Act.29『女装学園・ビギニング』

 カーテンの隙間から、春の優しく包み込むような日差しが差し込んでいる。

 ようやく見慣れてきた天井を見上げながら、来夏はアパートの一室でゆるやかに起床していた。ゆっくりと半身を起こした彼の横には、布団から無防備にも手足を投げ出して爆睡している朔楽の姿もある。


 来夏が麻倉家に住み込むようになってから既に2週間。寝相の悪い相方を見ながら1日のスタートを切るのが、彼の毎朝の日課となっていた。



「サクラ。そろそろ起きないと」


「う、うーん。あと5分……」


(そう言って15分も経ってるけど……)



 何度か強めに揺さぶってみるものの、布団にしがみついている朔楽は先ほどからそればかり言っており、一向に起きようとする気配がない。


 (いくら昨晩に遅くまで撮影があったというやむを得ない事情があるとはいえ)来夏にとってもこれ以上甘やかし続けるのはそろそろ限界になっていた。

 なぜなら今日は、朔楽にとって大切な日でもあるのだから──



「コラ朔楽ぁ!! さっさと起きなッ!!」



 来夏がどうやって起こそうか迷いあぐねていたそのとき、ガンッという大きな音とともに勢いよく部屋のドアが開かれた。

 小鳥のさえずりをもかき消すほどの怒号を上げたその女性は、ズカズカと大股で2人の部屋へと入ってくる。そしてそのまま朔楽の布団を掴むと、まったく躊躇することなく一気に引き剥がしてみせた。



「ぐ、ぐぎゃあああああ……!」


「まったく、いつまで寝てんだい!? 初日から遅刻なんざしたら母ちゃん承知しないからね!」



 言いながら女性はカーテンを開け放ち、ほどなくして直射日光のビームを一身に浴びた朔楽が吸血鬼のような悲鳴をあげる。


 たったいま自分でも名乗っていたように、彼女こそ朔楽の母親──麻倉あさくら吹雪ふぶきであった。

 15歳の子供を持ちながら、実年齢30歳という若々しい外見。派手なウェーブがかった長い金髪を持つ活発な印象の美女であり、朔楽の容姿が母親譲りであることが一発で見てわかる。


 そして彼女は黒のタンクトップ(ノーブラ)に下半身は下着のみという、家の中とはいえ露出狂のような格好をしていた。



「だぁー! わかった、起きるって! あとズボンくらい履けって言ってんだろ母ちゃん!」


「あーン? べつに家だからどんなカッコでもいいじゃないかい。……ひょっとしてアンタ、あたしの美しすぎる下着姿に欲情して」


「ちげぇよ! さっきからライカがビビってんだよ!」



 朔楽の懸念どおり、彼の横にいる同居人は驚愕のあまり口をあんぐりと開けたまま固まってしまっている。


 もっともそれは吹雪の格好も理由の一つではあったが、それ以上に彼女と朔楽との距離感が、まるで歳の近い姉と弟のようであったことに驚かされていた。

 義父との親子仲がお世辞にも良いとは言えなかった来夏にとって、その光景はひどく目新しいものに映ってしまう。



(なるほどね。この親にしてこの子あり、か)



「ふあぁ〜……そんじゃ、あたしは今から寝なおすから。朔楽、しっかりやんなよ」


「おう。母ちゃんも悪ぃな、わざわざこんな時間まで起こしちまって」



 吹雪は『いいよ』と快く返事をすると、大きめの欠伸あくびをしながら自分の寝室のほうへと歩いていった。

 スナックの雇われママという仕事柄、夜型の生活を送っている彼女は昼間はほとんど眠っていることが多い。いつもは日が昇る頃に帰宅してすぐ眠りに入ってしまうため、この時間まで起きているのは珍しいくらいだった。



