忌み名につき

 2022年の夏ごろに、僕は『バセドウ病』という病気にかかった。

 子細は省くが、甲状腺ホルモンに異常をきたし、新陳代謝を過剰に行う、という病気である。主な症状は動悸や手足の麻痺で、その内動悸というのが実に厄介だった。


 心臓が早鐘をうち、急激に脳の中の酸素が失われて行き、途端に『ぼぉっ』としてしまうのだ。

 頭が真っ白になるという表現や、何も考えられないというセリフが小説などで使われるが、まさにそういう状態に陥ってしまう。


 取材はもちろん、執筆など出来ようはずもなく、ゲームをしても長続きはせず、読書をしても、映画を見ても理解しきる前に脳が悲鳴を上げるようになっていた。


 僕がそんな様であることについては、一応知り合い各位には伝えており、時折心配げなラインが届いていた。

 その中で一人だけ、ディスコード(ボイスチャットツール)で話せるか? と聞いてきた者が居た。


 宮原(仮名)という、専門学校時代の同級生でゲーム会社に勤めるデザイナーだった。


 近況報告がてら、自分が体験した妙な話について聞いてもらいたいのだと。

 複雑な話や長い話は無理だぞと念押ししたが、彼曰く非常に短くまた簡単な話であるとのことだった。


 以降は宮原から聞いた話を簡単にまとめたものである。

 彼の言うとおり、話自体は簡単なもので、正直怪談ですらないのだが、とかく以下に記すことにした。


◆◆◆


 PLATEU(プラトー)というものがある。

 これは国土交通省が主導した、日本の主要都市の3Dマップモデルを作成するプロジェクトの名称だった。

 ゴールデンウィーク、宮原は多少の予定はあったものの、その大部分は予定が無く、さてどうしたものかと悩んでいるときにこのプラトーを見つけたらしい。


 彼には昔からささやかな夢があった。

 それは彼の地元(仮にA市とする)の街を舞台にしたアクションゲームを作りたいというものだった。

 本人も正直忘れているほどのささやかなものだったが、プラトーの記事をたまたま目にしたときに、ふとそれを思い出したのだと言う。


 ゴールデンウィークの予定が決まり、彼はしばらくプラトーの仕様を確認することになる。そこで気づいたのだが、プラトーでは都市の3Dモデルはあるが、そのモデルに張り付けるテクスチャは殆ど無いに等しいものだった。

 

 開発用ツールでプラトーの3Dモデルを表示させても、塗装されていない灰色のプラモデルの街並みが表示されるだけ。

 いや、これだけでも十分なことなのだが、しかし宮原の心は満たされなかった。


 だが幸いなことに宮原はデザイナーだった。

 テクスチャが無いのであれば作ってしまえば良い。

 ということで彼はグーグルマップから地元の写真をダウンロードし、それを加工してプラトーのマップモデルに張り付け始めた。


 そのうちにふと奇妙なものを見つけたのだと言う。


 それは地蔵だった。

 とあるビルとビルの間に地蔵が置かれていたのだ。

 

 どうしてこんなところに、という疑問はありつつもその時はそのまま作業を続けることにしたと言う。

 ただ、どうにも地蔵という神仏を写真でコピーして作るというのが怖くなり、宮原は地蔵だけは作らなかったらしい。


 後日。

 ゴールデンウィークが明けたある日。

 銀行に用事があり、外出していた宮原はふと自分の今いる道が、かつての地蔵にほど近い場所であることを思い出した。

 

 単なる興味本位だけで宮原はその地蔵を見に行くことにした。

 以前にグーグルマップで見たビルが見えてきて、ふとその脇にある細い路地をのぞき込む。

 

 時刻は昼の十二時。通りには陽の光がさんさんと降り注いていたが、立地のせいか、その細い路地にはその光は射しこんではいなかった。

 薄暗い路地からはほのかに冷ややかな風が吹いてきて、なぜかそれが背中をぞくりと撫でたような気がした。

 

 やはりぽつりと地蔵がこちらを向いて立っていた。

 しかしその頭は何かに打ち砕かれたのか、粉々に砕けていて、今は残った胴体だけがじぃっとこちらを向いているだけだったのだと言う。


◆◆◆


 宮原から聞いた、この怪談未満の気味の悪い話に関して、僕は当時彼に「ありがとう」と礼だけは言ったが、正直使えそうもないなとその時は棚上げしていた。

 確かによくわからない所にある地蔵は怖いものだし、まして見に行ったら頭が無かったというのも不気味だが、別に幽霊が出てくるわけでもないので「ちょっと不気味だなぁ」くらいの話である。


 さて、そんな話を聞いてから二か月後。

 季節はちょうど盆休みの頃。

 僕はまた別の人間から怪談のような話を聞かされることになる。

 一度はプレイをやめていた、ポケモンのチームゲームを友人とすることがあり、そろそろ話題も尽きてきたかという時に思い出したように語り出したのだ。

 彼の話を聞いて、僕は宮原の話を思い出すことになる。


 次はその友人———竹下(仮名)の話である。


◆◆◆

 

 竹下も僕と同じゲーム業界の人間で、彼はプログラマーだった。

 今から2年ほど前に、竹下はあるプロジェクトに入ることとなった。プロジェクト自体はプロト版の開発が終わり、本開発——アルファ版に向けての開発が始まったばかりだったと言う。

 なおジャンルは恋愛シミュレーションであったらしい。


 プロト版からアルファ版の開発に移るタイミングということもあり、増員が行われ、外部の会社からも出向という形で人を足すこととなった。

 この辺りは開発としてはよくある話だ。


 竹下もすでに就職して5年が経過しており、毎度のことだなと認識していたが、ふと一点、そんな彼がふと気になった所があったのだと言う。


 協力会社にアサインについて相談する際、該当する人物が居れば、その人物のスキルシートを送ってもらうのだが、実はその際スキルシートには本名が記載されていないことが多い。

 僕も過去何度かやり取りをした経験があるが、殆どイニシャルが書かれているだけだったと記憶している。


 ただ、竹下のプロジェクトでは、そのスキルシートが届いたタイミングで該当の人物の本名を教えてほしいと、連絡を入れていたらしいのだ。

 正式にチームに加入した後、業務用の諸々のアカウントを作成するタイミングで情報を貰うのが一般的ではあるので、竹下はこの対応に少々違和感を覚えたのだと言う。


 また面談を行う際、進行を担当する人間が名前以外にも出身地についてもそれとなく聞き始める。

 互いの緊張をほぐすためのアイスブレイクの一環としてなら分からなくもないが、それを必ず全員に対して行い始めたので、何か意図があってそうしているのか、それともレパートリーがそれしかないのか。

