第0話

「あ?なんでこんなとこに来てんだ、お前」

不良が居た。澄んだ声に精一杯のドスを利かせたしゃべり方。喋る度、太股に据えたコンビニ袋がガチャリと揺れた。ビールと酎ハイ、そして洋酒らしき瓶がそれぞれ数本、ぴったりとくっついた白いビニール越しに透けて見えた。膝を立て、どすりと尻を地面に付ける姿はコンビニによくある調度品のよう。

女は反射的に言おうとした言い訳を、ここに来た理由を思い出して、飲み込んだ。そして女の中に言いしれぬ感情が芽生えた。なんだこの気持ち、と思うと同時に言葉が口を出てしまっていた。

「飛びに来たのよ」

不良が眼を白黒させる。

「飛びに?」

不良は周りをぐるりと見回した。

「〝落ちに〟、の間違いじゃねぇのか」

ここはビルの屋上。何年も前に使われなくなった、在って/無いビルのひとつ。ビルの墓場のようなこの地域で少しだけ背が高いことが知れないよう、頭のてっぺんを暗くして小さく見せてる情けないビル。

この真っ暗な屋上を女はずっと前から知っていた。知っていたが、今の今まで忘れていもした。一歩外に踏み出せば東京の喧噪が押し寄せるこの場所にはこんなビルは視界の端の風景でしかない。この不気味なビルは人々の無意識によって追いやられてしまうような弱い存在で、女はその弱々しさが嫌いだった。女がここに来たのは、ひとえに夢の中でこの場所に立っていた気がしたからであった。

「ここから落ちれば、〝飛べる〟でしょ」

ふん、と鼻を鳴らして不良の隣に座り込む。ビニール袋におもむろに手を突っ込み、適当に掴んだ大きな瓶の蓋を開けて一気に中身を呷った。不良の戸惑いはしかし声にはならず、瓶の中身が人差し指一本分になったところで不良は諦めたように嘆息した。

「お前ならそのまま地面に潜っていくだろうよ」

女の後に来たのは白無垢だった。ふわりと裾が翻った時、女はウィスキーに吸い付いていた。白無垢の純白が鋭く女の目に飛び込む。不覚にも女は見惚れた。その隙を逃すなとばかりに黄金色のアルコールが女の喉を駆けた。

「がふっゲフッ」

毒霧となったアルコールが白無垢を襲う。意外にも機敏に避けた白無垢はしかし、後ろに居た何かにぶつかった。白無垢の手から光る何物が滑り、コンクリートへと弧を描く。ガチャリ、と金属音がして、不良が胡座を組む足元まで転がっていった。

「おー、とっー。…大丈夫?」 

ぶつかった何かは人だった。サイズの合っていない黒いパーカーをおっ被るように着ている。黒パーカーは白無垢の身体を浚い、元の位置に立たせた。「何だか人が増えてるね」。そう言って目の前の人間達をぐるりと見て、最後に白無垢の顔を覗き込んだ。

その一瞬、周りの空気がぱきりと止まった。

黒パーカーが優しげな笑顔を白無垢に向ける。

白無垢は転がった何かを目で追った。

不良は黒パーカーの膨らんだ腹ポケットを凝視した。

女は涙を拭いながらゆらゆらと立ち上がった。

「誰よ、いったい、あなたたち」


「いてっ」「いっ、何よ」「腿がなんかぐねって…キーケース?」「あーさっき転がってったねー」「…すみません、それ、私の物です」「あぁすまん、腿でぎゅってしちまった…ほい」「いえ…傷も付いてないようですし」「高そうなのに頑丈だねー」「んん、やっぱあんた腹んとこになんか隠してんな」「じゃーん。お酒だよー」「スーパードライ…」「金麦…」「餃子浪漫…」「プリン体地獄じゃない」「あ、ホッピーもあるんですね」「ていうかあなたたち誰よ」「人に聞くなら自分から、だろ」「…あたしの名前はハラ」

「一番最初だから〝イチコ〟な」

「ちょっと」「よろしくお願いしますイチコさん」「恭しく頭下げないで」「まあままコエドビールでも飲みなよイチコー」「こういうのって地ビールっつうの?」「最近はクラフトビールとも言いますね」「なに二人ともビールに誘われてるのよ…」

「みんなを地獄に誘う〝イザナ〟だよー」

「別にビールは嫌いじゃないけどさ…」「イザナさんは関東出身ですか」「デレーン、銀河高原ビールぅー」「斬新な否定の仕方…」「ちょうだいそれ」「じゃあ北か東でしょうか」「宮島ビール~」「なんでそんなこだわってんの」「…や、山口とか」「青島ビール~」「どうなってんだよそのポケット」「覗くなーい。生地が伸びるだろー」「んー高原ビール美味しい」「あ、海外の奴もあるな…ほえがる、で、ぇん?」「懐中ならずね。あ、カイちゃんてのは?当たりたがりのカイちゃん」「あ、私ですか?」「当たり屋のガキみたいな渾名だな」「もう少し女の子らしいと…」

「そんじゃあ〝フラーラ〟って、どー?」

「女の子らしさと…?」「下手な当たり屋って当たる前ふらふらしてるからぁ」「なるほどです」「当たり屋見たことあんの」「あ、いえ、女の子らしいなって思いまして」「こんな都会でこんな白無垢なんてなかなか見ないわよ」「そんな希少種を黄金色に染め上げるところだったな、イチコ」「五月蠅いわね…、フラーラ、ごめんね。これでも食べて」「わぁ。チキンカツですか」「ボクにもちょーだい」「いいね、タルタルソースか」「タルタル好きなの?」「チキンカツにはな、タルタルソースなんだよ」

「あんたはこれでも飲んでなさい、〝リリ〟」

「リリ?」「リリーフランキーの好物なの、タルタルソース」「レモンサワー?」「リリーフランキーの店で一押しよ」「宝酒造の缶チューハイじゃねぇか」

イザナがチキンカツをぱくりと一飲みした。

フラーラが垂れたタルタルソースをすんでで避ける。

リリのレモンサワーがかしゅりと開かれる。

イチコは缶ビールを一気に呷った。

「女であることと、ここに来たってこと以外何の共通点もないわね」

「んー、あと一つあるんじゃない、君たちの共通点」

ボクは違うけど。イザナが笑いながら言った。彼女の笑みは柔らかかった。

ぱきり。アルコールで弛緩した空気が再度固まる。

ビルの上は無風だった。埃と水蒸気が混ざった匂いが辺りに立ちこめている。遠く彼方から都会のコソコソ声が聞こえた。

誰かの足がコンクリートを擦る。砂利がこすれる音。都会の空気との摩擦。

沈黙を破ったのはイチコだった。

「花の手向け先をあんたと一緒にまとめられのは業腹ね」

リリが鋭くイチコを睨んだ。

「安心しな。お前と違って高いとこは好きじゃないんだ」

おびえた風がぴゅうと吹く。

睨み合った二人が透明な火花をあげる。

けれどこのビルの管理人は、缶ビールを一本飲み干しながら、何ともお気楽に言った。


「じゃあ、みんなで旅に出よう!」









End.

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あんたのし ゆうきしん @Shinyuki

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