第三話

「麻婆茄子」

「スイカ」

「かっぱ巻き」

「キス」

「魚のほう?」

「口の方だよー」

「…スイス銀行」

「なんで?」

「お金いっぱいありそうだし。なんか青いイメージだし」

「ふーん。じゃあうどの大木」

「九十九里浜」

イチコとイザナはしりとりをしながら次の目的地を目指していた。車は今日も元気にエンジンを滾らせている。少々ブレーキが効きすぎるのが玉に瑕だが、だんだんと愛着が湧いてくるのは人の情の為せる業か。今日の運転手はイチコだ。

「千葉県民でもないのに?」

イチコの答えに対する文句だった。この〝嫌いじゃないものしりとり〟にはルールがある。要は普通のしりとりに〝嫌いな物と好きな物を言ってはいけない〟という縛りを設けたものだが、これに加えて相手が疑問を持った回答には質問をする権利がある。質問に対する回答が納得のいくものだったらそのまま続行。納得いかないものなら100円の罰金。

「栗が好きだし、あたし」

イザナはまたぞろ土産物のお菓子を食べている。カスタードクリームを黄色いカステラ生地で包んだ銘菓をポップコーンを食べるような気軽さでポイポイと口に放り込んでいる。イザナ曰く、全国津々浦々に存在する〝カスタードクリームをカステラ生地で包んだお土産〟の総元締めとのこと。「稲荷神社にとっての伏見稲荷大社みたいなもんだよ」。それは違うのでは、とイチコは思った。

「んー、んー?…却下!」

「えー…もう100円ないや」

じゃあこれっ、と言って私の土産袋からジャイアントポッキーを一本取り出したかと思うと、ハムスターよろしく一気に半分まで囓った。

ナビが現在地を告げる。まだまだ目的地にはほど遠い。しりとりは出発から程なくしてイザナが始めたことだったが、長くは続かなかった。

「イーチコー。暇だよー。眠くて事故っちゃうよー」

「それあたしの台詞。助手席に座ってるんだから歌でも歌ってよ」

イチコは自分で言って、この場に足りない物に気付いた。音楽だ。旅の始まりこそ大所帯だったが今では女二人だけ。いや、二人と一箱だけ。時折ゴトゴトと存在を主張するアレを音楽と呼ぶには無理がある。メロディーロードでも通らない限り車内は無音と言ってよかった。

イチコはナビの画面をタッチして、オーディオ設定をいじる。〝Radio-FM〟のアイコンをタッチすると程なくして重厚な音楽と共に男性の渋い声が流れ出した。

『~♪え、だぁれぇ?…だーれぇ…?』

一瞬、パーソナリティでも何でもない酩酊した一般人が混じったのかと思った。続けて妙にピッチの上がったボイスが『ミッキーだよぉ』と名乗る。これ、公共の電波に乗せてしまっても良いのだろうか。

「ファンフラじゃん!そっか、今日金曜日だもんねー」

どうやらイザナは知ってるようだ。詳しく聞いてみると、いわゆるこれはリスナーに〝逆電〟するコーナーらしく、逆電されたリスナーはミッキーの出すクイズに答えなければならないとのこと。イザナが説明しているうちに今回の逆電リスナーに電話が繋がった。

『…はい』

『リクハさん?』

『えっ、はい…え』

『ミッキーだよぉ』

『えぇっマジか…』

『ふふふ…どうしたの?驚いたぁ?』

『いや…マジで掛かってくる、んんっ、だぁと思って…うわあ…』

何とも言えない臨場感に溢れている。リスナーは最初こそ戸惑いつつも、ミッキーの力の抜けた質問に徐々に言葉が柔らかくなっていく。そうしているうちに三択クイズが出された。それは最近解散した人気アイドルグループに関するもので、音楽に特別詳しいわけじゃないイチコでも答えが分かった。