 竹下としては、ここも少しばかり困惑する所だった。


 そしてチームメンバーも揃い、本開発が始まろうとした時、ディレクターが「ではお参りに行きましょう」と言い始めた。


 プロジェクトの成功を願って、というわけでもなく、ただ『お参りに』とだけ言ってディレクターが予定を組み始める。

 チームメンバーに拒否権は無いらしく、全員が強制参加だった。


 神社仏閣に関心のあった竹下としては、別にそこは問題ではなく、むしろどういった神社に行くのだろうと、やや好奇心さえ抱いていたらしいのだが、その場所というのは予想に反したものだった。


 竹下の会社はとあるビルの2階をまるまる借り切ってオフィスにしており、そのお参りの場所というのはビルの裏手にある『地蔵』だったのだ。


 何回かに分けてぞろぞろと6人ほどのチームメンバーで、ビルの一回に降りる。

 隣のビルとの間にある薄暗い細い路地に出て、表通りに向いている地蔵に手を合わせる。


 何故こんなところに地蔵があるのか。

 何故、この地蔵に手を合わせているのか。


 一切の説明は無かったが、古株の社員たちは慣れたように済ませたため、竹下はその理由について上司に問うことが出来なかった。 

 

「でも多分、あれ疫病神やってんって」

 竹下が言う。

「俺、あの後バイクで事故って足やってもうてな。開発の中期から休職してもうて、戻ってきたらプロジェクトが解散しとったんや」


「首は?」

 ぶーたれる竹下の言葉を聞きながら、僕は昔、宮原から聞いた話を思い出していた。

 まさかと思いつつ問いを投げかけると、竹下は「首?」と短く返してきた。

「いや、首。もしかして無かったんとちゃうんか?」

「あったよ」

 と竹下。しかし直後に「あ」と呟いた。


「でも目ぇ無かったわ」


◆◆◆


 竹下と宮原の話を聞いた僕は、その後に彼らから事件が起こった場所について改めて確認した。

 宮原からは「何をいまさら」といった風に少しばかり呆れられたが、竹下の話を伝えると、とたんに興味が出たようでビルの情報を教えてくれた。


 結論を言うと、二人が言っていた地蔵は同じものだった。

 

 ゲーム会社と地蔵に何の関係があると言うのか。

 またなぜその地蔵に目が無く、宮原が見た時には壊れてしまっていたのか。


 後日、僕はただただ好奇心のままに、竹下に先輩を紹介してくれないかと電話で尋ねていた。

 病気は良いのかと返されたが、いつまでも家に引きこもっていても仕方がない。

 何か気晴らしをしなければ、それこそ治るものも治らないというものだ、と適当に理由をつけて話をした。


 どうにも竹下が渋っているような気がしたので、僕はゴリ押しするような形でお願いした。

(後になって知ったのだが、どうやら竹下はその会社をすでに辞めており、どうにも前職の職場の人間と顔を合わせるのが気まずかったらしい)


 ややあって、電話越しに竹下が僕にいくつかの質問をした。

 僕のフルネームと、親族の下の名前である。


「ほんなら、ええか」

 父と母、両方の祖母の名前を伝えると、竹下はため息交じりにそう返事をした。

 竹下に後のことを託すと、翌日、今週末の夜に竹下の先輩でもあり、かつて竹下が地蔵を拝みに行くことになったプロジェクトのディレクターである人物との飲み会がセッティング出来たと連絡があった。

 

◆◆◆


 金曜の夜。

 僕は竹下が用意してくれた大阪福島の居酒屋に向かっていた。

 店はいわゆる大衆居酒屋のようなところで、竹下が呼んでくれた先輩との関係性がおそらくそう堅苦しくないものであろうと、想像できた。


 店の前にはすでに竹下と、その先輩らしき人物が談笑をしており、僕を視界に納めると二人ともぺこりと会釈をする。反射で僕も頭を下げ、軽い自己紹介をしてから三人で店へと入った。


 竹下が呼んでくれた先輩は、見た目は40を少し過ぎたくらいの男性だった。

 名前は『桜田(仮名)』とする。


 ビールで喉を潤しつつ、改めて竹下が桜田さんに僕を紹介する。

 元々ゲーム業界で働いていて、今は怪談を集めている物好きだと。


 怪談、という所でぴくりと桜田さんが反応する。

 おそらくこの飲み会の目的について、察しがついたのだろう。

 少しばかり渋い顔をしながら、竹下を見やると、竹下は苦笑と共に軽く頭を下げていた。


 さすがに申し訳なくなり僕も「すみません」と苦笑いをしつつ、頭を下げた。

 ただ、桜田さんは「いえいえ」と首を横に振り「正直、あの話はワタシたちも良く分かっていないんですね。なので、ガイシさんのような詳しい方に聞いていただいたほうが、良いのかもしれません……」


 と、告げてから桜田さんはとつとつと語り始めた。

 以降は彼の語りを文章に起こしたものである。


◆◆◆


 ワタシたちの会社にはあるルールがありまして。

 えぇ、奇妙な話なのですが、ある名前のスタッフ――社内、社外問わず、ですね。ある名前のスタッフを雇う場合は必ず、ビルの管理人さんに一報を入れて、そして一階のお地蔵様にあいさつをしなければならない、というルールがあるのです。


 えぇ、奇妙な話でしょう?

 実は、ワタシもどうしてそんな事になっているのか知らないのです。

 ですが、ワタシの先輩も、その先輩の社長も『必ず』そうするようにと念押しされまして。

 正直、昔その名前の人にひどい目を合わされることがあったのかなとも思ったのですが、実際は謎です。


 その案件でも同じようにワタシは、スタッフの名前に件のものが無いことを確認し、開発が本格的に始まる段になって、形式的にお参りに行きました。

 こちらは先輩から教えられたものでして、もしチーム内にその名前の人間が居なくても、とりあえず全員でお参りしろと言われていたんですね。


 竹下さんも参加されていたと思います。


 で、開発が始まりました。

 さすがにもう言ってもいいかもしれませんが、当時ワタシたちが作っていたのは男性向けの恋愛シミュレーションゲームでした。

 

 複数のヒロインが居て、主人公がそれぞれ攻略して――とまぁ、よくあるものです。

 強いて挙げるなら、時代設定が少し古めだったことでしょうか。

 スキマを狙ったのか、時代を昭和に設定していたんですね。


 だから、登場人物の名前も少しばかり古めかしいものでして。


 えぇ、そうなんです。

 そのヒロインの中に、あったんですよ、その名前が。


 ガイシさんも業界が長いので、経験があるかと思いますが、我々開発会社はプログラムを組んだり、仕様を切ったり、デザインリソースを用意することはあっても世界観や全体のコンセプト、またシナリオについてはクライアントの会社が用意することが大半です。


