第二話

「ねぇリリ…あと何時間くらい…?」

「ん、あぁ…、5時間ってところかな」

「えぇー。カーナビには4時間ってあるじゃない。なのになんで5時間なのよ」

リリはドリンクホルダーからお茶を取って一口だけ喉に流した。

「事故があったんだよ。まだ混んじゃいないが少し行ったところで11㎞の渋滞だと。お前、助手席に座ってるんだから電光掲示板くらい見とけよ」

リリの苦言にイチコはぶぶぶと唇を震わせる。この先待ち受ける長い道程を思うと溜息が出た。重い腰を座席に据えているのが億劫でならず、下へ下へと滑っていく。

そして間もなくその渋滞はやってきた。当初イチコは寿司詰めのような混雑を予想していたが、そこは関東圏の外れ故か、時速20㎞程度で進む緩い渋滞だった。だがそれでも時折完全に車の行列はストップし、停車の度にイチコの腰は下に沈んでいった。

「んあ…さっきから目的地への到着時間、まったく動いてないねぇ…」

居眠りを決めていたイザナが眠たそうに声を上げた時、イチコの頭部はもはや背もたれの半分くらいまでずり落ちていた。ワイシャツが捲れて臍が露わになっている。リリの呆れたような視線程度では、身を正すことはおろか恥じらいすらも感じなくなっていた。

そして一時間が経過した。

ジーと下りたパワーウィンドウから顔の蕩けたイチコがずいと頭を突き出す。

まず前方を見て渋滞を確認し、眉根を寄せる。後方を見て更に連なった車の群れを見て眉間の谷を深くする。後方の白いセダンに乗っている、ひどい仏頂面の女の子に手を振ってみる。女の子の睨み付けるような視線に不覚にもしゅんとしてしまった。

「よう、光明は見えたか」

最早ハンドルにもたれかかるようにしているリリがイチコの背中に言葉を投げる。

どっこいせ、とイチコが席に戻ってきた。

「政治家って良いわよね。手を振れば誰かが振り返してくれるんだから」

「あぁ…?。歩道をつっきれって言われたらどーすんだ」

「は?」

「だいいちお前、なんだよ尻屋崎って。遠すぎだろ青森」

「本島の端っこに行ってみたかったの!リリだって「意外に近い」とか言って乗り気だったじゃん」

「…8時間なんて睡眠時間程度だろ、ってなんか根拠のない楽観があって」

ぎゃーぎゃーぎゃー。

「ねーえ、お腹すかないー?」

イチコとリリが愚にも付かない争いを繰り広がる中、イザナのもたれ掛かるような声が何故か下の方から聞こえた。不思議に思ったイチコが振り返ると、天井へと伸びる二つの足が目の前にあった。シャチホコの真逆と言えば良いだろうか、イザナは腰に手を当てて長く白い足をぷるぷると震わせている。

「…なにやってるの」

「車の天井に足の裏が付いたら、なんか新鮮じゃーん」

言いながらイザナは不毛な挑戦を続ける。ヴーとかヴァーとか、人間性を失いかけたうなり声も相俟って、どこか欧州の悪魔めいた儀式のようだった。捧げるのは恐らく人としてのプライド。人間を辞める一歩手前である。

イチコはそそくさと腰を元の場所に据えシャツを整える。他人の振り見て我が振り直せ。

「なんか喰いたいものあるか」

リリはとうとうスマホをいじりだした。勢いのあるフリック操作で何やら入力している。

「んー、疲れたしお肉食べたい。たぁくさん」

「肉、ね。イチコは?」

「あたしはあっさりとしたものが良い。あと元気になる感じの」

「スタミナ丼か」

「肉と元気しか拾えてないわよ」

何度かフリックとタップを繰り返す。「お」。何やら見つけたようだ。

「何か見つけたのぉ?肉ぅ?」

人間性がより後退し始めたイザナの声。もう残り時間はなさそうだ。

「ここ、どうよ」

そんなイザナに、リリは投げるようにスマホを渡した。


あの渋滞からおよそ50分。下道を経てようやく辿り着いた市役所駐車場はほぼ満車状態だった。とんぼ返りだけは嫌だと血眼で一つの駐車スペースを見つけ、車から降りた三人はまず凝り固まった身体をたっぷりとほぐし、逸る腹の音を抑えつつ店へと向かった。まず見えたのは「喜多方ラーメン」と馬鹿でかく書かれた緑色の看板。そして昭和の下町を連想させるこじんまりとした長屋風の店があった。

とうにお昼時は過ぎているが8人ほどの列が出来ている。腹の音がくぅと鳴るなか、待ち客はテンポ良く暖簾をくぐっていき、気付けばガラス入りの格子戸に手を掛けていた。

店内は思った以上に広かった。無骨なコンクリート床にどかどかと何台もの木製テーブルが置かれているのがまず見えた。大衆酒場のような備えの中で、老若男女が取憑かれたように丼と対峙している。案内されたのは台所の見えるカウンター席だった。注文をしてから10分、立ち上る蒸気に期待と空腹を乗せながら、果たしてラーメンがやってきた。