「結構簡単なんだね」

イザナはミッキーの声まねをしていた。似てる、とはとても言えない。

「ミッキーコーナーはね。分かんなくてもヒント貰えたりするし」

イザナがぽん、と手を叩いた。

「ねぇイチコ。次のコーナーでもクイズやるんだけど、どっちが当てられるか勝負しない?」

「別に良いけど…どんなクイズなの?」

「それは聞いてのお楽しみぃ」

『ふぁんきぃー…~♪』


『~♪』

「ロッキー…?」

「てーてててーててー。イチコ、始まるよ!」

「え、何が」

『ギンザ・カンカンクイーズ!』

「カンカンカンカンカン!」

「えぇっ。な、なに」

「要はイントロクイズだから、今から流れる音楽を聴いて、曲名なり歌手名なりを答えるの」

「あ、そういう…」

「ほら、来るよー…」

『♪』

「いや短すぎでしょ!一言しか歌ってないじゃない」

「ちあきなおみで〝喝采〟!」

「嘘でしょ。絶対違うわよ。…ほら、リスナーも悉く間違ってるし、短すぎなのよ…」

『正解は?』

『えと、ちあきなおみの〝喝采〟』

『カンカンカンカンカン!カンカンカンカンカン!』

「カンカンカンカンカン!」

「えぇー…」


車を走らせること2時間、目的地に到着すると同時にナビがねぎらいの言葉を掛けてくる。コンソールボックスには空になったジャイアントポッキーが悲しげに袋の中で横たわっていた。いや、少なくともイチコからはそう見えた。本来なら自分の胃に収まっているはずのポッキーは、一本残らずイザナの胃袋にあったのだから。満足げに眠りこくっているイザナを、イチコは多少の怒りを込めたビンタで叩き起こした。



「へぇ…結構雰囲気あるんだねぇ」

北欧の絵本を元にしたというその公園は、前日から降り続く雨のせいか薄く霧が立ちこめていた。緩い丘の上は背の低い緑が埋め尽くし、公園全体をぐるりと森が覆い閉鎖的な雰囲気を醸し出している。小径の脇には鶏冠のような草の群れがぽつぽつと群生し、その裏からいつ〝にょろにょろ〟と現れても不思議ではなかった。

イチコは静かに流れる小川を横切りながら、丘の中腹に立つ建物を目指した。大根が帽子を被ったようなへんてこな建物はしかし、不思議と馴染み佇んでいる。頭をかがめながらドアを潜ると、湿り気を含んだ空気が頬に浸みた。

小さな暖炉。不器用に切り取られた不格好な窓。こぢんまりとした本棚。端々が崩れた机。居るはずもないキャラクターたちが何度も視界を横切った気がした。この扉を開ければ出会えるのでは、という期待が常に胸を燻った。

イチコはそこで一つの絵本を手に取った。不格好な窓から差し込む朧気な日差しを灯りにして1ページ1ページをゆっくりと読み進めていく。その本はかつて母が膝の上で読み聞かせてくれたものだった。目を閉じると、母の優しい声が聞こえるような気がした。不意に訪れた思い出にイチコは身体を委ねる。次第に重たくなる瞼はいつしか開かなくなり、意識は眠りの波に浚われていった。


………


とん。とん。とん。

お腹を叩く音が聞こえる。冷静に考えればそれは幻覚だ。けれどあたしの内には小さな命が宿っていて、お腹を撫でると無名の暖かさが返事をした。幸せな幻覚。いつまでも感じていたくなる、暖かな微睡み。でも、早く目の前で抱きしたい。幸せの分身を目の前にしたら、私はどうなってしまうだろう。そんな未来を描きながら、私は下手な子守歌を歌った。

幻覚に終わりを告げたのは一枚の紙だった。

いっぱい四角が印刷された紙。ここに名前を書けと一番上の四角に指が指される。私は、冷ややかな8つの目玉に晒されて、震える手で文字を綴った。

書き終えた時、何かが胸の内で刮げ落ちていくのを感じた。しくしくとゆっくり、けれども決して戻るのことのない何かが口から漏れ出し、病院内の空気に染み落ちていく。

項垂れるあたしの頭を二人の男が見下ろしていた。きっと彼らの顔は安心に満ちているだろう。これまでの無抵抗な過去を信じて、言いなりの未来に安堵を感じながら。程なくして閉じ込められた病室で、あたしは子守歌の幻聴を聴きながら、なすがままに命を手放した。


空っぽになったお腹を擦る。

心臓の音も、体温もなにも感じない。

ただ自分の身体だけががそこにあった。

いつも他人に預け、心底毛嫌いした、自分。

あたしの幸せの分身は、あたし自身の弱さに殺された。

幸せな幻覚も、暖かな微睡みも、もはやあたしの元には訪れない。虚ろに伸ばした両腕で抱きしめたのは、ぼろぼろになった自分自身。ないと思っていた〝自分〟は確かに在って、あたしの腕の中で枯れた涙を流し続けている。