 その案件でも同じように、クライアントがこれこれこういったコンセプトで恋愛シミュレーションゲームを作りたいと、うちの会社に持ち掛けてきた話だったんですね。

 で、シナリオもクライアントの会社が用意したライターが書く、とそういう風になっていまして。

 さすがにクライアントやそこからの外注会社にまでは、例のルールの話はしていませんでした。

 とはいえ、理由を伝えてヒロインの名前を変えてもらうわけにもいかず……。

 仕方なく開発はそのまま進みました。


 最初は特に問題なかったのですが、途中であるトラブルが起こりましてね。


 というのも、例の名前のヒロインが急遽没になったんですよ。

 えぇ、クライアントからの指示で没にしてほしいと。全ボツです。


 まぁ、その……、あまり言いふらさないでいただきたいんですけど、そのヒロインの声を宛てる予定だった女性声優さんが大麻所持で警察に捕まりましてね。

 

 その頃には収録も一通り終わってしまっていて、開発スケジュール的にも新たに人を立てて収録しなおす……というのも難しかったんですね。


 それで止む無く、そのヒロインのルートを没にしたんです。

 ワタシとしても、その没になったヒロインの名前が気になっていたので、このまま消えてくれると良いなぁと考えていました。

 

 ですが、問題は発生しました。

 市原という、あるプランナーがその決定に強く反発したのです。

 彼はその没となったヒロインのアドベンチャースクリプトを作成していたのですが、曰く『彼女を没にするなんてもってのほかだと』


 気持ちとしては分からなくもありません。

 確かにそのキャラのシナリオは出来も良かったし、デザインも人気が出そうな見た目をしていました。

 とはいえ、我々には声優さんとの繋がりもないため自力でキャスティングする事も出来ず、クライアントの指示通りに没にするしかなかったんです。


 で、そのキャラの件について改めてチームに展開した日、彼はそれで納得したように見えたんです。


 ですけどね。

 一週間後くらいに、市原が離席しているときに不意に彼のモニターが見えたんですよ。

 最初はただ作りかけのアドベンチャースクリプトが表示されてるだけかと思ったんですが、よくよく見ると件の没になったキャラが表示されていたんです。

 スケジュール上、市原は今頃別のキャラのスクリプトを書いているはずなので、このキャラのスクリプトがモニターに表示されているのには多少違和感がありましたが、そこまで強いものは感じませんでした。


 ガイシさんはスクリプトを作成されたことは……?

 あぁ、ありましたか。

 形式は古いものですかね?

 そうですか。でしたら分かるかと思うのですが、以前に自分が書いたスクリプトのコードを確認してそれをコピーしたい事ってありますよね。

 まぁ、ワタシはそれだと思ったんです。


 あの時のあの演出はどういう風に書いていたのか。

 ゼロからイチイチかくのも面倒なので、昔書いたものからコピーしてきてしまおうと。


 ――今にして思うと、そういう風にして納得しようとしていただけなのかもしれませんね。


 とにかく、その時もそれで終わりでした。


 決定的なことが起こったのは、その翌週です。

 チームのほかのメンバーから市原の様子がどうにもおかしいと。

 しきりに後ろを振り返るし、窓をじっと見ていることがあると。

 残業もかなり多く、そうなるほどの作業を渡しているつもりも無かったので、各部門のリーダーと共に彼のヒアリングを行いました。


 久方ぶりに市原と面と向かってみて、彼が少しやせていることに気づきました。

 よく見れば目の下にクマがあり、それも相当に深いものになっている。


 当時のワタシは何かプライベートでショックなことがあったのか、と思いつつ、彼に最近の勤怠について尋ねました。


 すると彼は眠れていないのです、と。

『ずっと耳元であの子の声がするんです。僕を呼んでるんです』

『窓の向こうにあの子がおって、僕を呼んでるんです』

『あの子が殺さんとってって泣いとるんです』

『開けて開けて、て』『一緒に遊ぼ、て』


『目ぇ返してって』


 最初は小雨のように喋っていた市原でしたが、最後は豪雨のようにまくしたてるようにそう言っていました。

 あの子が、あの子が、あの子がと。


 ――はい、正確には『あの子が』とは言っていません。本当に言っていたのは例の名前です。

 とはいえ、障りがあってはいけませんので、ひとまずここでは『あの子』と。


 もはやヒアリングだったのか、市原の爆発だったのか分からない何かが終わった後、ワタシは上長とも相談し彼を休職させました。

 おそらくはノイローゼだろうと。

 

 しかし、これは本当にただのノイローゼなのだろうか。

 例の『あの子』が原因なのではなかろうかと。その時のワタシはすでに思い始めていました。

 オカルトを信じているわけではないのですが、あの奇妙なルールと名前の一致。

 ――それから、事情を話した後の役員たちが妙に納得するのが早かったこと。

 それら二つがワタシにはどうしても気になったのです。


 それから一月ばかり経ちまして。

 ロムの提出日が差し迫ってきました。

 ベータ2くらいでしたかね? 例のキャラをボツにして、主な不具合を取り切った後のロムです。


 お約束のような話ですが、その日も夜遅くまで会社に残って作業をしていましてね。時刻は確か23時頃だったかなと。

 もうすぐ終電が無くなると話していたのを覚えています。


 まぁ、作業も殆ど終わり今から最後の提出ロムを焼く所でした。

 一応前倒しにスケジュールを進めていたので社内チェックも十分にでき、ロムの内容もワタシの目から見て問題ない仕上がりになっていました。


 社内にはワタシ以外にも幾人かのスタッフもいましたが、彼らももう休憩に入っていて、のんびりとしていましたね。


 それで納品用のロムを焼いている所で突然、


 バキバキバキ


 と何かが折れる……というか砕けるような音が聞こえたのです。

 それと同時に、ぶつんと急に部屋の電気が消え、パソコンの電源も落ちました。

 

