Act.27『サクラ咲く明日へ』

 TOKYOトーキョーベツレヘムツリー 作業用テラス


 本来であれば一般客は立ち入ることのできない鉄骨とパイプに囲まれた狭い通路を、メリーは息を荒げながらも走っていた。

 無論、地上300メートルほどの空中に晒された(しかも悪天候により滑りやすくなっている)足場を全力疾走で走るなど、自殺行為にも等しい真似である。そのうえ運動音痴を絵に描いたような走法で駆けているメリーの姿はひどく危なっかしかったが、逆を言えばそうせざるを得ないほどに事態は緊迫していた。



(本部からの連絡では、どうやら“アンノウンフレーム”はサクラくんたちが退しりぞけてくれたらしい。ならあとは、を握っている私が逃げ切れるかどうかだけだけど──)


滑稽こっけいだな。所詮いまの貴様など袋のネズミよ」


「……っ!」



 淡い希望を打ち砕くように忽然と、待ち伏せていたかのように物陰から現れた冬馬とうま創一そういちはそっとメリーの進路を立ち塞いだ。

 当然ながら彼のかたわらにはボディーガード──黒スーツを鋼の身体に着込んだ人間大サイズの軍用インナーフレームが佇んでいる。さらに背後からも鉄の足音が近づいて来ているのを、緊張に研ぎ澄まされたメリーの耳は聞き逃さなかった。



「貴様が『アンチ・ヴォイド・ワクチン・ディフューザー』の起動キーを持っていることはわかっている。さあ、今すぐこちらに渡してもらおう」


「あなたに渡すくらいなら、ここから飛び降りたほうがマシだね……!」


「……いいだろう。ならば、望み通りにしてやる」



 創一がそっと手を目線の高さまで上げた次の瞬間、彼の傍にいたボディーガードが弾けたように動き出した。

 メリーはすぐさま逃れようとするも、機械工学の最先端を結集した存在たる相手のスピードがそれを上回る。かくしてメリーはなす術もなく首元を掴まれ、そのまま片腕で持ち上げられてしまった。



「くっ、うぅ……!」


「キーは奴のかけている眼鏡型端末データグラスだ。アルファワン、取り上げろ」



 酸欠で溺れかけているメリーを意に介することもなく、創一は冷徹にもボディーガードへと命令を下した。



(させる、もんか……私に、は……ボクには……あの人に任された未来があるんだ……っ)



 途切れゆく意識の中で、それでもメリーは足をばたつかせて必死に抵抗する。


 もしもここで鍵を奪われてしまえば、ワクチン散布装置は起動しないまま、アウタードレスの出現も止められなくなる。

 そうなれば人々はいつまでも『ライブ・ストリーム・バトル』……“虚構に塗り固められた闘争”にすがり続けるだろう。争いのない状態こそ何よりも尊ばれるべきモノであるという当たり前のことが、このままでは未来永劫に忘れ去られてしまう──!



「フハハハ。これで『LSB』は不滅のものに……む、なんだ貴様!?」



 もはや絶体絶命かに思われていたそのとき、何者かの存在に気付いた創一がとつぜん声を上げた。

 背後から音もなく近づいてきたその人物は、何も言わずに創一の腹へと背中から組みつく。メリーもよく知っている顔だった。



(さ……朔楽くん!?)


「な、何をするつもりだ貴様……おい、聞いているのか!?」


「……………………スゥー……」


「ばっ馬鹿な真似はよせ! ちょ、止め──」



 どこか遠い目をしたまま、いつの間にかテラスへと駆けつけていた麻倉あさくら朔楽さくらはゆっくりと恰幅のいい体を持ち上げる。

 そして創一の懇願も聞き入れられず、彼はそのままブリッジをする要領で真後ろへと反り返った。



「あ、が…………っ!?」


(! 拘束が解けた……!)



