第十六戦 懸念
私たち一家には少々複雑な事情があります。まず、兄は私たち姉妹と父親が違います。兄は母の連れ子で父とは血が繋がっていません。
その上、父は男爵家出身ですがソンルグレ侯爵家に養子に入ったので今は侯爵を名乗っています。
初等科の頃から私たち兄妹は良くいじめられていました。兄は犯罪者呼ばわりされ、私自身は不倫の子などと呼ばれていたのです。
貴族社会では悪意ある人々から父は成り上がりと言われ、私たちソンルグレ家は格好の噂の種でした。
初等科でのいじめがきっかけで私は少々の嫌がらせには動じなくなりました。私が法律を学ぶようになったのも、いじめっ子たちをどう口で負かすか考えた末に法律書を初等科の頃から読み漁っていたからなのです。
さて、今朝のコーヒーの件ですが、私は大事な書類を机の上に放置して帰宅するわけはありません。コーヒーで駄目になった書類は自分で
今日提出予定の書類は私の鞄の中で無事でした。周りの同僚たちには何も言いませんでしたから、彼らは私が必死で書類を書き直していると思っています。おかげで午前中は雑用を押し付けられずに静かに過ごせました。
いじめや嫌がらせには決して屈しない私ですが、人から悪意を向けられるのはやはり応えます。
無性にマキシムに会いたくなりました。別に彼を相手に愚痴や人の悪口を言いたいわけでもなくて、ただ彼の優しい笑顔が見たかったのです。
今日は早出だと彼は言っていました。私より早く仕事が終わるので帰宅時間は合いません。
昼休みに私は昼食を手に、何気なく騎士団の入っている東宮に足を向けていました。マキシムは外の稽古場で鍛錬中でしょうか、それとも休憩中でしょうか。無性に彼の顔が見たくなったと言っても、仕事中にいきなり私が訪ねて行っても彼も迷惑だと思い直し、足が止まってしまいました。
それに初めて来る騎士団の稽古場は、噂には聞いていましたが女性で
人混みをかき分けて稽古中かどうかも分からないマキシムを探す勇気はとてもありませんでした。沢山の着飾った女性たちに囲まれて鼻の下を長くしている彼なんて見たくもないです。
結局王宮の中庭に腰を下ろして一人で昼食を食べることにしました。私は朝のコーヒー事件のせいでかなり弱気になっていました。
「あーあ、以前は一人で昼食なんていつものことだったのに……何だか今日は孤独が嫌だわ……」
味気ない昼食を終え、トボトボと本宮の執務室に戻りました。マキシムが今晩うちに寄ってくれるといいな、などと考えていました。
私が執務室に戻るとティエリーさんがそこに居て、私の同僚の何人かと話をしていました。
「こんにちは」
私は彼に軽く会釈をして席につきました。お話を終えたティエリーさんがこちらに来ます。
「はい、ローズ。この間頼まれていた資料」
「えっ? あ、ありがとうございます」
資料も何もティエリーさんに頼んだ覚えはありません。思わず彼の顔を見上げると意味ありげに目配せされました。
「じゃあね」
その書類の束に目をやると一番上に色違いの小さな紙切れが貼ってあります。それを開いてみるとティエリーさんらしいきっちりとした筆跡の文字が目に入ってきました。
『今朝、ちょっと騒動があったらしいね。時間があったら午後いつでもいいから私の執務室においで。良ければ話を聞くよ』
噂は少し広まるだろうとは思っていましたが、ティエリーさんの耳にもう入っているということは父がこのことを知るのも時間の問題です。出来れば父には知られたくありませんでした。
お手洗いと休憩を兼ねてこっそりとティエリーさんを訪れました。彼の執務机は几帳面なティエリーさんらしく書類も書物もきちんと整えられています。
「やあ、ローズ。詳しいことは聞いていないのだけど、大丈夫?」
「ええ。ティエリーさんにまで伝わったということは……もしかして」
「私が先程話していた君の同僚もこれ以上言いふらす気はないみたいだから心配無用だよ。お父上に聞かせたくないのだよね」
「余計な心配をさせたくないのです。ただでさえ親バカが過ぎるので……」
「君みたいな美しい娘が居たらしょうがないよ」
「まあ、ティエリーさんったら!」
「その笑顔だよ。あの室長もね、悪人ではないのだけど」
「それは分かっていますわ。それにここだけの話、実は駄目になった書類はただの下書きです」
「しっかり者の君のことだからそんなことだろうと思っていたよ」
「出来ればマキシムさんにも知られたくないのです」
「弟にも何も言わないよ、私からはね。ただでさえあいつは私が毎日のように職場で君と顔を合わせているということが気に入らないみたいだし」
「えっ、何ですかそれ?」
「ははは、無自覚な君には弟も気苦労が耐えないね」
ティエリーさんの笑顔で私も少し気分が軽くなりました。
結局その夜マキシムはうちには来ませんでした。確かにいくら婚約者同士だと言っても毎日お互いの家を行き来する必要はありませんし、それぞれの生活もあります。でも、今日くらい彼の顔を見たくなった日はありませんでした。浮かない顔の私は妹のマルゲリットに聞かれます。
「お姉さまは結婚が決まったというのに、式の日を指折り数えているように見えませんね。愛し合っている方と結婚できるというのに、嬉しくないのですか?」
まだ十六のマルゲリットにまでそんなことを言われるとは思ってもいませんでした。というよりもマキシムと私は愛し合っているように周りには見えているのでしょうか。
「そうね、嬉しいと言うか……」
「私だったら愛する男性と結婚出来るなら、浮かれて舞い上がってしまいますわ……」
「まあマルゴ、貴女どなたか想う方がいるのね。いつまでも小さい妹だと思っていたのは私だけ?」
「私はもう十六ですわよ、お姉さま」
私が十六の頃は何をしていたでしょうか。マキシムと口喧嘩をしては落ち込んで、の繰り返しだったような気がします。
「確かに周りは十六でもう婚約結婚していた子もいるわね。とにかく私ね、何だか信じられないのよ、本当にこの私があのマキシムと結婚するのかが」
「でも式の準備ももうほとんど整っていますけれど、未だに実感が湧かないのですか?」
「そうなのよ……何だか急に話がどんどん進んで、私だけ置いていかれているような感じかしら……」
「お姉さまが主役なのに、ですか?」
「ええ……」
私もマルゲリットもそのまま黙り込み、私たち二人はそれぞれの思いに
***ひとこと***
「開かぬ蕾に積もる雪」の番外編「綺麗な薔薇には棘がある」でもローズはいじめっ子に対しても負けていませんでしたからね。
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