 働きすぎて一周回って麻痺しているのか、チームメンバーは対して焦ることもなく、この停電を受け入れていました。

 懐中電灯を探しに行くもの、パソコンの再起動をするもの。


 その中で、あー! という間抜けな絶叫がフロアに響き渡りました。

 そうです。ロムを焼いている最中に停電になってしまったので、ロムをまた焼き直す必要が出てきてしまったんですね。

 ロム焼き機の番をしていたスタッフががっくりと肩を落とすのが、暗闇の中で見えました。


 停電は程なくして復旧しましたが、案の定ロムは焼き直しになりました。

 そうして0時になる頃に最後のロムが焼き上がり、念のため最終チェックをワタシが行う事になりました。

 皆、これが終われば帰れるので、特に呼んだわけでもないのですがワタシの机の周りに集まりまして。


 ゲームをプレイしつつ、今後の改修についてあれやこれやと喋りつつ、テストを進めていきました。

 そのうちにあるスタッフが「あ」と声を漏らしました。


 すっと画面を指さして、「なんでこれ出てるんや」と。


 画面はプレイヤーが、とある選択を行う所でした。

 ある場所に行き、3つのものが落ちているので、そのうちの一つを持ち帰る。どれを持ち帰るのか、という選択肢です。


 問題は、そのあるものの一つが、件のボツになったヒロインのルートに入るためのアイテムだったのです。

 もちろん、そのヒロインのルートはもう無いわけですから、ここの選択肢からも消えているはずです。ワタシもそのように指示をしました。

 しかし、現に今も出てしまっている。


 あくまで仕事として嫌な思いをしながら、ワタシはその選択肢を選びました。

 後ろでは、アドベンチャースクリプトのデータ更新をするべきだというチームメンバーの会話が聞こえます。


 結論から言ってしまうと、殆どそのままデータが残ってしまっていました。

 大方、市原がデータをそのままにしてしまったのだろうと、ほかのメンバーは言いましたが、ワタシは妙に嫌な予感がしていました。

 

 本当にそうだろうか、と。

 そもそも、停電前にワタシが見ていたロムでは、こんな不具合は無かったのです。

 

 データを最新のものにして、再度ゲームをチェックすると、しかしやはり例のヒロインが出てくるのです。

 参照するデータが保存されているフォルダには何のデータもありません。

 だから彼女が何かを喋るわけがないのに、モニターの中で彼女はかつてのセリフを口にし続けます。


 データの読み込みが上手くいかないのではと、別のスタッフが言い、それを試しましたが、別のヒロインのデータはきちんと更新されました。


 そればかりか、ロムを焼き直すたびに症状がひどくなっていくのです。

 最初は例のヒロインのデータが残っているだけ、その次は一部のキャライラストが例のヒロインに置き換わるようになり、最後は何をどのように選んでも例のヒロインのルートに行くようになったのです。


 気づけば0時からさらに時が経ち、時刻は夜中の一時になっていました。

 休憩ムードで和やかだったオフィスが、気づけばしんと静まり返っていました。

 

 例のヒロインのスクリプトデータは削除済みで、画像リソースも同じくです。

 最後に一度だけ、プログラム内で特定のヒロインの好感度を最大にして強制的にそのルートに行くように設定したのですが、それでも例のヒロインのルートに行ってしまいました。

 

 処理も、中身も無いと言うのに彼女はまだそこに居て、ずっとずっとずっと居続けている。何があっても主人公と彼女は結ばれてしまう。

 とにかく理屈が分かりませんでした。

 今になって冷静に見てみれば、何か原因が分かるのかもしれませんが、あの時の自分たちではとても……。


 不具合……、ただの不具合のはずなのですが、皆うっすらと脳裏に浮かんでいるものがあったはずです。ワタシも同じでした。

 プログラムをいじってなお、発生する現象を前にもはや誰も何も言いませんでした。

 言うべきかどうか、言葉を飲み込み続けていたように思います。


 プルルル


 と、突然ワタシの机の上の電話が鳴り、皆びくりと体を震わせました。

 発信者の欄には、それが来客用の出入口からのものであると表示されていました。

 こんな時間に誰が――。


 恐る恐るワタシが電話を取ると、

『お疲れ様です。桜田さんはまだおられますかね』


 このビルの管理人の喜一という方でした。

「はい、ワタシですが。……停電の件ですかね?」

『あぁ、いえいえ。桜田さんにお客さんが来られていまして、今ビルの一階にいるんですよ』


 おかしな話でしょう……?

 ワタシに用だというのなら、ここまで上がってくればいい。

 どうして管理人の喜一さんを通しているのか。

 喜一さんもどうしてそれを受け入れているのか。


『そういえば、最近○○○絡みで何かありましたか?』

 先ほどの自分の疑問は、喜一さんの言葉で吹き飛びました。

 自分たちのゲームのことは言っていません。守秘義務があるので当然ですが……。

 しかし彼は例の名前絡みで何かあったと言い当てたのです。

 気味が悪いというか、何というか……。


 とはいえ、正直に話すことも出来ません。先も言いましたがゲームの内容については他言無用です。ワタシは何もありませんよ、と返しました。

 ですが、それでもなお喜一さんは、そういう名前の人を雇っているわけではないですよね、と食い下がるものですから、それは決して無いですよと言って会話を終えました。


 ひとまずメンバーに事情を説明して、フロアを出て廊下に。その来客を迎えに行きました。すでに会社を出た社員の誰かが忘れ物を取りに帰りに来たのかもと思っていました。

 時間が時間だったので、廊下の電気は消えていて、真っ暗な中でうすぼんやりと天井の蛍光灯が光っていました。

 エレベーターのボタンを押して、乗り込んで一階に向かう。


 ワタシたちの会社が入っているビルは、それほどハイカラなものではありません。

 一階のロビーは管理人室があり、簡単な受付があって、地下階の階段があるだけのものです。

 夜の19時になると表玄関のシャッターが下りて、中の明かりは22時に消える。


 ワタシが一階に降りると、当然明かりはすべて消えていました。

 一切の明かりがないために、真っ暗でただワタシの「コツンコツン」という靴音だけが響きました。


 しばしあたりを見回しましたが、喜一さんが言っていたワタシの客人なる人物は見当たりません。

 狐につままれたのか、あるいは喜一さんがボケたのか。


 えぇ、喜一さんという管理人さんは失礼ながら、かなり高齢の方でして。

 会話したことは数えるほどしかありませんでしたが、会話がかみ合わないことが多々あって……。


 すみません、脱線しましたね。

 それで、ワタシは適当にロビーを歩きましたが誰もおらず、もう帰ってしまおうかとエレベーターのほうに戻ろうとして――、そこで不意に『ぺたぺた』という音を聞いたのです。


 てっきりワタシの足音かと思い、確かめるように鳴らしてみましたが、コツンコツンとなるばかり。対して、そのぺたぺたという音はワタシの動きとは関係のないタイミングでなり続けている。


 居る。


 誰かが――あるいは何かがこの暗闇の中に居るのです。


 麻痺していた感覚が急に素面に戻っていき、ワタシは怖くなってエレベーターのボタンを押しました。

 エレベーターの扉がすぐに開いて、そこに飛び込みました。

 閉じるボタンを押して、そこでワタシは嫌なことを思い出しました。


 このビルのエレベーターは閉じるボタンを押して数秒経ってから閉まるようになっているのです。安全面を考慮してのものなのかもしれませんが、その時のワタシからすれば鬱陶しい以外のなにものでもありません。