 創一が足場へと叩きつけられた瞬間、それまでメリーの首を締め上げていたボディーガードの握り手からフッと力が抜けた。

 おそらく今のジャーマンスープレックスによって創一のかけているデータグラスが破損したため、それを使って統率していた機械仕掛けの兵隊たちも自動的に機能を停止したのだろう。


 おぼつかない足取りでどうにか着地したメリーは、すぐに自分の窮地を助けてくれた朔楽のほうへと目を向ける。

 大の字に倒れている創一の横に立ちながらも、静かな怒りの炎を燃やしている彼の顔がそこにはあった。



「……てめーが過去に色々やってたことは聞かせてもらったぞ、コラ。俺の事務所ルビードライブを潰したのも……そして来夏のやつをこんなにしちまったのも、全部あんたの仕業だったんだってな……」



 3年半前に『SakuRaik@サクライカ』を解散へと追いやり、朔楽の、そして来夏の人生までも大きく歪めた──すべての元凶。

 そんな絶対に許すことのできない男を今まさに目の前にしている朔楽は、しかし手負いの相手にそれ以上拳を振り下ろすような真似はしなかった。



「正直、俺はてめーを一生許すことができそうにねぇ。だけど、あんたは大事な相棒の親でもあるからな。もしもコイツが『こんな親父でも許して欲しい』ってんなら、俺も潔くそうすることにするぜ……」



 そう言うと朔楽は道を譲るように、ずっと自分の背に隠れていた人物へとすべての選択を委ねる。

 振り返った視線の先に来夏が、憐れみと苦諦くたいの入れ混じった表情で立ち尽くしていた。



「おとう……さん……」


「ら、来夏…………私の、来夏……っ」



 愛する息子の姿を目にした創一は、残された力を振り絞るようにして雨に濡れた足場を這いつくばる。

 そして辛くも来夏の足元にまでたどり着くと、彼は泥だらけになりながらも不格好にすがりついた。



「こ、こんな凡骨どもと一緒にいてはならん……お前は神から類稀たぐいまれなる美貌と才能を授かりし、正真正銘の天才なのだ……。お前だけが世界を獲れる。私なら、お前をそこまで導いてやれる……」



 この期に及んでもまだ、必死に息子を説き伏せようとする創一。

 だがそれが彼なりの愛情の示し方であり、(歪んだ形ではあるものの)息子以上の存在として大切に想われていることも来夏には理解わかっていた。


 理解している上で、来夏はそっと首を横に降る。



「もう、ムリだよ……お父さん……」


「ら、いか……?」


「僕をここまで育ててくれたことは、一応感謝してる……けどやっぱり、あなたとはもう一緒にいられない……」


「……っ!」


「……僕は、お父さんの人形なんかじゃない……」



 絞り出すように言い放った言葉。

 それは来夏が、はじめて自分の意思で父に背いた瞬間でもあった。


 ついに息子からも明確に拒絶されてしまった創一は、まるで魂が抜けたようにその場に崩れ落ちる。

 今のやり取りで創一は完全に戦意を削がれてしまったようであり、その後も放心状態のまま息子と並び立っている少年をぼーっと見つめているだけだった。



(とりあえず……これで一件落着、だね)



 かくして『計画』を阻害する者はいなくなり、『ライブ・ストリーム・バトル』の存続をめぐる戦いは静かな終わりを告げた。

 ようやく訪れた安堵と達成感に浸りながらも、メリーはゆっくりと顔を上げて天を仰ぐ。



「姉さん、紫苑しおん──任された未来の笑顔は、ちゃんと彼らが守ってくれたよ」



 雨脚は徐々に弱まりつつあり、雲の裂け目からは光の柱が差し始めている。

 そんな神々しい景色を眺めながらも……密かに“メリーケン=サッカーサー”という仮面を外したは、虹の向こう側にいる者たちへと想いを馳せるのだった。





 雲ひとつない雨上がりの夜空に、天にも届くほどの巨大な桜の木が咲いていた。


 勿論、本当に地上1キロメートルもの樹木が都会のど真ん中に生えているわけではない。塔の上部を囲むリングから枝垂しだざくらにも似た薄紅色の光子を撒き散らしているその人工物は、『アンチ・ヴォイド・ワクチン・ディフューザー』の完全稼働を果たしたTOKYOトーキョーベツレヘムツリーの真なる姿であった。