「おまちどお様です」

慣れた文句と共に丼がどかりと置かれた。ふわりと香る柔かなだしの匂い。そして鱗のように折り重なった叉焼の山。たっぷりの叉焼がテラテラと脂を光らせる。熱を帯びた頬が思わず緩んだ。これを今から喰えるのだ。

まずはスープからなんてまどろっこしいことは言ってられなかった。箸で麺を持ち上げる。レンゲに掬い上げたスープに麺の足をを浸しながら二度三度息を吹きかける。こうこうと上る湯気ともども麺を啜り、追うようにスープを吸い込む。ごくりと飲み込んだスープが舌に沁みつつ、冷えた身体の中に流れていく。

溜息が出た。優しい熱だった。身体の中の無自覚な疲労に熱が届いていく。ほぐれた筋肉が弛緩し、脳が呆けるのが分かった。旨かった。スープがこんなにも沁みていくとは知らなかった。

二度三度スープを飲み、麺を啜る。叉焼を囓る。旨い。肉自体の旨味が噛む度に広がる。柔らかで贅沢な脂の乗った肉は十分な弾力で食欲を焚きつける。叉焼をレンゲのスープに浸して麺と一緒に食む。冷えたお冷やを流し込む。リセットした口にまた麺とスープと叉焼を放り込む。

ごとり。

スープ一滴ない丼は真っ白だった。熱くなった身体にお冷やの冷気が心地よい。ほうと口から息が出る。満足の溜息。横を見ると柔和な表情を浮かべた二人が虚空を見つめていた。たぶん自分も同じ顔をしているだろう。

「ごちそうさまでした」

店を出た後もふんわりとした匂いが身体を纏っていた。幸福な余韻が腹の底から全身に浸ってくる。

満足だった。その証にと狸よろしく腹を叩く。ぽん、ぽん、ぽんと自分で囃子を奏ながら、愛車の待つ駐車場へと足を向けた。


市役所のトイレから戻ってきたイチコは車内に誰も居ないことに気付いた。辺りを見渡すと駐車場の端で何やらうごめく黒い物が見えた。訝りながら近付くと、それはリリの頭だった。

リリは煙草をふかしていた。緩やかな土手に足を投げ、高く遠い真っ青な秋の空に雲を吐いている。じっと見詰める視線の先にはチョウチョが飛んでいた。イチコはお構いなくリリの隣に腰を下ろす。尻の横に生えていた猫じゃらしをぷつりといただき、くるくると回してみた。

「やっぱり煙草、吸うんだね」

リリの顔がバツ悪く歪む。「悪いか」と言う言葉も心なしか小声だ。遠慮がちにイチコを見る視線にはそこはかとない怯みが読み取れる。

イチコは煙草を吸わなかったが、特段煙草が嫌いというわけではなかった。ただイチコは、煙草とコーヒーの混ざった匂いが格別に苦手で、だから必然、コーヒーを好む喫煙者の多くを避けてきた。

あの山での一件でリリがコーヒーを飲まないことは知っていた。だから忌避する必要も無い。むしろ、何処かを朧気に見詰めながら吹かす煙草はリリの持つ憂いをより際立たせ、とても様になっていた。リリならきっとコーヒーだって色気たっぷりに飲むだろう。だから敢えて返事をせず、その場に居なかったイザナの行き先を聞いた。

リリは些か面食らってから、煙草を唇の端に挟んで答える。

「土産屋。ほらあそこの、ログハウスみたいなとこ」

「誰に買うって言うのよ…」

反射的に口に出た言葉にイチコ自身が驚いた。確かに、イザナが誰かのためにお土産を買う姿は、なんとも想像し難い。この旅において唯一往復切符を持っているだろうイザナには、果たして帰る場所があるのだろうか。

『お休みいただきまして、ありがとうございました』

上司に向かって恭しく頭を下げ、よく分からないご当地キャラがプリントされたクッキーを差し出すイザナ。想像して、イチコは思わず吹き出した。訝るリリに説明すると、「似合わねー」と言って笑った。


行き場所の変更を告げたのはリリだった。そこは尻屋崎よりはずっと手前で、ここより2時間ほど車を走らせたところにある観光地だった。そこでリリは牡蠣を食いたいと言った。リリは牡蠣を食べたことがないらしい。この変更に反論は出なかった。それは、ナビに表示された尻屋崎の到着時間が何故か8時間に戻っていたことが多分に決め手となっていた。

イザナは大量にお土産を買い、ワインレッドのスーツケースが埋もれるほどトランクに詰め込んでいたが、そのほとんどを目的地への道中で開封したところを見るにどうやら『お休み』に感謝する相手はいないらしい。事実、銘菓〝お乳を飲む人々〟の半分以上はイチコが食べていた。