「ところでサクラ、君もそろそろ支度したくをしたほうがいいんじゃない?」


「っと、そうだった。朝メシを食う時間は……うん、ねえな!」



 朝食を犠牲にしてまで睡眠時間を取った朔楽は、さっさく壁にかけられていた下ろし立ての服を引っ掴むと、ドタバタと着替え始める。

 彼の邪魔にならないよう、来夏はしばらくリビングへと退避していることにした。


 そして3分ほど経った後、部屋から出てきたのはブレザーの制服を完璧に着こなした女子高生……

 もとい、女装もメイクもばっちり完了させた麻倉朔楽であった。



「……タイム、また縮まった?」


「おかげさまでな」



 もはやスカートを履くことにもすっかり慣れてしまった朔楽は、来夏の軽口にも何気なく応えた。


 あれほど当初は女装を恥ずかしがっていた朔楽がここまで順応してしまったのは、言うまでもなく男性恐怖症を抱える来夏のためを思ってのことである。

 彼自身はなにも文句を言うことはなかったが──相方に負担をかけてしまっていることに、来夏は少なからず申し訳なさを感じてしまう。



「あ……あのさ、サクラ」


「あン?」


「なにも僕と一緒の学校に通うわけじゃないんだし、べつにその制服をムリして着る必要は……」



 しかし来夏の絞り出したような弱々しい声は、外からのエンジン音によってすぐに掻き消されてしまった。



「!」



 その騒音の正体にいちはやく気付いた朔楽が、すぐに部屋の窓を開けて身を乗り出す。

 するとそこには彼の親友──龍暮夕二が、新品のバイクをアパートの塀に横付けているのが見えた。向こうも朔楽に気付いたのか、こちらのいる2階にむかって声を張り上げる。



「おーい、朔楽の旦那ぁー! さっさとしないと置いてくぞぉー」


「あはっ夕二ゆうじ! 出迎えご苦労ーっ!」



 まるで白馬の王子が迎えにきたことに喜ぶお姫様みたいに、ぱあっと笑顔になる朔楽。

 ……その様子を側から見ていた来夏がほんの少しだけ彼のほうを睨んでいたが、それに朔楽が気付く気配は残念ながらなかった。



「つーわけでライカ、留守は任せたぜい。つっても母ちゃんいるけど」


「あ、待って。歩きながら食べれると思って一応パンを焼いたんだけど……ピザトースト」


「マジで!? へへっ、やったぜぇ」



 朔楽はニカッと笑みを浮かべると、チーズとトマトがふんだんに載ったトーストを口に咥え、そのまま玄関へと走り去っていった。

 来夏も歩いてその背中を追いかけていき、ドアの前で慣れないローファーを履くのに苦戦している様子の朔楽へと後ろから声をかける。



「今日は帰り、遅いの?」


「いや、今日は午前中で終わるけど……それがどうかしたか?」


「……ううん。聞いただけ」


「? お、おう」



 今日はお互いに仕事の予定は入っていないはずだが、わざわざスケジュールを確認してきた来夏に少しだけ引っ掛かりを感じてしまう朔楽。

 とはいえ何か緊急の用事というわけでもなさそうだったため、ひとまず靴を履き終えた彼はそのまま自宅を出ることにした。右手に作ってもらったピザトーストを持ち、手提げ鞄を腕にかけた左手でドアノブを握りつつ、背後に立つ同居人へと何気なく挨拶を告げる。



「んじゃ、行ってくるわ」


「うん。行ってらっしゃい」



 普段ならここで余計な一言を添えがちな来夏も、この時ばかりは素直に朔楽を送り出そうとする。そんな彼に手を振られながら、朔楽もまた元気よく玄関のドアを飛び出していく。


 4月8日。

 春らしいうららかとした陽気とともに迎えたその日は、麻倉朔楽が初めて高校生として登校する日であった。





 県立葉世ノ木はせのぎ高等学校。通称“ハセ高”。

 数年ほど前にいくつかの学校が統合されて設立したその高校は、大学のキャンパスと見紛うほどの雄大な敷地とガラス張りの小洒落た校舎が特徴的な、同県内の住民ならまず名前を知らない者はいない、とにかく超がつくほどの名門進学校である。