「あはは。今ごろマスコミはてんやわんやになってるだろうねぇー」



 飛んでいるいくつかの報道ヘリを見据えながら、相変わらずメリーは呑気そうに笑っている。

 タワーへと帰還した麻倉あさくら朔楽さくら冬馬とうま来夏らいかを迎え入れたアクターズ・ネストの面々は、桜吹雪にも似た微弱なヴォイドが散布されていく奇妙な光景を展望台より眺めていた。事前に説明を受けていた彼ら関係者ですら開いた口が塞がらないような状態になっているのだから、何も知らない地上の一般人たちは今ごろパニックになっていることだろう。



「あーあ、これで私たちも立派な犯罪者テロリストかぁー……」



 いかにも実感が湧いていないという間延びした声で、ふとミツキがそのようなことを呟く。この場にいる者たちも、ほぼ全員が概ね同じような心境だった。

 

 無理もない。いくらアウタードレスとの戦いを終わらせる為とはいえ、タワーごとジャックするという手段はどう見積もってもあまりに強引で、かつ過激な手段だったのだから。

 無論。アクターたちもそのことは承知の上でメリーに賛同したつもりであり、とがを受ける覚悟もとっくに出来ていた……のだが。



「ん? ああ、別にキミたちが罪に問われるようなことはないから心配する必要はないよん」


「「えっ」」



 予想だにせぬメリーの発言に、それまで思い詰めた表情をしていた(ハルカを除く)全員が声をハモらせた。



「は……? いやいや。こんな大層な装置モンを秘密で作っておいて、お咎め無しってのはさすがに無理があんだろ……」


「やだなぁ朔楽クン、いくら私でもに無断でこんな真似はしないよぉ。そもそもこの計画だって、最初からちゃんとお国の許可を得てやっていたことだからねぇー」


「お、お国だぁ!?」


「ふっふーん。私ってばこう見えても、顔は結構広い方なのだぜい?


 ……ともかくこの作戦は初めから『ライブ・ストリーム・バトル』廃止の反対派を出し抜くためのものであって、政府から受けた正式な依頼だったというワケさ」



 『ほら、敵をあざくにはまず味方からって言うしネ!』とメリーはそれまで事実を伏せていたことに対しては特に悪びれる様子もなく、誤魔化すように笑って話を流そうとする。

 とはいえこの場に集まっている者たちにとっては何も不都合があるわけではないため、それぞれ思うところはありつつも、次第に今ここにある現実を受け入れることに決めていくのだった。



