第十七戦 憂慮

 式もあと一ヶ月に迫ったある日の夕方アンリが屋敷に来ました。 彼が一人で来るのは珍しいです。 最近はいつもミシェルも一緒に式の打ち合わせをすることが多かったのです。彼は肩から下げた鞄の中から大きな包みを取り出しました。


「よう、マキシム・ガニョン様と結婚できるラッキーガールめ」


「こんばんはアンリ」


「式の日が待ち遠しくてしょうがねえんだろ?」


「ええ、そうね」


「そうね、とか言いながら何だか辛気臭ぇぞ、お前」


「ごめんね、アンリ」


「どうしてそこで謝んだよ」


「マキシムと結婚できて運がいいっていうのは重々分かっているのよ。でもなんだか信じられないと言うか……」


「贅沢言うんじゃねぇよ! 毎日が、人生が薔薇色じゃねえのか? 式やマキシム様との初夜が楽しみで! 羨ましいったらねぇよ」


「マルゴにも同じこと言われたわ」


「はぁ? あのガキンチョまで色気付いてんのか? それにしてもお前、周りはライバルだらけじゃねぇか! 俺にマルゴ、その他のファンの女どもに……ああ、マキシム様、貴方はなんて罪作りなお方なんですか! 貴方に恋に落ちない人間はあのミシェル・サヴァンくらいです!」


 この従弟は何か勘違いしているようです。


「アンリ、違うわよ。マルゴはそういう意味で言ったのではないの。彼女は誰か他に想う方がいるらしいわ。その方との結婚を夢見ているのよ」


「へぇ、あのジャリン子マルゴがマジで恋? 最近のガキはませてんなぁ」


 アンリはマルゲリットに駆けっこでも球技でも負けてしまうので目の敵にしているところがあります。腕力ではもちろんマルゲリットは女の子ですからアンリには負けますが、彼女はとにかくすばしっこくて持久力もあります。


 剣の腕ももしかしたら彼女の方が勝っているかもしれません。そんな二人が手合わせをすることがないのは、マルゲリットによるともし彼女が勝ってしまうとアンリのプライドがボロボロに崩れ落ちるのが可哀そうだからだそうです。


「まあとにかくだな、俺も男だ。マキシム様がお前を選んだのなら潔く身を引くさ。彼には幸せになって欲しいからな。だから今日はこれを持って来てやった」


 彼が先程鞄から取り出していた包みでした。それは分厚い一冊の本でした。


「何の本なの?」


「いくら本の虫のお前でもこの本は読んだことねぇだろ。それにそっちの方面には超うとそうだしな。貸してやるから結婚前にしっかり勉強しておけよ」


「えっ、何の分野ですって?」


「それにな、お前、大人の玩具やスケスケネグリジェ、セクシーランジェリーが欲しかったら店紹介してやるぞ……って俺は何で敵に塩を送るようなことやってんだ? うぉぉん!」


「おもちゃ? ねぐりじぇ?」


 私も分からない言葉をアンリは羅列します。やはり結婚前に勉強しないといけないようです。アンリは泣き真似だか本当に泣いているのだか、うめいています。


 未だに疑問でいっぱいの私の肩をポンポンとアンリは叩きました。


「まあ、お前のそういうれてねぇところがマキシム様の性癖にガッツリはまったんだろーな……俺は彼が幸せならいいんだよ。これを読んでマキシム様をしっかりよろこばせて差し上げろ。もちろん従弟としてお前の幸せも願っているさ……俺って超イイ奴……」


 アンリは最後にそうボソッとつぶやくように言うと、黄昏たそがれた背中を向けて帰って行きました。


「『淑女と紳士の心得』ね、礼儀作法の本なのね。確かに結婚前に学んでおかないと……」


 私はその本を抱えて自室に戻りました。本は私の机の上に置いたまま、その夜まで開きませんでした。そして就寝前にその分厚い本に少し目を通してみようという気になり、寝る準備をして寝台の上に座ってぱらぱらと頁をめくってみました。