涙を拭う人はもう、あたしには居ない。


心の中の慟哭。悲鳴も涙も、一つたりとも零れることはなかった。


………


「イチコ、イチコ」

イチコは自分を呼ぶ声に目を覚ました。何時の間にか寝ていた身体は脂汗でじっとりと濡れている。イチコは声の主を探してしばし視線を彷徨わせ、傍らに座っているイザナを見つけた。

「話があるんだ、イチコ」

そういうイザナの顔には見覚えがあった。

イチコはとうとうこの時が来たのだと、高鳴る鼓動に無意識に手を胸に置いていた。。


「実はね、あの二人にも同じように話をしたんだ」

池の端を道ばたで拾った木の枝で弄びながらイザナは言った。突然起こった水の波紋にアメンボたちが驚き、それまでの優雅な動きを捨てて一目散に逃げていく。蓮の葉に乗った蛙だけが、波紋に動じず喉を鳴らした。

「イチコ、君は絶望しているのかい」

 イザナの口調は普段と何ら変わらなかった。だが、その言葉を素通りさせることはイチコには出来なかった。

「絶望…?」

「そう、絶望。ボクはねイチコ、人が絶望の果てに自ら死を選ぶ、いわゆる〝自殺〟ってのが大嫌いなんだ」

 例えどんな過去があろうともね。イチコは最初言葉を理解できずに呆けた。だが、言葉を咀嚼した脳にその意味が染み渡った瞬間、沸騰するように顔が熱くなるのを感じた。羞恥からではない。紛れもない、巨大な怒りからであった。反論のための言葉を探し始めた脳が熱を帯びる。言葉にならない言葉で貶し、誹り、罵り、嘲った。所詮、目の前のこいつは他人なのだと見限りかけた。ぐるぐると巡る罵詈雑言が脳をミキサーのようにかき混ぜ、やっとのことで「あんたに何が分かるの」と呟いた。だがイザナはそれには耳を貸さず、イチコの前に立ってまっすぐ瞳を見詰めてきた

「命ををどうこうできるのは、自らの大切な物を守る時だけなんだよ。自分で死を選ぶこと。それは自分が自分である為に残された、最後の手段であるべきなんだ」

違う。違う。違う。何故分かってもらえない。あたしはあたしの大切な物を失った。これから一生をかけても得られないものを手放した。あたしに幸せは訪れない。あたしを支えるものは何もない。バカだったあたしは自分なんてものはないと思って他人の言いなりになってそして―――他人のために絶望した?

「これまでの君に自分なんてものはなかった。君は自分の足を得た。他人に負わせていたモノも、他人に奪われていたモノも全部、これからは自分の身体に背負わせて、立つことが出来るんだよ」

池に浮かんだアメンボがすいすいと駆けていく。一歩一歩に広がる波紋が静かに蓮の葉を包み込む。彼らはこの池を世界の全てだと思っているのだろうか。それとも外には大きな海があることを知っていて、いつかそこで滑ることを夢見ているのだろうか。きっと、どちらでもないはずだ。アメンボは、ただこの池で滑りたいから滑っている。

「こんな旅行に出たからだ…あんたたちに出会わなければ、あのビルで楽に死ねていたのに」

 イチコは、自分の胸の奥底から、澱のような何かが落ちていくのを感じていた。

 死を選ぶことはもう、出来なかった。

「あたし、戸惑ったんだ。ないと思っていた自分が、急に懐に飛び込んできたことに。いや、本当はずっとあたしの目の前にあったのに、あたしはそれを無視してた。あたしの自分はもうボロボロだけど、でも、守るべき自分はまだ耐える力を残している」

何せ見つけたばかりの新品だからね。

これがただの延命であることを、イザナも、そしてイチコも分かっていた。幽かとなった自分を前にしてなお、イチコは残りの数歩を歩かなければならない。フラーラやリリが踏みしめた最後の一歩に届くまで。

「安心して歩いておいで。最後の一歩に寄り添う力を、ボクは持ってるんだから」




一陣の風が吹く。肌を叩く雑草にイチコが戸惑うことはもう、なかった。

見詰める眼差しはまっすぐ前を向いている。

 

 初めて踏み出した一歩が風を割った。

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