「サクラ」


「ん」



 隣に立っていた来夏が急に服のすそを引っ張ってきたため、朔楽はほんの少しだけ驚いたように顔を向ける。

 用を訊かれた来夏は(あまり他人に聞かれたくない話題なのか)声を潜めつつ、どこか躊躇いがちに目を逸らしながら話し始めた。



「あ、あのさ……」


「? なんだよ」


「その……僕が君の前で泣いてたこと。他のみんなには黙っててくれないかな」



 来夏が勇気を振り知ってようやく口に出すことのできた頼みごとは、思わずその場でズッコケてしまいたくなるほどに些細なものだった。



「……あ? そんだけ?」


「え? そ、それだけ……だけど」


「…………ふふっ、はははは!」



 まるでそれが人生史上最大の黒歴史だとでも言わんばかりな来夏の必死さに、とうとう朔楽は可笑しさを堪えることができなかった。

 いきなり腹を抱えて笑いはじめた彼を見るなり、来夏もついムキになってしまう。



「むぅ……なんだよもう、こっちは真剣に頼んでるのに……」


「ははっ、まあそのコトなら安心しとけや。お前のキャワウィ〜イ泣き顔なら、ちゃんと心のアルバムん中に保存してあっからよ!」


「なっ……」



 堂々と朔楽にそう告げられ、かあっと赤面してしまう来夏。

 もちろん今のは朔楽なりに冗談のつもりだったのが──プライドの高い来夏がここまでの恥辱を受けて、素直に受け流してくれるはずもなく……



「……君だってあの女教師をデートに誘おうとしてたくせに」



 ボソッと、仕返しと言わんばかりに朔楽の弱みを突きはじめた。



「あ、デート? なんのことだよ?」


「ふん、とぼけたって無駄さ。病室で食事に誘う練習をしてるところを、僕はこの目ではっきりと見たからね。『気持ちをぶつけ合いたい』とかカントカ言って」


「病室……? あぁ、いやあれは寿子じゃなくてお前と──」


「? 僕が、なに?」


「っ〜〜! な、なんでもねーよバカ!」


「はっ、デートの食事に牛丼屋なんかをチョイスする君にバカとは言われたくないねバカバーカ」


「あン!? 牛丼屋バカにすんなよ!! あそこにはチーズ牛丼っつー宇宙で2番目にピザまんのつぎにウマい食べ物があるんだぞ!」


「いや、食べたことないし……てか君どんだけチーズ好きなの……」



 取り留めのない言い争いがひと段落したところで──2人はようやく、自分たちが無意識のうちに昔と同じようなやり取りをしていたことに気付いた。


 朔楽はそこで確信する。

 おそらく隣にいる来夏も、同じことを思っているだろう。



「これからもよろしく頼むぜ、相棒」


「もちろん」



 ──コイツきみと一緒なら、何だってできる。どこまでも羽ばたいていける。



 傍らにパートナーがいるだけで、2人は、不思議とそのような全能感に満たされるのだった。

















「──っつーわけだからよォ……このお守りをくれたあんたには悪ぃけど、これからは“あっちの世界”で生きていくことにしたぜ」



 『ベツレヘムの夜桜』と呼ばれるようになった事件から約1週間あまりが経過した、3月上旬のある日。

 満開の花びらをつけた桜の木々たちが人々を祝福しているような麗らかさに満ちたその日は、朔楽の通う中学校にて卒業式が執り行われた日でもあった。



「……だから、ココに来んのも今日で最後になる」



 無事に中学を卒業することのできた朔楽は自宅への帰り道の途中、ふと通っていた学習塾の前を訪れていた。

 とは言っても、別に何か報告があって来たわけではない。ただ何となく立ち寄りたい気分になった、それだけである。なのでガラス越しに塾内の様子を覗くことはあっても、入り口から中へ入ろうとはしなかった。


 “東針のデュナミール”を倒したすぐ後、それまで昏睡状態だった寿子はどうやら意識を取り戻すことができたらしい。

 ……というのは、その情報があくまで人伝てに聞いたものであり、朔楽自身が直接確認したわけではないからである。


 あれから1週間、寿子とは一度も顔を合わせていない。というよりも、朔楽が意図的に彼女との接触を避け続けていた。

 それは恩師に対する後ろめたさから来る行動でもあったし、また彼女の心を傷つけてしまった自分への、いましめのつもりでもあった。



「じゃあな、寿子。……世話になった、ぜ……」



 誰にも聞かれることのないであろう別れの言葉を告げて、朔楽はすぐにその場を立ち去ろうとする。

 決して後ろは振り返らずに歩き出そうとした、そのときだった。



「ま、待ってぇ! 朔楽くーんっ!!」



 バタバタと何者かが走ってくる足音が聞こえ、朔楽はとっさに背後を振り返る。

 駅の方角から、大学生くらいの女性が近付いてきているのが見えた。

 栗色のロングヘアを風に揺らし、春らしいカーディガンのコーディネートで全身を包んでいる。肩に少し大きめなバッグをかけているのを見るに、大学の受講後に急いでここまで駆けつけたといった様子だろうか。


