第十戦 悋気
マキシムはその次に我が家を訪ねてきた時、私を居間の外のテラスに連れ出しました。歌劇の後と変わらず何だか不機嫌そうです。
お決まりの舌戦をしたくなくて兄にもその場に居て欲しかったのですが、こういう時に限って兄は居なくなってしまうのです。
「なあローズ、お前うちの兄貴と付き合ってんの?」
「ティエリーさんと? え、そんなこと……ないわよ」
この歳でまだ恋人も婚約者も居ないということでまたマキシムに色々言われるのかと身構えてしまいます。付き合っていると嘘を言っても直ぐにばれるでしょうし、ティエリーさんにとっても迷惑でしょう。
「ローズちゃんも遂に十八にして色気づいたか……親父さんが連れて来る若い文官の中から選り取り見取りってとこか?」
何だか彼の言葉はいつもより更に棘があるように感じられました。彼の瞳の中に読めるのは怒りの感情でしょうか。普段の私ならここでカッとなって言い返すところです。
「違うわ、マキシム」
「違わねぇだろ。お前らもしかしてデート中も仕事の話してんじゃねぇの? 主な話題は法改正とかか? コトに及ぶときは指南本片手にヤッてんじゃねえのか? そんでもって寝物語は来年度国家予算について? うわっ、イタタタだぜ」
「そ、そんなわけ、ないじゃないの!」
「へっ、どーだか!」
「どうしてそんな品のないこと言うのよ!」
「そんなムキになるところをみると図星なんだろ!」
マキシムが下品な事を言い出すので私は顔を真っ赤にしながらも大きく深呼吸をしました。私ももうすぐ就職するのです。いつまでも少女のローズじゃないわ、私は大人らしく振る舞えるわ、と心の中で自分に言い聞かせました。
「ねえマックス、私ね、貴方の今回の遠征中に色々考えたのよ。いつもの私ならここで『誰と出かけようが私の勝手でしょ!』って貴方に噛みついて、それからお馴染みの展開になるわよね。でもね、そうして貴方と無意味で不毛は口喧嘩をした後は、とても後味が悪いから……」
「……」
「だから、私も沢山言いたいことはあるけれど……もうどうでもいいわ。私がティエリーさんと出掛けることに対して貴方が反対なのでしたら……今度の舞踏会でご一緒する約束もしているのだけど、私の方からお断りしておくから」
「いや、だから俺は!」
「貴方は何と言っても兄の大切なお友達ですし、私のせいで二人の友情に影響が出るのも申し訳ないわ」
私の言葉に彼は何も言い返してきません。黙ってそこに突っ立ったままです。
「私はこれで失礼いたします、マキシムさん」
私はマキシムをテラスに一人残したまま、ゆっくりと居間に戻り二階の自室に向かいました。
先日ティエリーさんと一緒に出掛けて分かったことが一つありました。ティエリーさんの瞳に、声に、ちょっとした仕草に、良く似た弟のマキシムを重ねて見てしまうのです。私はどう
「私ってどうしようもないわね……」
ため息しか出てきません。
それから私は舞踏会に誘ってくれたティエリーさんにどう断りを入れようか迷っていました。もう舞踏会自体にも行きたくなくなってきました。
けれど、ドレスは仕立て上がり、私が行くと言い出したから父も張り切っています。気乗りのしない妹のマルゲリットまで駆り出されることになったというのにここで私が『やーめた!』だなんてとても言い出せませんでした。
私が
『弟が何を言ったか知らないけれど……いつまで経っても子供のような弟の代わりにお詫びします。それからもちろん舞踏会は予定通り貴女と一緒に行くことは変わりません。夕方お迎えにあがります』
読んで少し混乱しました。
「でも……この舞踏会でティエリーさんと出掛けるのもきっと最後になるのね……」
そして兄に恐る恐る聞いてみました。