 開きっぱなしの扉に早く締まれと念じる間にも


 ぺた、ぺた、ぺた、ぺたぺたたたた


 と足音らしいものが近づいてくるのが聞こえてきました。

 ようやく扉が閉まり始めた頃には足音はすぐ傍までやってきていて、


 ぬぅっと暗闇の中から、細く白い腕が扉を少し抑え、扉が閉まりゆくのをわずかに止め、そしてさらにずずずと襖から中を覗き込むように白い顔が出てくるのです。


 かしげるように白い顔が現れました。

 顔はやつれていて、肌は病的に白くなっていて、そして閉じた瞼からは赤い血がどぼどぼと流れているのです。


『桜田さん』


 それが口を開きました。

 ワタシはその声を聞いて愕然としました。

 それは市原だったのです。


『あの子、元気にしてますか?』


 何もかもが嚙み合わない状況で、彼は目を閉じたままそう言ったのです。

『あの子がね、ずっと呼んでるんです』

『まだけえへんのって』

『みんな笑ってるって』

『喜んでるって』

『遊ぼって』

『来るんやったら取らなあかんよって』


『目』


 市原の言葉を最後までは聞き取れませんでした。

 彼の細い腕では抑えきれなかったのか、エレベーターの扉はずるずると閉まっていき、ワタシは彼を一階において会社まで戻っていました。


 力が抜けてエレベーターの中で座り込んだのを覚えています。

 市原の言葉は何も分かりませんでした。

 ただ、彼がワタシに喋りかけている間、彼のものだけでは説明のつかないほどの、裸足の足音がそこら中に響き渡っていることだけは、どうにか認識できました。



 その後、ロム出しは翌週に延期し、スタッフには先の件は告げず恐る恐る全員で非常階段からロビーを通らずに退社しました。

 翌週に作成したロムは問題なく動作するようになっていました。


 市原については、後日色々と調査しましたが行方が分からなくなっており――ワタシが会社を辞めるまで、消息は不明のままでした。



 停電のあった日に何かが砕けるような音が聞こえたのですが、あれの正体についても、また停電の理由についても不明のままでした。

 落雷があったわけでも、電力を使いすぎたわけでもない。


 なら、あの音が原因だったのかもしれませんが、実際の所は分かりません。


 ……お地蔵様ですか。

 えぇ……壊れていました。

 それからすぐに直されましたが。


 壊れ方、ですか?


 ――それが奇妙なことに粉々にはなっていたのですが、破片は殆ど周囲には飛び散っておらず、お地蔵様のすぐ近くに少しだけ散らかるばかりで……。

自分から壊れたのか、あるいは丁寧に外側から一斉に圧力がかかったような壊れ方で……。


◆◆◆


 桜田さんの話を聞き終えた僕は、翌日から例のビル近辺の過去について調べるようになっていた。


 例のビルが出来たのは平成11年。それ以前はまた別のビルがあり、さらにその前――昭和ではホテルになっていた。さらにそのまえ大正時代では宿屋。

 

 地蔵が設置されるのには幾つか理由がある、代表的なのは事故などがあった場所に対して慰霊のためのものだ。

 その線を探るために僕はこの辺りの過去の情報を軽く調べていたのだが、どうにもそういう情報は出てこない。


 地蔵が設置される理由は他に、道の角というものがある。

 これは集落や町、そういった人のコミュニティを区切る場合に角より良くないものが来るとされており、それを防ぐためにそこに地蔵を設置するというものである。


 過去、そういった場所ではあったが昨今の開発が進んで街の形が変わり、地蔵だけが今もそこに取り残されている、というのは例として少なくない。

 事件も事故もないのに、妙なところにあるお地蔵さまは、そう言った事情でそこにあることが多いのだ。


 しかし、調べてみてもこれとも異なる。

 いや、そもそもこれもしっくりこない。


 桜田さんの話では地蔵は壊れた後、修理されたという。

 もし区画整理の際に取り残されたものなら、そこで撤去されるのが普通ではないだろうか。

 信心深く、地蔵を無下に扱うのが怖かった、と言われればそれまでだが、やはり竹下の話と合わせて、あの地蔵はそこに在るべくして在る、という見方をするのが正しいように感じた。


 最後に、地蔵が設置される理由として水子地蔵がある。

 流産などによって水子となった霊を鎮めるための地蔵である。かつてはそうしたことがあった場合に、個人が私有地の中に地蔵を置くということも珍しくなかった。

 集めた資料に再び目を通す。

 今でこそビルが建っているのみだが、大正時代ではあそこには大きな宿屋があり、近くにはその宿屋を経営する家族のための屋敷もあった。こちらもそれなりの大きさのものであることは、古地図からうかがえた。

 であれば地蔵を置く事も容易かとは思われるが。


 また目というのも気になるワードである。

 目成しが転じて目無。目の不自由な方のための、目の無いお地蔵様というのは各地にあるのだが、今回は場所がいささか腑に落ちない。


 時刻は夜の2時。

 桜田さんの話も併せて、なんだか本当に得体のしれないものに触れているような気がして、僕はその日はもう寝てしまおうと思い、パソコンから席を離れたその時だった。


 テーブルの上に置いていたスマートフォンに着信があった。

 見れば通話である。相手の名前には『江良坂』と出ており、これは久しく会っていない女友達のものであった。


 何となく嫌な予感がして出てみると

「いまーひまぁーー?」

 と案の定酔っぱらいの声がした。

 暇ではないとぴしゃりと返すと、電話の向こうでは「うぅむ」と無駄に考え込むような声が帰ってくる。


 学生時代からの付き合いだが、彼女はどうにも酔っぱらうと誰かれ構わず電話で呼びつけて一緒に呑む癖がある。

 曰く、飲むと楽しいのでその楽しさを分けてあげたいから、らしい。

 子細を省いて恐縮ではあるが、まさしくSIRENの屍人である。


 とにかく今日はもう遅いから行けない、という事と随分と酔っぱらっているからもう帰るようにと伝える。

 しかし江良坂も中々折れず、聞けば愚痴を言いたいらしかった。


 今年で30と、よい歳になったのでわが身を顧みて転職活動をしているという。その一環で良さそうな会社を見つけ、最終面接まで進んだものの奇妙な理由で落とされたそうだ。


「名前」

 ぶすっとした声で彼女は言った。

「名前がなー、アカンって言われてん。なんか、ビル全体のルールで、あんま良くないことが起こるってー。会社としては良いと思ってるけど、それで君に何かあったらアカンやろうからってさー」


 名前。


「なぁ、それどこの会社?」

「ふふん、知りたいん? 知りたいんやー」


 へべれけである。

 興味があるから後日飲もうと返事をすると、江良坂からの返事は無く電話はぶつりと切れた。電話の向こうには複数人の喋り声が聞こえていたので、別に祟りに見舞われたという事も無いだろう。