 見違えるはずもない。

 昏睡状態から無事に快復した恋ヶ浜寿子が、たったいま朔楽の目の前にいた。



「ひ、寿子……? なんで……」


「『なんで』じゃないわよもぉっ! 電話しても全然でてきてくれないし……!」



 困惑している様子の朔楽にも構うことなく、寿子はいきなり彼の手をぎゅっと握っては学習塾の入り口へと引っ張りはじめた。



「まあいいや、とにかく今は一分一秒もムダにしてる場合じゃないわ! そうと決まればさっそく授業を始めましょ!」


「え……ちょ、はぁっ!? 意味わかんねぇ、なんでいきなり授業!?」


「もちろんキミがハセ高に合格するため! さあ、今日は時間ギリギリまでみっちりやるかんねーっ!」


「いや、だから……ち、ちょっと待てって!!」



 強引に手を振りほどくと、寿子はきょとんとした顔で朔楽のほうを見た。

 不思議そうにこちらを覗く表情は胸をキリキリと痛めつけて来るようだったが、それでも朔楽は正直にありのままの事実を告げる。



「もしかしたら昏睡のショックで忘れちまってるのかもしれねーけどさ……俺、もうハセ高には落ちちまってんだよ……」


「えっ」


「だから……悪ぃ。あんたとの約束も……もう、守れねぇ……」



 『二人三脚で努力して、絶対に合格する』。

 それが入塾したばかりの時に、担当講師である寿子と交わした約束だった。


 だが実際は試験会場へ行くまでの道中でトラブルに見舞われてしまい、本番を迎えることすらなく朔楽の高校受験もそこで終わってしまった。

 寿子の1年分の期待を、朔楽は裏切ったのだ。ショックで記憶を失っていても無理はない──



「なに言ってるの? 勝負はまだまだこれからでしょ?」


「……は? いや、だから俺はもう落ちたって……」


「キミが色々あって試験に落ちちゃったのは知ってるってば。でも……ううん、だからこそ不戦敗のままじゃ終われないでしょ? キミも、私も」


「………………ちょい待ち。いま、ナニ試験て?」


「はぁ……その様子だと、やっぱり忘れてたのね……」



 寿子は呆れたようにため息をついてから、念を押すように語気を少しだけ強めて言った。



「いーい? 前にも説明したはずだけれど、ハセ高は今年から前・後期で2回選抜試験をするようになったの!」


「…………マジで?」


「ちなみに後期試験は明日ね」


「明日ぁ!?」



 いきなり目の前にチャンスが転がり込んできたことで、朔楽は思いがけず絶句してしまう。

 どうやら勝手に終わっていたと思い込んでいた勝負は、まだ試合終了のブザーを鳴らしてなどいなかったらしい。



「ま、マジでか……つーかやべぇ、全然なにも準備できてねぇ」


「だいじょーぶ! 今から準備すればきっと間に合うわ! てか、間に合わせるからっ!」



 相変わらず自信の根拠がどこにあるのかわからない寿子だったが、とにかく今は四の五の言っていられる状況ではないということが痛いほどわかった。

 そうと決まればやることは1つだけだ。塾のドアを潜っていく寿子の背を追って、すぐに朔楽も中へと入ろうとする。



「あ、それから──」



 何かを言い忘れたように寿子が突然立ち止まり、急にこちらを振り返った。

 向き合った彼女は少しだけ背伸びをすると、その人形のように端正な顔立ちを朔楽の顔に急接近させる。朔楽はたじろぐように顔を仰け反らせたが、寿子は止まらずに顔を近づけ……



「ありがとね、朔楽くん」



 耳元で囁いたあと、唇が、朔楽の頬に触れた。



「!」


「ささっ、はやく授業を始めちゃいましょう! 問題集もたっぷり用意してきたから覚悟してねっ」



 顔を離した寿子はすぐに踵を返すと、何事もなかったかのように教室のある方へと歩いていく。

 あまりにも鮮やかかつ一瞬の出来事に、しばらくフリーズしたように固まってしまう朔楽だったが……



「……おうさ! テストでもなんでもかかってきやがれってんだ!」



 ひとまず今は考えるのを後回しにして、すぐに彼女の背中を追いかけることにした。

 彼の眼前には、彼自身でも把握しきれないほどに幾多もの道が続いている。その道の先にどんな未来が待ち受けているのか、今はまだわからない。まだ年若き彼の中には、無限にも等しい可能性が詰まっているのだから。


 たとえその先に待つ道が、長く困難であったとしても、少年はもう未来を選ぶことを恐れない。進むことを躊躇わない。


 ずっと同じ場所で立ち止まっていた少年は、ようやく明日への一歩を踏み出すことができた。

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