第十五戦 就職

 夏が終わり、私は司法院文官としてアンリは騎士として王宮に就職、ミシェルは母の被害者保護施設『フロレンスの家』で働くことになりました。


 やはり最初は仕事に慣れるのが大変でしたが、希望通りの職場でやり甲斐もありとても楽しかったです。


「僕が就職した時は周りからそれは色々言われたし、仕事がしにくかったよ。男爵家出身で成績が良かっただけで、いきなり高級文官として入ったからね。その上飛び級もしていたから。それでもソンルグレの御祖父様を始め、悪い人ばかりではなかったよ。今はもう実力主義も随分と定着したからローズ姫もそんなには苦労しないとは思うけれど。いつでも感謝の気持ちを忘れないように、謙虚な姿勢で仕事に臨みなさい」


 父には初出勤の前にそう助言されていました。


「私は職場での人間関係もそうですけど、今を時めくあのマキシムさんと婚約したのですから……彼は女性にとても人気がおありでしょう? 私はローズがそういう意味で嫉妬の対象にならないか心配よ」


 母の懸念ももっともですが、本当にそうでしょうか。マキシムと大人の付き合いをする女性に私の方は嫉妬しますが、逆に私が嫉妬されるだなんてあまり考えられません。


 彼女たちからは私はお飾りの婚約者としてしか見られていないと思い込んでいました。その頃の私はまあ何とも呑気なものでした。




 ある日のことでした。仕事を終えて私は荷物をまとめ、執務室から出て廊下を歩いていました。そこで廊下の角の向こうから男女の話し声が聞こえてきました。


「まあ、お上手ね、うふふ……今度お食事でもご一緒しませんこと?」


「そうだねえ……でもそれは……」


 男性の方がマキシムの声に似ているなあと思いながら角を曲がるとなんと本人でした。女性の方は同じ執務室の先輩、セリーヌさんでした。


 丁度まずい場に出くわしてしまいました、でもしょうがありません。こちらを向いているマキシムにすぐに気付かれてしまいました。


「やあ、ローズ」


「マキシムさん、お疲れさまです。あの、ティエリーさんなら上の階の会議室です。そろそろ終わる頃だと思いますけれど……」


「兄貴じゃなくてお前を迎えに来たに決まってんだろーが! 行くぞ、ほら鞄出せ」


「あ、そうでしたか? 鞄はいいですわ、今日はあまり重くないですし」


 その晩はマキシムの両親に夕食に呼ばれていたのです。彼についてその場を去る前に私はセリーヌさんに会釈をしました。彼女には何だか怖い顔で睨まれてしまいます。


「でもありがとう、マキシム。あの、ティエリーさんは本当にいいの?」


「兄貴は俺らと一緒に帰りたいとは言わないさ。お前がそのドブネズミ服を着替えるために一旦お前んちに寄るしな」


「悪かったですわね、万年ドブネズミで!」


 以前の私ならここでもう一言逆襲するところでした。


『そう言う貴方は見境なく女性に声を掛けているじゃないの!』


 と言ったところでしょうか。でもまだセリーヌさんがそこで聞いているような気がしたし、何となく言葉を飲み込みました。


 それにもう婚約してからはあまりマキシムの憎まれ口に棘を感じなっていたのです。だから私も必死になって反撃することもありません。ですから最近の私たちは口喧嘩と言うよりも軽口の応酬になることが多かったのです。


 私が就職してからはマキシムが出勤と帰宅時間が私と合う時は送り迎えに来てくれることが良くありました。こんなマメな彼ですから女性にモテるのも改めて頷けます。




 そしてその翌朝、ちょっとした事件がありました。朝出勤した私は自分の机の上にコップが倒れているのを発見したのです。コーヒーが一面にこぼれていました。私が帰宅前に机上に置いていた書類もコーヒーでびしょびしょに濡れてしまっています。


「まあ大変!」


 私は慌てて雑巾でその茶色い液体をぬぐいます。コーヒーはすっかり冷めてしまっているので、昨日私の帰宅後に誰かがそこで零してそのまま片付けなかったのでしょう。


 今朝執務室に入ってきたのは私が最初でした。もうすぐ始業の鐘が鳴ろうという時になると次々と人が出勤してきます。この執務室には十数名の文官が働いています。


「ローズ、どうしたの? まあ、コーヒーが!」


「ソンルグレさん、大丈夫?」


「ローズさん、お掃除手伝います」


 雑巾を持ってきて一緒に拭き掃除を始めてくれたのは、昨日マキシムと話していたあのセリーヌさんでした。


「今日提出の書類が駄目になってしまったわね……」


 私はその言葉に彼女の顔を一瞬覗き込みました。


「ええ。でもお昼までに書き直せますわ。しょうがありません」


 彼女にニッコリと笑いかけます。


「お手伝いありがとうございました」


 そこで室長が出勤してきました。


「何だ、この騒ぎは?」


 私は心の中でしまった、と思いました。出来れば彼が来る前に何とか片付けて、静かに仕事を始めたかったのです。私が口を開く前に、セリーヌさんが室長の問いに答えていました。


「室長、お早うございます。ローズさんが机の上にコーヒーをこぼしたのです。書類も濡れてしまって……」


 私が零したわけではありません。実際は誰かが私の机の上でコーヒーのコップを倒したのです。


「何をやっているのだ君は! 文官としての心構えがなってないな、気を付けろ!」


 私は朝一番に皆の前で室長に怒鳴られてしまいました。


「はい。お騒がせして申し訳ありません」


「ったくこれだから……」


 室長はブツブツ言っています。そこで隣の席の同僚が口を開きました。


「でもこのコーヒー、冷めきっていましたけれど。昨日ローズは私より先に帰宅して、その後私が仕事を終えた時にこの机の上にコップなんてありませんでした」


「ローズは今朝出勤してきたの、俺とほぼ同時だったよな。コーヒーを淹れてそれをひっくり返す暇なんてなかったし」


「それもそうね。大体私もソンルグレさんが何か飲み食いしながら仕事しているところなんて見たことないわ」


 何人かの同僚は私の味方のようです。


「うるさい、ゴチャゴチャ言ってないでさっさと仕事始めろ!」


 私は表情には出しませんでしたが、あまりの分かり易い展開に少々呆れていました。


 職場の人間関係というものは、難しいようでいて実は単純です。私には信頼できる同僚も沢山いることが分かりました。


 室長は父と同じくらいの歳の人で、父が副宰相にまで出世したのが面白くないから、娘の私に対してきつめな態度に出るのです。


 けれど、彼も直接父の悪口やあからさまな嫌味は言ってきません。最近は職場で差別待遇や各種の嫌がらせに対しても厳しくなってきて、対策や支援の制度が設けられました。司法院に勤めている文官なら特に敏感になってきているのです。


 コーヒーを零した犯人の目途も立ちましたが、別に私はその人をどうこうするつもりはありません。


 父の助言のおかげでもありましたが、私は打たれ強いのです。




***ひとこと***

ローズもお父さまが同じ文官でしかもお偉いさんの副宰相ということもあり、なかなか大変です。

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