 大方急に寝たのだ。よくある事だ。


 ラインで、先の内容と同じメッセージを送り眠りについた。

 翌日の昼頃には、すっかり酔いも冷めたのか軽い謝罪文が彼女から届いていた。

 併せて、例の落とされた会社の名前もメッセージで届いていた。


 やはり、桜田さんが居た会社だった。

 金曜の仕事終わりに呑みに行く事となり、江良坂は先日の電話の件の謝罪のついでに、一つ面白い話をすると言ってきた。

 

 江良坂にも僕が怪異譚を集めていることがバレているので、面白い話というのはつまりそういう事なのだろう。

 僕は彼女の怪異譚と、会社の面接の件を楽しみにしつつ週末を待った。


◆◆◆


 飲み会の場所には淀屋橋の店が選ばれた。


 聞けばその日は、その近辺のゲーム会社を巡るらしく、なのでそこからほど近い場所でということとなった。


 飲み始めてすぐに教えてもらったが、いくつか好感触の会社があったそうだ。

 そこは友人として素直に喜ばしかった。

 あの辺りには中小のゲーム会社がいくつかあり、江良坂は元々大手のゲーム会社に勤めていたが、どうにも社風が合わず自分で会社を興すか、別の規模の小さい会社に転職するかで迷っているらしい。


 今はとりあえず、ほかの会社に入る方向で転職活動を進めているらしい。

 僕は逆に中小のゲーム会社でしか働いた経験が無いので、彼女の言う大手での苦悩、というものは正直ピンと来ていないのだが、きっとじわじわと蝕むような齟齬や差異があったのだろうと感じた。


「名前が原因で落とされるなんてことあるー?」

 半個室の席で、出された焼き鳥を頬張りながら江良坂がさっそく愚痴をこぼす。

「言うにしても、もうちょっとマシな嘘ついてほしいわ。なんやろ、何か別の人で枠でも埋まったんかな」


 確かに事情を知らない人間からすれば、そのように受け取られても仕方のない話である。放置しておいてしこりになっても嫌なので、ひとまず僕は自分が知りえた情報を伝えることにする。


 竹下の話、桜田さんの話を伝えると江良坂の表情は徐々に怪訝なものになっていった。


「オカルトすぎるか?」

 信じていないのではないか、と僕が質問すると江良坂は「うーん」とうなりながら頬をかいた。


 思いのほか彼女が悩み続けたので、話題を変えようと

「ちなみに何でその会社受けてみたん?」

 と聞いてみた。


 すると、江良坂はそれでも唸り始めた。

「いや……確かに何でなんやろ……」

 といつになく弱気な返事が返ってくる。


「いやな、冷静に考えたらおかしいねんなー。募集要項改めて見てんけど、やりたい仕事とちゃうかったし。ほな、なんで受けたんやっていう話やねんけどさー」

 とまたポリポリと頬をかいている。


「あの、さ。ラインで言った話やねんけどさ」

 と江良坂が横に置いたバッグから一冊の本を取り出して渡してきた。


 皮表紙の高そうな手帳だった。

 表紙には何も書かれておらず、ぱらりとめくるとすぐに手書きの本文が始まっている。日付が書かれている所をみると、これは日記帳らしかった。


「これな、あたしが幼稚園くらいの時にひいお祖母ちゃんの家で見つけたもんやねん。何をどう思ったか知らんけど、なんかそれをえらいあたしは気に入ったみたいでな。お母さんは戻せ言うたんやけど、ひいお祖母ちゃんは『あんたが持っといたらええよ』いうて、あたしにくれたんよ。そんでその後すぐくらいに、亡くなってもうて。形見になってもうたから、大事にずっと持っててな。一人暮らし始めた時も一緒に持ってきてたんよ」


「で、この中身が、例の面白い話?」

「――なんか、あんたにライン送ってるときに急に思い出してな。そのさっきの面接の話と一緒で。今まではそんなに気にならんかってんけどな……」


 ここで読むには長いので、これはしばらく僕に貸すと言い、その日はそのまま二人で食事を楽しんだ。社会人になってからのことや、学生時代の話に花を咲かせ、その日はお開きとなった。


 江良坂から借りた日記に目を通し始めたのは、翌日の昼からだ。


 以降は、その日記帳の一部を転記したものである。

 また、さらに改めてではあるが、江良坂の苗字、また以降の記述における全ての人名について、これらは僕がつけた仮名であることをご了承いただきたい。


◆◆◆


 8月18日 晴天

 本日より、こちらのお宿に住み込みで働くことになりました。

 お宿の仕事をするのかと思っておりましたが、代わりにお嬢様のお世話をすることとなりました。奥様曰く、お嬢様も歳の近い自分が世話係になったほうが良いとのことです。

 お嬢様は近々、ご結婚されるとのことでお世話はそれまでの間ということでした。こちらの仕事でもお給料は、お宿の仕事と同じくらい貰えるそうで、ありがたいお話です。


 奥様より日記帳も頂きました。

 今日より毎日、お世話係としての仕事についてこれに書き記すようにとのことです。お嬢様との顔合わせは明日からですが、練習のつもりで今日より書かせていただきました。



 8月19日 晴天

 お嬢様にお会いしました。お綺麗な方でした。

 自己紹介をさせていただくと、お嬢様はわたくしの頬と髪と耳を触れられました。

 お嬢様は目を患っておられました。

 お世話係として自分がお嬢様の目となるよう、精一杯務めさせていただきます。



 8月20日 雨天

 お嬢様は今日、読書をされました。

 江戸川乱歩の『芋虫』という小説です。お嬢様は目を患っておりますので、わたくしが読み聞かせる形になりました。

『お母さまにも昔していただいていた』と聞きました。


 小説の内容は何とも恐ろしいものでした。だのにお嬢様は楽しそうで、どこか音読する自分の反応を楽しんでおられるようにもお見受けしました。

 明日以降も何冊か読んでほしいと頼まれました。

 また、こういった伝奇小説があれば教えてほしいと。

 あまり読書をする質ではないので、ご期待に応えられるかは分かりませんが、どなたかに聞いて探してみようと思います。



 8月21日 晴天

 今日は奥様から、お嬢様を香里と呼んでほしいと頼まれました。

 歳近い女性を下の名前で呼ぶのには、正直少しばかり気恥ずかしさがありましたが、後ろに様をつけることはお許しいただけたので、少しほっとしました。



 8月22日 曇天

 今日も香里様に読み聞かせをさせていただきました。

 お宿の仕事仲間に聞きまして、小泉八雲の『怪談』を都合していただきました。

 

