第九戦 歌劇

 観劇当日、私は少しというよりかなりお洒落をしました。薄いクリーム色のドレスに髪も少し下ろして、お化粧までしてもらいました。私よりも侍女のモードの方が張り切っているようです。


「このお屋敷には年頃のお嬢さまが二人もおいでだというのに、私は腕の振るいようがないですからね。ああ、今日は気合が入りますわ! 腕によりをかけてお嬢さまを磨き上げて差し上げますわよ!」


 前日の夜からモードの意気込みに私は圧倒されていました。湯浴みにもいつもより時間をかけ、髪も丁寧に洗われ、香油を塗られ、と彼女の方が忙しそうです。


「お嬢さま、今日はお勉強も読書もほどほどになさって、墨で手を汚さないで下さいまし!」


 勉強まで禁止されてしまうくらいでした。


「モード、怖いわよ……」


「仕事熱心とおっしゃってください!」


 やはり怖いです。でも大人しく彼女の言いつけを守ります。


「ティエリーさんですもの、たとえ私が普段着のドレスでも褒めて下さるに違いないわよ……」


 自嘲気味になってしまいました。マキシムなら私の着飾った姿を見て何と言うでしょうか……ドレスはクリーム色ですからドブネズミでなければ、ハムスターでしょうか? 私は相変わらずマキシムのことばかり考えています。いつまでたっても駄目な自分に呆れます。




 父が夕刻に帰宅した時に私のおめかしした姿を見て、目を細めて喜んでくれました。そして私を軽く抱きしめて頬にキスをしてくれます。


「僕の美しく聡明なローズ姫、今夜は楽しんでおいで」


「お父さまとお母さまもいらっしゃればよろしいのに……マルゴに遠慮なさることないのに……」


「また今度の機会にするよ。若い二人の邪魔をするのもね」


「邪魔だなんて……」


 大体私の両親はいくつになっても仲が良くてラブラブで、他の人間の方が彼らを邪魔しているのではないか、という気になることの方が多いのです。




 ティエリーさんが時間より少し早めに迎えに来て下さって、私たちは出掛けます。


 私たちの席はとても良い桟敷でした。二人だけでは広すぎるくらいでした。両親も本当に来ればよかったのです。


 幕間に入り、ティエリーさんと席を立って飲み物を取りに行きます。劇場には夫婦や男女二人連れもいますが、女性の方が圧倒的に多いです。男性の殆どが連れの女性に付き合わされているのでしょう。


「座りっぱなしだと疲れるよね。少し歩こうか?」


「ええ。あの、ティエリーさんご自身は楽しんでいらっしゃいますか? 私は以前から観たかった演目ですけれども……」


「えっ? なんだそんなこと気にしているの? もちろん楽しんでいるよ。こう見えても私は子供の頃ね、王宮楽士を目指してヴァイオリンを習っていたのだよ。だから歌や演技よりは音楽の方に興味があるのだけど」


「まあ、そうだったのですか?」


「うん。才能不足で結局は現在はこうして文官だ」


「今でも趣味としてヴァイオリンをたしなまれるのですか?」


「少しだけだから。何か弾いてくれ、と言われても困るのだけど。人様に聴かせるほど弾けないから」


「あら、先手を打たれましたわ」


「ははは、さあそろそろ第二幕が始まるかな、戻ろう」


 私自身はこれといった趣味もなく、ピアノは少し弾けますが、弦楽器が弾ける人は無条件に尊敬します。


 第二幕が始まり、私は劇の結末がどうなるかは分かっていながらも、最後は少し涙ぐんでしまいました。歌も音楽も素晴らしく、私は大満足でした。




 劇場を出ると辺りはすっかり暗くなっていました。ティエリーさんに送られてガニョン家の馬車で屋敷に戻ります。我が家の玄関前にもうすぐ着くという時、馬車の窓から薄暗い玄関灯の下に男性が仁王立ちしている影がちらりと見えました。


 父ではありません。あの体型は、もしかして……心当たりがありました。馬車が止まり、先に降りたティエリーさんが私に手を差し出してくれ、私も馬車から降りました。


「おやおやおや、誰かと思ったら……親愛なる弟マキシム君じゃないか。君がペンクールから帰ってきて以来、自宅では滅多に顔を合わせることもないのに、ここソンルグレ家ではやたら良く会うねぇ」


 何だかティエリーさんは面白がっています。


「兄上、コイツとどちらまで?」


 マキシムはティエリーさんに掴みかからんばかりの剣幕です。


「まあまあ、そんな怖い顔するなよ。若いお嬢さんの前だよ」


「あの、こんばんは、マキシムさん」


 私まで何故かマキシムにギロリと睨まれてしまいます。


「とりあえず中に入ろうか、玄関前で立ち話もね。もう外は真っ暗なのだし」


 ティエリーさんは私の腰にそっと手を添えて屋敷の中にはいります。不貞腐れた顔のマキシムが私たちの後に続きます。書斎の明かりがついています。父に違いありません。


「ティエリーさん、今日はありがとうございました。とても楽しかったです。えっと、マキシムさんも、その、お休みなさい」


 マキシムはまだ不機嫌そうな顔で何故か私の帽子に髪にドレスとねめつけるように見ています。普段よりもお洒落をしているのが似合ってないとでも言いたいのでしょうか、そこでマキシムが口を開きかけたところに父が出てきました。


「ローズ、お帰り。どうだった?」


「お父さま、感動致しました。観に行けて本当に良かったですわ」


 父はマキシムまでいることに気付いたようですが何も言わず、彼まで楽しそうな表情です。


「ソンルグレ侯爵、私はこれで失礼致します」


「ローズがお世話になったね」


「いいえ、とんでもありません。私の方こそ彼女と一緒に出掛けられて楽しかったです。ほらマックス、帰るぞ」


 マキシムは何も言わず、それでも父に頭を下げてティエリーさんについて玄関の扉から出て行きました。


「さて、ローズ姫も無事に帰宅したことだし、僕も休むかな」


「お父さま、わざわざ私の帰りを待っていて下さったのですか?」


「うん、お母様には門の前まで出て今か今かと待ち受けるのだけは止めろ、と冗談を言われたけれどね。流石に僕もそこまではね、ティエリーは紳士だし……でも僕の代わりに君の守護騎士殿が玄関前で待ち構えていたようだねぇ」


 父はさも可笑しそうに私にウィンクまでします。


「あれが私の守護騎士……ですか?」


 私は半分笑いながらも怪訝な顔になりました。


「だってそうだろう?」


 父は益々悪戯っぽい笑みになり、私の額に軽く口付けてお休みと言うと階段を上っていきます。私の頭の中は疑問符でいっぱいでした。




***ひとこと***

強敵、実兄ティエリーさんの登場に、マキシムは気が気ではありません。

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