富国生命で5年満期の一時払い養老保険を隔月、60万円ずつ契約して、

総合計62ヶ月(3720万円)となった。その一時払い養老保険を5年

を超え61ヶ月目に解約して再度200万円で解約し直すことをし続けた。

 その結果1986年には資産合計が7千万円を越えた。


 資産管理は、金井かなえが帳簿につけて計算して投資の方法は全て、

義朗の指示で運用していた。長女の金井悦子は神奈川大学経済学部を

めざして挑戦して、合格し私学で学費がかかると考えて育英会の奨学金を

もらって学費に充てる事にした。1975年に長男の義朗は就職先を

生命保険会社にして就職活動をして1975年に富国生命中山支店に

入行した。1976年には長男の勤める富国生命で家族6人名義で一

時払い養老保険を年6回、隔月で加入し続けた。


 次男の金井次郎は日本電信電話公社を就職先の目標にして就職活動の末

、1977年に入社した。長女は銀行を就職先に決めて1979年に

橫浜銀行長津田支店に入行した。

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