 雪女を読ませていただこうとした所で、もしやすでにご存じやもとお尋ねしましたが、おおまかには知っているが実際に小説を読んだことは無い、ということで安心しました。


 初めて読む小説という事もあり(芋虫はすでに読まれていたらしく、あれはやはりわたくしをからかっていたそうです)香里様はじっと耳を傾けておられました。

 ご要望には沿っているかとも思ったのですが、読み終えた頃には香里様は何やら寂し気な表情をしており、声色も沈んでおりました。

 わたくしは何か間違えてしまったのでしょうか。



 8月23日 雨天

 香里様が風邪をひかれました。

 お部屋の前まで行ったのですが、うつしてしまうと良くないからと、お部屋の中には入れませんでした。

 ですが自分はお世話係ですので、そういうわけにも参りません。

 お食事だけでもとお願いし、粥を用意しお部屋の前までお持ちしました。

 

「香里様、お粥をお持ちしました。どうかお食事のお世話だけでもさせてください」

 襖の前でわたくしは言いました。

 

 本当は風邪ではないのかもしれない、とも思っていました。

 昨日の雪女が良くなかったのかもしれない。それでも、もし本当に風邪をひかれていたら大変だし、熱い粥は、香里様お一人では食べるのは難しいのです。

 

 今になって思えば、何か冷たいお食事を用意すればよかったのかもしれません。

 正直に思えば、その時のわたくしは何か挽回したくて、香里様とお話がしたくてわざと熱い粥を作ったのかもしれません。


 返事はありませんでした。

 ですが諦めきれず、不躾ながらもう一度お名前をお呼びしました。


「いいよ」


 そのような声が聞こえました。

 はっとしてわたくしが襖を開けて、中を見やると香里様は布団に横になっておられました。

 息は少し荒く、御髪は汗で少しばかり顔に張り付いておられるようでした。


 音のしたほうを見やって香里様が、わたくしの名前を呼びました。

 どこか不思議がっているようでした。


 粥を香里様の傍に置いた後、すぐに氷水とタオルを用意しました。

 濡れたタオルで香里様のお顔と拭かせていただいている間、香里様に勝手に部屋に入ったことについてお叱りを受けました。


 わたくしが先の返事の件をお話ししたところ、香里様は少し考え込まれて、「そう」とだけ返されました。



 8月24日 晴天

 今日は少し香里様と散歩をしました。

 病み上がりでしたのでお止めしたのですが、どうしてもと仰られたのでお宿の周りを少しばかり散歩することとしました。


 香里様が住んでいるのはお宿の裏手の屋敷でした。しかもそのお屋敷も、母屋と離れのあるもので、香里様は離れにお一人で住まわれていました。

 離れといってもわたくしが元々いた家よりもずっと大きいものです。しかも、母屋はその離れよりも大きく、そしてその間にこれまた立派なお庭がありましたので屋敷や宿の周りを回るだけでも、それなりの散歩となりました。

 

 散歩の途中、誰かと目が合ったような気がしたのですが、よく見ればそれはお地蔵さまでした。

 庭の真ん中ほどにお地蔵さまが置かれており、それがじっと香里様の離れを向いておられました。散歩を終えて離れに戻った時に、不意にその視線を感じ取ったのでしょう。


 視界には入っていたはずなのですが、気になったのは今日が初めてです。

 お参りも出来ていませんでしたので、手を合わさせていただきました。


 ただよくよく見れば、そのお地蔵さまには目が掘られていませんでした。これはどういった事なのでしょうか……?


 8月25日 雨天

 昨日は晴天でしたが、何となくここの所雨の日が多いように感じられます。

 食事のお世話の折にそのようなことを香里様に言うと、雨の中宿からここまで来るのも大変だから、ここに住み込めばいいと仰っていただきました。


 正直に申し上げると、お気持ちはありがたいのですが、しかし香里お嬢様の立場としては良いものなのでしょうか……?



 8月26日 雨天

 奥様より許しをいただき、本日より離れにて住み込みで香里様のお世話をさせていただくことになりました。ただ奥様には離れの中のことは他言無用であると申し付けられました。

 わたくしとしても香里お嬢様の立場もあるので、当然のことと思います。


 自惚れやもしれませんが、香里様が出会ったころのように元気を取り戻されたように感じました。わずかでも香里様を喜ばせることが出来たのであれば、お世話係としてこれ以上はございません。



 8月27日 雨天

 今日は香里様とレコードを聴きました。

 無理を言って母屋より持ってきていただき、ジャズをお聞かせしました。雪女の挽回です。

 初めてだったのでしょうか。香里様は大層喜んでおられました。

 あまりものを知らないのだと香里様は仰られました。確かに言われてみれば、香里様のお部屋にはあまり物がありません。

 江戸川乱歩も古いものしかなく、怪人二十面相や少年探偵団はありませんでした。聞けばあれらの小説はこの離れに元々あったものとのことでした。

 裏表紙には「喜一香里」と書かれていたので、てっきりご本人のものと思ったのですが、どうやら違うようです。


 以前はここにおじい様でも住まれていたのでしょうかとお尋ねしたところ、香里様は首を横に振られました。

 前はどなたが住んでおられたのでしょうか。



 8月28日 曇天

 お仕事で必要という事でレコードは母屋に戻すこととなりました。

 クラシックをお聞かせ出来ればと考えていたのですが、お仕事とはいえ残念です。代わりに今日はアイスクリームを食べていただきました。

 夏ももう終わる頃ですが、屋台が近くに着ていたようで一走りして香里様の分を買ってきました。

 しゃくしゃくと小気味よい音を立てて召し上がられ、美味しいと仰られました。どうやらこれも初めて食べられるもののようで、ひどく感激されていました。



 夜半、したしたと離れの中を誰かが歩く音が聞こえます。

 香里様に聞いても、自分ではないと仰られます。

 奥様のほうでご存じなければ、人を寄こしていただけませんでしょうか。

 嫁入り前のお体に何かがあってはなりません。

 日記は夕方ごろに書くこととしていたのですが、どうにも気になることがあり、追記させていただきました。



 8月29日 雨天

 ここの所、雨の日ばかりが続きます。

 わたくしも気が滅入る所ですが、香里様はそれ以上に落ち込んでおられるようでした。

 ご結婚の日が近いと仰られました。不思議なことにお相手がどんな方なのかは分からないらしいのです。ただ知っているのは、そのお方が非常に照れ屋であるということ。

 香里様が自分の目が見えなくて良かったと仰られましたが、わたくしは笑うことが出来ませんでした。

 叶う事なら香里様をご安心させるためにも、お相手のことを幾ばくかお伝えいただけますと幸いです。



 何度も申し訳ございません。

 やはり夜半の足音が気になります。

 昨日よりも増えている気がするのです。それに足音も以前のようにただ歩くだけのものでなく、どたどたと走り回るようなものになっている気がするのです。

 それもそれが、いくつもするのです。


 また、日中においても、ふとした拍子に誰かがわたくしの肩を掴んでいるような気がします。香里様をご案内する時にそうしているのでお嬢様かと思い振り返りますが、誰もおりません。

