第3話:市営住宅への引越し

 1953年9月30日に橫浜の北部の市営住宅に着いて女衆は連中は家の中を

掃除して男衆は必要な家具、電化製品、身の回りの品物、食料品を買いに行き、

午後2時には、全部揃い、金井一郎がトラックを金沢の工務店に返しに行き、

午後5時に中山駅からバスで十日市場団地へ戻ってきた。夕飯を食べながら、

明日から、金井猛が、この地元の工務店で使ってもらえないか頼みに行くが、

一郎は若いんだから、東神奈川、橫浜、桜木町で会社訪問して就職口を探して

来いと金井猛が言った。わかった、一郎が、そうすると了解した。


 その当時は朝鮮特需でセメントの需要が急拡大して工場の新設と生産力拡大

が急務であり大工や機械工の人手が足りなかった。そう言う時代背景から

1953年10月2日の昼過ぎに金井一郎から東神奈川の工場で、大工で

来るなら雇うといわれ、父の事も、大工を束ねていたと話すと、連れて

こいと言われたので、東神奈川へすぐ来て言うと、わかったと言い、

1時に工場に来て、一郎が人事課の早乙女芳夫さんに、この人ですと言うと

セメント工場を新しく、できるだけ早く作りたいので採用すると言われた。

 ただし今後、関東地区の工場に出かけて、場のメンテナンスや修理を行う

仕事になるといわれ、出張手当、旅費も出すから、やってくれるかと言われ

了解すると言うと採用され、午後3時から、若手5人の大工と見習いの

教育も金井猛さんにお願いしたいと言われたので快諾した。


 そして金井猛さんが係長待遇で給料も増やすと言ってくれ喜んで金井猛が

早乙女さんの手を、お礼を込めて、きつく握手をすると痛いと言い、やっぱり

大工は力持ちだと大笑いした。その晩、金井猛と一郎が1953年10月3日

付けで採用されて安定した収入が得られると喜んで、工場での話をした。


 その後、東神奈川の工場へ行くと金井猛は出張はなく若い大工育成に専念

してくれと言われ、その月に5人大工見習いが入ってきた。1人前の大工と

見習いの2人でペアを組んで、東京、多摩、埼玉、千葉の工場の補修や

新工場建設に出かけていった。そうして1954年を迎えた。金井猛と

一郎の給料で、市営住宅の家賃と食費、生活費は何とかやっていける

様になった。


 1954年7月28日に金井かなえが2人目の子を宿したことがわかり、

近くの産婦人科に行き出産予定日、1955年1月28日と告げられ、

1月25日から入院して1955年1月28日に3kgの男の子を出産し、

二郎と名付け、2月10日に退院して家に帰ってきた。2人の子供が

できて、母の金井かなえと、祖父のはつ、更に70歳を超えた曾祖母の

八重まで子供の面倒を楽しそうに見るようになった。


 その後も、金井猛と一郎がセメント会社でしっかり働き、ボーナスを

しっかり出るようになった。その後、1956年8月22日に、

また金井かなえが子供を宿したことがわかり、近くの産婦人科で、

出産予定日が1956年12月12日と言われ、12月8日に入院して

12月12日に2・7kgの女の子を出産し、金井悦子と名付け、

12月20日に退院してきた。一郎が4歳近くなり1人で食べられる様に

なったが、小さい子3人では6畳3間と6畳の広さの食堂では手狭に

なって来た。将来的には、大きな所に引っ越すか、何か良い方法を

考えねばならなくなった。


この時代は神武景気(1954年~1957年6月)と言われ1956年

の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了

が宣言された。その後、約1年のなべ底景気といわれるデフレの時代も

耐えて、岩戸景気(1958年7月~1961年12月)に乗って、

日本の長期間の好景気が続いた。

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