「なんつーか、俺らの場違い感すげぇな……ひょっとして実は裏口入学だったり」


「しねぇよ! ……まあ実際、点数はかなりギリギリだったっぽいけど」



 そんな右を向いても左を向いても優等生っぽい生徒たちばかりな校門の前に、元・地元最強の不良中学生コンビだったふたりはバイクを停めていた。

 タンデムシートに乗っていた朔楽がジャンプして降り立ち、すかさず夕二がシートバッグに入れていたカバンを取り出しては彼に投げ渡す。


 尚、その際に少しだけスカートが風でめくり上がりそうになっていたが、もはや仕事でもプライベートでも履き慣れている朔楽は手慣れた所作で難なく押さえつけた。



「……つーか朔楽お前、マジでそのカッコで行く気か」


「あ? ハセ高は何年か前から、男女関係なく制服の組み合わせを自由に選べるようになってんだよ。たしかLGBT性的少数者とかセクハラへの配慮がどうとかって……」


「いやそういう校則ルール的な話じゃなくってだな!? お仕事中でもねーのにわざわざ女装をする必要があるのかってコトを訊いてんの俺はっ!」



 夕二はもっともな疑問を問い質してみせたが、それに対し朔楽は心底不思議そうに首を傾げる。



「は? 夕二てめーアホか。アーホアホアホンダーラ!」


「アホンダーラじゃねえよ」


「放課後そのまま仕事場に直行することもあんだから、普段から女装してねーと色々と不便なんだよ。ただでさえ学校との二足の草鞋わらじで忙しくなるっつーのに、メイクやら髪のセットでいちいち時間をかけられるかっての」


「ん、まあ……それはそうかもしれねーが」



 高校進学という道を選んだ朔楽は、同時に、つい最近復活を遂げたユニット『SakuRaik@サクライカ』としての活動も辞めずに続けている。

 無論どちらか一方だけを選んだほうが遥かに楽であることは明白だったが、それでも彼はあえて学業と芸能活動の両立という厳しい道を選択したのである。


 ともすれば無茶とも愚行ともとれる決断をなぜ彼がしたのか。それにはたった1つの明確な理由が存在していた。



「……たしかに大変かもしれねぇけどよ。それでも俺、今が一番楽しいんだ」


「朔楽……」


「過去に縛られてずっと立ち止まってた俺も、今はこうして前に進めてる。だから目の前にチャンスがあるうちは、全力で生きてやろうって決めたんだよ」



 いつになく真剣な面持ちで想いを告げる朔楽。

 そんな彼の言葉を真正面から受け止めていた夕二だったが、ついに腹筋の防波堤が耐えきれずに決壊してしまった。



「……ぷくく、あははははははっ!」


「なっ、なんでそこで爆笑!?」


「いやぁー朔楽、お前ほんと朝からクサイわぁ……マジでクッサイわぁ……」


「臭い!? マジでかちゃんと制汗剤使ったのに!?」



 何を勘違いしたのか自分のわきをクンクンと嗅ぎだした制服姿の美少女(女装)を見て、夕二はなんとも言い難い安心感を抱いてしまう。

 やはりどんな格好をしていても、中身は自分のよく知る麻倉朔楽マブダチのままなのだ──と、改めて実感することができた。



「まっ、とにかく頑張れよ! それじゃ、俺もそろそろ初登校してきますわ」


「おう! 夕二も送ってくれてサンキューなっ」



 夕二は『またな』と頷いてからハンドルを握りしめると、愛車とともに颯爽と走り去っていく。

 そうして遠くなっていく車体を最後まで見届けてから、朔楽もまた校舎のほうへと視線を戻した。胸の前で拳を握りしめ、気合いを入れて気持ちを切り替えようとする。



「っしゃあ! 俺も夕二に負けちゃいられな──」




「あ、あのぉ〜。もしかして、『SakuRaik@サクライカ』の麻倉朔楽さん……ですよね?」



 今まさに校門を踏み越えようとしていたとき、不意に意識の外から飛び込んできた声によって呼び止められてしまった。

 すぐに声のした方向を振り返ると、そこには同じ制服を着たふたりの女子生徒がいた。おそらく新入生であろう彼女たちは、朔楽の顔を見るなりとたんにはしゃぎ始める。



「ふわあぁ、やっぱりホンモノだよぉ〜っ!」


「わたしたち、朔楽さんの大ファンなんです! だからあの……サ、サインもらってもいいですか!?」


「お、おう……!?」



 思わぬタイミングで自分のファンと出会でくわしてしまい、つい先ほど学生モードにスイッチを切り替えたばかりだった朔楽は思わずたじろいでしまう。

 さらに彼女たちの大きなはしゃぎ声が周りにも聞かれてしまっていたのか、気がつくと校門の前には人だかりが出来ていた。サインを欲しがる者や一緒に写真を撮ろうとする生徒たちが一気に押しかけ、あっという間にパニック状態となりつつある。