 また自分を呼ぶ声もしばしするようになりました。

 全て気のせいかと思いましたが、何度も続くようになり、足音の件と併せて気になりましたので書かせていただきました。

 

 喜一家は代々続く名家でございます。

 家も広く、お宿も立派です。妬むものが悪さをしていないとも限りません。

 奥様、なにとぞよろしくお願いいたします。



 8月30日 雨天

 今日は香里様とおしゃべりをしていました。

 自分の故郷のこと、家族のこと、友人のこと。

 香里様はお体の調子が良くないようで、ずっと横になっておられました。

 

「声が聞こえるでしょう」

 と香里様が仰られました。


 わたくしも足音を聞いたり、肩のことをお話ししました。嘘をつくのは正直忍びありませんでしたが、奥様が何かしらの対処を考えてくださっているとも言いました。


「わたしも化けたらそうやって出てこようかしら」

 と香里様は仰られました。具合のせいか弱気になられていたのでしょう。

 大丈夫ですよと言っておきました。


 

 夜半に叫び声が聞こえたので飛び起きました。

 香里様の身に何かあったのかと思い、失礼ながら寝室に飛び込んだのですが、少し寝苦しそうにされているだけで何事もありませんでした。

 ですがわたくしが部屋に戻る途中で、叫び声がもう一度聞こえてきて、しかもそれがそこから何度もそこかしこから聞こえてきました。

 ただ事ではないと香里様の寝室まで戻り、もう一度お顔を見ましたがやはり寝苦しそうにされているままでした。

 また失礼と思いながらも、あまりにも香里様がうなされてもおりましたので一度起こさせていただきました。

 どうやら悪い夢を見られていたようでした。

 香里様は「もうすぐ」と仰られました。


 意味は理解出来ませんでしたが、確かに最近は酷くなってきています。

 わたくしも直接書くことを憚っていましたが、やはりこれは人ならざるものの仕業なのではと思います。

 足音も声も、肩を引く手も。そしてこの絶叫も。

 叫び声はよくよく聞けばわたくしたちと同じ年ぐらいの少女のものでした。

 

 腹をくくり、香里様の寝室の襖の前にわたくしは座り込みました。

 寝ずの番をすることとしました。

 といっても情けない話ではありますが、香里様をお一人に出来ないというのと一人になりたくないという半々からですが。


 襖の前に座り込むと、母屋との間にある庭に対して正面を向く形になります。

 今まであまり長時間その場所に居たことが無かったので気づかなかったのですが、そうなると庭の中にあるお地蔵さまと目が合いました。

 見守ってくださっている……というのとは少し違うように感じました。

 まるで監視されているような。

 番を始めたころには叫び声も足音も聞こえなくなっていましたが、何の音もない夜の中でじぃっとお地蔵様に見つめられているというのも、なんだか異様に不気味でした。


 そうしてじりじりと時間が過ぎていき、どれくらいになったかも分からないくらいで、

 

 ずず、ずず、ずず


 という別の音が聞こえました。

 何かが地面を擦るような音です。長い着物を地面にこすりつけるとあんな音でしょうか。

 ともかく、そんな音が庭からするのです。


 気づけば夜が深くなり、お地蔵様から向こうは真っ暗でした。

 妙です。いくら夜半といえど、その日は月が出ていました。何も見えないほど暗いわけが無いのです。

 ただその時は頭がぼうっとしており、気づくのが遅れました。


 はたと気づいたのは、その暗闇が瞬いたからです。

 最初は自分の見間違いかとも思ったのですが、そうではありませんでした。

 ぱちり、ぱちり、と。

 暗闇の中に大きな目があり、それが瞬きをしているのです。

 そして真っ暗で大きな何かが、ゆっくりとこちらに近づいてきているのです。

 

 ずず、ずずず、ずずずぅ 


 お地蔵様の奥からやってくるそれは、やがて後ろからお地蔵様を飲み込んでいきました。近づくにつれて少しだけ、暗闇の輪郭が分かってきました。

 それは漫然とした靄のようなものではなく、幾重にも束ねられた髪の毛でした。

 髪の毛を足のように動かして、まるで蛸のようにその目玉の怪物はこちらに向かってきているのです。


 べき、べき、べき


 と次いで別の音が鳴りました。

 喰われると感じましたが、後ろには香里様がおります。

 自分が逃げては香里様が喰われてしまう。

 すがるような気持ちで、その化け物をじっと睨みながら般若心経を叫んでいると、いつの間にか夜が明けていました。


 夜が明けると髪の毛の怪物は消えていました。

 途中で眠ってしまったような、しかし起きていたような。自分が目にしたものが信じられないという気持ちでいっぱいでした。

 もしかすると自分は疲れていただけなのかも、とも思いましたが庭には粉々にされたお地蔵さまが転がっていました。


 自分が見たものを整理するために、全てが終わった今こうして書き連ねましたが、しかしあれは何だったのでしょうか。



 8月31日 曇天

 お世話係としての最後の日に、このようなこととなり大変申し訳ございません。

 すでに奥様に渡すつもりもない日記に文を綴るのは、一つのけじめなのかもしれません。


 セツコより、自身が奥様の本当の娘ではないと聞きました。


 喜一家がどのようにして今日まで栄えたのかは分かりません。

 あの夜に見た怪物のことなど分かりたくもありません。

 セツコの目を返してほしいとも言いませんし、あのお地蔵様の下にどれだけの娘が眠っているのかも知りたくありません。


 ただわたくしは、セツコをあの足音の中に入れたくなかったのです。

 奥様、旦那様、どうかお許しください。

 この日記と共にわたくしたちも、奥様の手に届かぬことを祈るばかりです。


 人殺し。


◆◆◆


 日記帳を読み終え、江良坂にいつ頃返せばよいかと連絡を取った。

 これまた週末の金曜日に愚痴に付き合うついでで良いと言われる。

 日記の感想について聞かせてほしい事と、もう一つ、名前で落とされた会社について続報があるのでそれの報告をしたいそうだ。


 曰く、ビルの管理人が言うには確かに名前こそ、家訓で問題となっているが一族が運営している神社に泊まり込みでお祓いをすれば問題ないとのことで、例の会社からそういった事情込みでもう一度連絡があったらしい。


 ビルの管理人は代々その土地を受け継いでいるらしく、それと同じように家訓も引き継いでいるのだそうだ。

「我々はこの土地にくわせてもらっているが、家訓のせいでくえなくなるのは本末転倒である」と言ったそうな。


 入社理由もぼんやりしていた会社だというのに、不自然にも江良坂は酷く揺れていたので、僕は強くその会社だけはやめるよう伝えた。


 理由については、今週末に日記を返すときに説明するつもりだ。


 なお、江良坂の下の名前は香里である。

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