「お兄さま、最近マキシムさんが家にいらっしゃいませんけれど……私との喧嘩のせいでお兄さまたちの友情にひびが入ったなんてことありませんよね?」
「何、ローズ心配しているのはそこか? 君達の口喧嘩なんていつものことじゃないか」
兄は笑い出します。
「いいえ……最後に会った時には私も彼の挑発には乗らず、もう言い争うのはやめましょう、みたいなことを言っただけですわ」
「喧嘩別れしなかったのか? 珍しいね。でもマックスに会えないからそんな暗い顔しているの?」
「……」
喧嘩の相手でもいいから時々はマキシムに会いたいと思う自分がいました。この気持ちをどう言葉にしていいのか分かりませんでした。家族にも誰にも言えませんでした。
舞踏会のために私には薄い桃色、マルゲリットには明るい空色のドレスが仕立てられました。自分を変えたくて出席を決意した私ですが、何も変わらないような気もします。マルゲリットも特にはしゃいだ様子ではありません。両親もそれは分かっているのでしょう。
「一度どんな場か見に行ってみるのも良い経験になると思うよ」
「そうよ。別に舞踏会と言っても貴族令嬢が将来の旦那さまを見つけるためだけに開催されるのではないのですから」
「僕達の周りで出会いが舞踏会だった夫婦なんてまず居ないよね」
「お姉さまと陛下くらいかしら」
「えっ、王妃さまはルクレール家と王家が決めた縁談ではなかったのですか?」
「今度王妃様に聞いてごらん、マルゴ。正に彼女らしい運命の出会いだったらしいから」
私もそれは知りませんでした。確かに豪快な性格の王妃さまは政略結婚を無理矢理させられるようなお方ではありません。陛下と王妃さまは恋愛結婚をされたのでした。道理でいつまでも仲睦まじくていらっしゃいます。
舞踏会の当日、私はティエリーさんの馬車で王宮に向かいました。私たちの前には両親とマルゲリットが乗った馬車が走っています。
「今日は益々お美しいです、ローズ。まさに大輪の薔薇と呼ぶに相応しいですね。こんな素敵な令嬢を同伴出来るなんて光栄ですよ」
迎えに来て下さったティエリーさんは私を一目見るなりそうおっしゃいました。そして私の手を優しく取り、馬車まで導いて下さいました。
父以外の男性にそんなことを言われたのは初めてでした。マキシムだったらどう言うでしょうか、私が珍しくピンクなんて着ていたら『よぉ、今日はドブネズミじゃなくて雌豚かよ』といったところでしょう。
私は全く駄目です。ティエリーさんと一緒に居るのにまたマキシムのことを考えている自分がつくづく嫌になりました。こうしてティエリーさんのお誘いにも乗って舞踏会にも出かけるというのに、私はまだ全然変われていません。
「あーあ、馬鹿なローズ……」
馬車の窓から外を眺めながらボソッと
「何か言った、ローズ?」
向かいに座っているティエリーさんの耳に入ってしまいました。
「い、いいえ。あの、今から申し上げておきますと、私実はこの歳にもなって舞踏会は初めてなのです。ダンスも得意ではありません。何か失礼があるかもしれないので今から断っておきますね」
「何だ、そんなこと。私も舞踏会なんて本当にたまにしか出ないから慣れていないのは同じだ。そんなに緊張しなくても、肩の力を抜いて楽しめばいいよ。ダンスは自信がなかったら目立たない広間の隅で少しだけ踊ればいいのだしね」
ティエリーさんはこんな感じでいつも優しいのです。
「さあ、もうそろそろ王宮に着くよ」
***ひとこと***
珍しくマキシムと口喧嘩に発展しませんでした。今回はローズが少し大人になり、彼の暴走を止めましたね。
さて、紳士なティエリーさんとの舞踏会です。ええ、乙女憧れの王宮での舞踏会なのですが……ローズ本人はそんなに盛り上がっていません。
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