第二十五戦 負傷
それからの私は朝のコーヒーをやめ、仕事の量も減らしました。食事もきちんと摂るようになりました。
私にとって何が一番大事かと言われると、もう仕事ではなくお腹の子なのですから。
マキシムからはしきりにペンクールの彼を訪ねて来るようにと、文が送られてくる度にそう書かれていました。
私は彼がそこまで本気でペンクールに私を呼び寄せたいのだとは思ってもいませんでした。彼は向こうに恋人の一人や二人居てもおかしくないとさえ、そう信じていたのです。
体調を崩してからはそんな馬車旅などする体力はなく、妊娠の可能性がある今はとてもではないけど無理です。
マキシムには妊娠がはっきりしてから、文に書くのではなく私の口から直接告げたかったのです。
そんな雪深いある冬の日のことでした。マキシム自身からではなく、国境警備隊の彼の上司から文が来ました。嫌な予感がして、文を開く手が震えてしまいました。
マキシムが騎馬戦の稽古中に怪我を負ったとのことでした。右腕を痛め馬の上で平衡感覚を失い、落馬したそうです。幸いにも打ち所は悪くなかったようで、怪我は右腕と右脚だけでした。しかし騎士が怪我をしてしまっては仕事になりません。
「マキシム……」
王都から急遽代わりの人員を派遣するも、こう雪深くては王都近郊を抜けるだけで何日もかかりますし危険でした。
マキシムは天候を見て、雪の積もった街道を馬そりで往来できるようになってから王都に帰ってくるそうです。
上司の方は、利き腕が使えなくて何も出来ないマキシムがふてくされてしまっている、私に会いたがっている、それに彼には内緒だが大きな子供がぐずって癇癪を起こしているようだとまで書かれていました。
「マックス、私も貴方に会いたいわ……」
マキシムには怪我が心配です、気を付けて帰ってきてくださいね、と急いで文を書きました。
私が右手に怪我をして仕事が出来なくなったらと考えるとマキシムの気持ちも良く分かります。
この気候ですから文もなかなか届きません。私の文と入れ違いにマキシムが帰ってくる可能性もありました。
日が経つにつれて私は益々妊娠を確信しました。ガニョン家掛かりつけ医を呼ぶよりは仕事の合間に王宮医療塔のテオドール叔父さまを訪れることにしました。
モードもそろそろ私の体の変化に気付いているようです。
テオドール叔父さまは私の話を聞きながら真剣な顔で診察してくれました。そしてニッコリ笑って私に告げてくれました。
「うん、胎児の心音が確かに聞こえるよ。おめでとう、ローズ」
「本当ですか? 良かった! マキシムがもうすぐ帰ってくるから彼に一番に知らせます!」
「まだ
医療塔から本宮に戻る私の足取りは軽く、まるで雲の上を歩いているような感じでした。嬉しくて頬が緩んでしまいます。
本宮の廊下でティエリーさんに会いました。
「こんにちは、お義兄さま」
「ローズ、今丁度君の執務室に行ったけど居なかったから……どうしたの? 今日は顔色も良いし、元気そうだね。マックスがそろそろ帰ってくるからかな?」
「私そんなに元気がありませんでしたか?」
「うん、マックスが遠征してからはちょっと見ていられなかったよ。良かったらお昼を一緒にとらないか?」
嬉しい知らせのおかげで私のお腹も空いてきました。
「はい、そうですね。食堂に行きますか?」
「いや、上に行こうか」
ティエリーさんの言う上とは一般食堂ではなく、本宮の塔上部に位置する貴族専用の食堂のことです。
「静かな所で君に話があるから……」
彼は少し言葉を濁しています。
ティエリーさんに聞かされたのはセリーヌさんとあの女狐ナタリーのことでした。二人は先日、学院同級生の集まりで私のことを色々と話していたそうなのです。それをティエリーさんのお友達が耳にしたとのことでした。
「彼女達の目には君が何でも簡単に手に入れているように映っているようだ。成績も良くて、お父さまは副宰相、高級文官として就職、うちの弟と婚約結婚、その上ギヨームやアンリを手玉に取っていて、王太子殿下や第二王子殿下とも仲が良くて……一応彼女達の挙げる君の取り巻き軍団の中には私の名前も入っていたらしいのだけど、光栄だねぇ」
「はい? 取り巻き、手玉に取る? 従兄弟と仲が良いのは当たり前ですし、ティエリーさんはお義兄さまですよ」
「嫉妬に駆られる彼女達は曲解しているんだよ。これ以上あからさまな意地悪をされないように気を付けて、と言ってもどう気を付けたらいいのだろうね。君のところは室長があれだから役に立たないし……異動願を出したらどう?」
「私、仕事自体は好きなのです。ですからもう少しあそこで頑張ってみますわ」
妊娠の確認が出来たことが嬉しくて、
「ローズがそれで良いのならいいけど」
「それにマキシムさんももう少ししたら帰ってこられます。怪我の具合は気になりますが、軽傷だって上司の方の文に書いてありました」
「あいつも早く君に会いたがっているだろうね」
「もう遠征になんて行って欲しくないのは山々なのです」
「うん。マックスが留守中のローズを見ているのは私も辛いよ。それに本人ももう行きたくないだろうしね」
「え? 彼はそう言っていますが、毎回ペンクールには嬉々として行っていると思っていました」
「そんなわけないじゃないか! あいつは毎回西部に送られる度にブツブツ文句言っているよ。王都に帰ってきたら実家よりも真っ先にソンルグレ家の君に会いに行っていただろう? それこそ王都に居る間はソンルグレ家に入り浸りだったじゃない?」
「えー、まさか!」
「君達夫婦、何だか大きくすれ違っているよね。しっかり話し合うことが必要だと思うよ。まあ独身の私が言ってもあまり説得力ないかな?」
ニヤニヤしていたティエリーさんはそこで真面目な顔になりました。
「それよりもローズ、お義兄さまって呼ぶのはやめてよ。何か照れるし違和感が……今まで通りティエリーって呼んで欲しいのだけど」
「真剣なお顔になるから何事かと思ったらそんなことでしたか。そう言えば私の兄もマキシムさんに
「ははは、ナタニエル君を義兄上と……それは嫌がるだろうねぇ」
「それよりセリーヌさんたちのことをティエリーさんに教えて下さったお友達ですけれど、その方はあんな性格の悪い人たちと仲良くされているのですか?」
彼とは少し年が離れているなと思ったし、純粋な疑問を投げかけたまででした。セリーヌさんと同い年ならティエリーさんより六つ下です。
「いや、全然。ただの同級生だって言っていた」
ティエリーさんはそこで少し照れた様子でした。その方は彼の恋人で、将来私の義理のお姉さまになる人だと私は少し後になって知りました。
***ひとこと***
ティエリーさんも幸せになれたと分かったところで次回に続きます。
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