「えっマジで? あの麻倉朔楽??」


「本物だよ、本物! まさかこの学校に入学してくるなんて……ラッキー!」


「ああん、朔楽くんがいるなら色紙持ってくればよかったぁ〜」


「へっ、俺は漢らしく肌に直接サインを描いてもらうぜ!」


「あたしもよく知らないけどとりあえず写真撮ろー。めっちゃいいね貰えそうだし」


「はじめまして罵倒バトってください!!」



(いや、ちょ……全然前に進めねぇんだけど!?)



 波のように押し寄せる人混みを前にして、どうすることもできずに立ち往生してしまう朔楽。

 するとそのとき、不意に誰かが彼の手をグイッと引っ張った。慌ててそちらに目を向けると、朔楽とはネクタイの色が違う女子生徒がこちらを睨んでいるのに気付く。黒髪を肩の上で切りそろえた、見るからに真面目そうな少女だった。



「話はあと、ついて来なさい」


「だ、誰……!?」


「いいから、はやくして」



 少女は有無を言わさない物言いで朔楽を黙らせると、華奢そうな見た目にそぐわぬ腕力で、朔楽の手を身体ごと力強く引き寄せる。

 朔楽もいまいち事情が飲み込めなかったが、ひとまずこの場は彼女に従うことにした。少女に手を引かれながらも、全速力で人混みの中を掻い潜っていく。


 どれくらい走っただろうか。

 無我夢中でファンたちから逃げ回っていた朔楽は、ふと気がつくと外階段の踊り場にいた。すぐ近くには先ほどの少女が真っ赤な顔で膝を抱えており、息を荒げながら必死に呼吸を整えている。



「はぁ……はぁ……ほんとマジ最悪……。なんで朝からこんなハードな運動しなきゃいけないのよぉ……」



 先ほどからブツブツと小言を呟きながら、少女は相変わらずこちらにキツい視線を送り続けている。


 少なくとも朔楽の知っている人物ではなかった。

 にも関わらず、自分を助けてくれたはずの彼女はなぜか腹立たしげに言い募ってくる。



「ちょっとあんた、どういうつもり!? そんな格好で登校してくるなんて……!」


「どうって、べつに校則には違反してねぇハズだけど……」


「アクターが入学なんてしてきたら、パニックになるのは当たり前でしょ!? あんた、そんな自覚も無いで仕事してるワケ……!?」



 まるで自分がさも先輩アクターであるかのような少女の言い方には、太平洋より広い心の持ち主である朔楽も流石に腹が立ってきてしまう。



「ちょっと先輩さんよォ……同業者とかならともかく、部外者のあんたが偉そうに言うコトじゃねーと思うんだけど?」


「は? 同業者だからこうやって親切に忠告してやってるんじゃない」


「へっ」



 何食わぬ顔で予想外の返答をしてきた少女に、思わず朔楽は目を丸くする。

 すると少女は呆れたようにため息を吐きながら、学生鞄からガサゴソと何かを取り出した。厚みのあるケースの中に丁寧に仕舞われていたソレ──明るい色のウィッグを頭の上に被り、改まったように朔楽の目を上目遣いで見つめる。


 一見どこにでもいそうな地味な印象の女子生徒は、ほんの一瞬にして朔楽が見知っている人物へと変身を遂げていた。



「お、お前まさか……フタバか!?」


学校ココでは2年A組の“神崎かんざき双葉ふたば”よ。


 ああ。もしあたしのをバラしたりしたら、アンタのタマを蹴り潰すから★」



 『トリニティスマイル』のリーダー・フタバは、とてもアイドルとは思えぬ邪悪な笑みスマイルを浮かべてそう言った。

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