「確かに貴婦人としてまだまだ未熟な私は結婚前に学ぶことも沢山あるのよね……」


 自分で自分に言い聞かせていました。そして……あられもない姿の男女が絡み合っている挿絵の数々が私の目に入ってきたのです。


「きゃっ、ななな……何これ!?」


 私の上げた素っ頓狂な声に部屋の隅で片付けをしていたモードがすっ飛んできます。


「お嬢さま? どうなさいました?」


 恥ずかしくて本を閉じて隠そうとしましたが、モードの方が早くて、私の膝の上にある問題の書物をばっちり見られてしまいました。


「モ、モード、いえ……何でもなくて……」


「まあ、お嬢さまっ! どこでこの本を? ガニョンさまですか? それとも……」


「えっと、その……アンリがこれ読んで勉強しろって貸してくれたのよ……」


「ああそうでございましたか。そうですわね、アンリさまでしたか」


 私は何だか含み笑いをしているモードの前で恥ずかしくなってしまいました。


「お嬢さま、ご就寝前の読書もほどほどになさって下さいね。お休みなさいませ」


「お、お休みなさい」




 モードは私の結婚が決まった時に父とマキシムとも相談の上、私と一緒に婚家のガニョン家に私付きの侍女としてついて来てくれることになりました。


「お嬢さまは私が居ないと駄目ですから! どこまででもついて行きますとも!」


 モードは長年仕えている大恩ある父の下を離れるのは一大決心だと思うのです。昔、ある陰謀に巻き込まれて不本意ながら罪に手を染めてしまった彼女を捕まえたのが父で、彼女と病気のお母さんと妹さんと共に引き取ったらしいのです。


「貴女が来てくれると私は心強いけれど、皆寂しがるわね」


「それでも新しいお屋敷の女主人になられるお嬢さまですから、お一人で嫁がせるよりは、と旦那さまもおっしゃいました」


「でもマルゲリットが嫁ぐ時には、彼女について行けるような侍女がもう居ないわ……」


「そんな先のことはまだ分かりませんわよ。それにマルゴお嬢さまは見た目によらずしっかりしておいでですから」


「私は頼りないって言いたいのよね、なんだか失礼ね、モード」


「言葉が過ぎました……」




 さて、あの本の内容ですが読めば読むほど挿絵を見れば見るほど、そのどぎつい内容に不安が募る一方でした。母に聞くのは少し恥ずかしかった私です。


 それに母は最初の結婚は意志に反して嫁がないといけなかったという事情がありました。ですから初夜の話題など出来ないだろうと思い、モードの方が少しは話し易かったので思い切って尋ねてみました。


「ねえ、モード……あの本に書いてあるような事……私ちゃんと出来るか不安なのよ……それにマキシムは……」


「ご心配なさらずとも宜しいですわよ、お嬢さま。初夜でいきなり床上手という方が旦那さまにはヒカれてしまいますわ。優しく導いて下さいますよ、きっと」


 モードはそんな全然分からないことをにっこりと微笑みながら答えました。


 私はマキシムと夫婦の営みが実現するとしたら絶対にやっぱり胸が小さいなとか下手だとか言われるだろうと覚悟していたのでした。百戦錬磨のマキシムには私は物足りないに違いないと思い込んでいました。


 きっと家族繁栄のためだけに行為をして、マキシムが欲求を満たし快楽を求めるのは他所でということになるのだと信じていました。


 モードがそれとなく私の不安を母に告げたのだか、母からも二人きりの時に一言だけ言われました。


「ローズ、アンリが持って来たあの本、読んだのよね。あれが一通り頭に入っていたら大丈夫。別に書いてあることを実行しなくてもいいのよ。経験はゆっくり積んでいけば良いのですから」


 母はウィンクまでしています。私は口をぱくぱくさせて顔は真っ赤になってしまいました。


「ど、どうしてお母さま、あの本のことご存知なのですか?」


「だって先日アンリが貴女に渡していたじゃない? あの本、もとはお姉さまとお兄さまのものなのよ」


「えっそうだったのですか……納得ですわ」




***ひとこと***

あの本がついに!登場です。やはりルクレール家の蔵書でした!

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