〝お乳を飲む人々〟のしっとりとした甘みが指に染みついた頃合い、リリの目指した観光地が坂の下に見えてきた。


「磯臭い」

リリは焼き牡蠣を一口囓った後、そう吐き捨てた。元が海産物なのだ、しかもこの店は港に船を一隻持っているそうで、その新鮮さたるや梨に水をぶっかけたような瑞々しさだ。それが仇になったのだ。リリのあんまりな態度に悪態をつきながらも、イチコは鼻を突き抜ける磯臭さに嗚咽がこみ上げるのをなんとか我慢していた。

まだあたしには早かったのだ。そう言い聞かせながら店を後にする。敗北の重みに背を曲げていると、イザナが三枚のチケットを手に意気揚々と戻ってきた。

「遊覧船乗ろうよ、遊覧船!」

その提案に、イチコはぐるんぐるんと大回転するウミネコを連想し、込み上げる吐き気に突き動かされて手だけぶんぶんと横に振った。


この観光地が面する海岸にはおよそ260もの島があるらしい。イチコはそのうちの一つ、コンパクトな社が建てられた島で穏やかな波がさざめくのを眺めていた。波は一束の磯を押したり引いたりしながら弄んでいる。磯は島に近付く度、なんとかその岸壁に取り憑こうと弱々しく腕を伸ばし、引っかかることもないままに沖へと運ばれていった。

ウミネコが鳴く。

声の近さに驚いて顔を上げると、すぐ近くを一匹のウミネコがホバリングしていた。そのウミネコは先の赤い嘴に大きな鱗のような物を咥えている。なんだろうと思ったその刹那、一陣の風がウミネコを浚った。ウミネコはまた一鳴きし、どこかへ飛び去ってしまった。

二枚の鱗がイチコの足元に舞い降りる。ウミネコがくれたプレゼントだろうか。そんな悠長な考えは、その鱗を手にとった瞬間に消えてしまった。光を失いただ黒い虚となった斑点が二つその鱗にはあった。見た者を不快にさせるその毒々しい色合いは、蛾の羽の色によく似ていた。イチコはぎょっとし、思わず二枚とも海に投げ捨てた。

二枚の羽がゆらゆらと海面を漂う。二つの虚はいつまでもイチコのことを見ていた。


「じゃあ、行くか」

リリは、遊覧船から戻ってきて早々、次の目的地を告げた。次の目的地はこの県で最も大きなターミナル駅だった。

駅へと向かう車内は静かだった。後部座席に積まれたスーツケースだけが、ゴトリゴトリと音を立てていた。



ごう、と風の塊が横を通り過ぎた。ごうんごうんと電車が走る音が空気に響き渡る。堅く重い音の波は永遠に続くように思われたが、車両はは数秒で通り過ぎ、カタンカタンと小さな余韻を残しながら遠く彼方へと去って行く。赤く光るライトが見えなくなるまで見送ったお後、イチコとリリは再び歩き始めた。電車が通り過ぎた後の街には、遠くでクラクションが鳴っていた。駅へと向かう道中で、イザナの姿だけがない。

『随分と渡すのが遅くなっちゃったけど』

はいこれ、とイザナは車内で何かを懐から取り出し、リリはそれを受け取った。今、隣に歩いているリリは牡蠣に悪態を付いていたときと見た目の違いはない。ただ、リリが押し隠している気持ちと同じように、懐か、腰か、はたまたショルダーバッグの何れかにイザナの渡した〝何か〟を忍ばせていることは確かだった。

ガードレールを挟んだ先で白いワゴンが通り過ぎ、テールランプの赤が仄かに網膜にこびりつく。沈黙を嫌ったイチコは繁華街へと目を向けた。けれどその繁華街は、多くの店が顔をシャッターで隠していた。虫の腹を思わせるそれは風が通る度にがしゃがしゃと蠢き、死骸となった店をその身の内に閉じ込めていた。網膜の赤は居酒屋の割れた電光看板を見ることでやっと落とすことができた。

最初、腰の高さにあった線路は今や目線より上にあった。高架工事が進む路線において駅は全て地上から離れた場所に建てられており、その高さは軒並み15.57メートルに統一されている。この線路が15.57メートルまで上がり切るまでに、そう時間は掛からなかった。イチコとリリは歩き続けた。


「なぁ、イチコ」

リリがようやく口を開いたときには既に駅に到着していた。

「お前、本当は免許持ってないだろ」

へったくそだったもんなぁ。

リリの言葉はいつも軽やかだった。悪態も、からかいも、まるで重さがなかったから、注意しなければ取り損ねてしまいそうだった。いったい幾つの言葉を取りこぼしてきたのだろう。零れた言葉はポップコーンみたいに跳ね回り、イチコの周りを跳ね回った。それが少しだけ悲しくて、悲しむ権利のないことに少しだけ救われた。

「じゃあな」

別れを告げたのはリリだけだった。


改札の向こうの雑踏に、リリが一人、のまれていく。

思わず見上げた先の電光掲示板に、リリが目指すだろう駅を探す。

見つかるはずもない幻の駅を探すうち、リリの姿はたくさんの誰か達と見分けが付かなくなっていた。

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