第3話:生糸商人の浮き沈み2

 原善三郎は生糸相場が過熱してきたと感じると、生糸価格が下げ始めると

考えて、積極的な売買を控えて手を出さないようにしていった。その後、金

と相場が下げ始め様子を見て、上げに転換したと感じると、静かに買い始め

、原善三郎が買い始めると、他の商人も買い始めると言うくらいに生糸市場

が上昇する。


 そして気がついた時には、一気に買いに走るという、長い商売で培った

鋭い勘で、1871年に起こった、普仏戦争によるフランスによる生糸輸入

停止での生糸価格暴落の時も何とか原善三郎は逃げ切った。


 10年後、28歳(1872年)の時には安田亀吉の資産が数倍に

なった。ある時、原善治郎が、それだけの資産を得たのだから。

 お屋敷を建てたり、店屋を出して商売しないのかと尋ねたところ、俺は

小さい時から質素な生活に慣れていて、この店の離れの小さな部屋で充分だ

と言った。


 その後、1873年頃に大隈重信が民部・大蔵卿に就任して、殖産興業

として西洋諸国に対抗し、機械工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家

の近代化を推進した諸政策を打ち出し、官営富岡製糸場を建てた。

 これらを見て原善三郎は、再び生糸の価格が上がると見込んで日本中から

生糸を買って買って買いまくった。その後、明治9年・1876年は

製糸にとり衝撃的な年となった。原善三郎は莫大な資産を既に持っていて

、安い時に一気に買う行動をとっていると7月の新糸相場は1梱・9貫、

250円が月末には300円、9月には600円の高値を示したので、

すぐに外国商人に売って、ほとんど9月に売ってしまい10月に入ると

下り始め、また一気に金に物言わせて買いまくった。


 12月には再び7月の高値に戻り外国商人売りつけた。この10年強で

、橫浜商人の中でも最大の資産家となった。しかし1880年に大蔵卿が

大隈重信から松方正義になって今までと真逆の方針が行われ始めた。


 徹底した緊縮財政、たばこ税や酒税を増税、軍事費以外の政府予算の

縮小、官営事業の払下げ。この結果、緊縮財政により、物価が下がり始めた。

 この様子を見て、原善三郎は生糸相場が再び下がると考え、生糸の売買

をしなくなり、様子を見るようにした。その読み通り、1884年に世界的

な不景気も相まって生糸価格の大暴落が起きたが、ほとんど影響を受けず

にすんだ。原善三郎は生糸相場の値段の変動の激しさを熟知して安い時に

潤沢な資本を利用して一括買いをして価格上昇した時に売る方法で着実に

利益を積み上げていった。その生糸相場の乱高下で橫浜生糸商人も多く

が店が倒産して、人数が減っていった。その中で原善三郎は生糸相場が

上がり始めると見ると一気に売買をして下げ始めると、ぴたっと商売を

小さくする方法で着実に稼いで、資産を増やしていった。

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