【街灯、傘の暗闇】

私は帰らない。あの家にだって、この家にだって。

いなくなれ、私を待つ家なんて。なければこの胸が燻ることもない。なければ幻覚が浮かぶこともない。

肩甲骨の痣は空が快く晴れるほどに痛んだ。そんな日、人々は口々に〝爽やかな空気〟の恩恵を有り難がったが、私の肺を通ると何故か濁るようで、泥濘のような空気を胸に抱えながら、いつものように人間の太股を擦る。全部で25回、そのうち15回はスーツの上、7回はナイロン、3回は素肌を直接撫でた。その3回は、求めに頷いた回数と一緒である。


私の帰る家が分からなくなったのはいつからだろう。ゴヤールのキーケースの二番目の鎖には確かにかつて自宅としたアパートの鍵がぶら下がっていたが、私は私以外の人影に床を焼かれた部屋を〝家〟とは言いたくなかった。あの部屋は顔もうろ覚えの男が切れかけた8mmフィルムのように途切れ途切れに現れる。それはもちろん私のせいだったが、最早いっぺんの安らぎも得られないあの部屋に帰る気は微塵も残っていなかった。

だから私は挨拶代わりに男の太股を撫でた。都合によっては女も。私は、私の投げる快感というダーツがブルに近ければ近いほど長期間居場所を与えられた。1日で追い出された日のスーツケースは私とは違う香水の匂いがしたし、1ヶ月の時は相手の好物だった目玉焼きの匂いがこびり付いた。それらの匂いに染められ上書きされながら、ワインレッドのスーツケースと共にガラガラと世間を滑った。私は世間を気にしたことはなかったが、世間だって私に利したことはなかった、だからお互い様であることは間違いなく、私は世間と上手に付き合っていたつもりだった。

けれど、いややはりというべきか、ツケというのは確実に溜るものだと思い知ることになる。私があの傘を電灯の下に見つけた日、私の脇腹には全長2センチほどの穴が開いていた。階段を転げ落ちた私は意識が戻るやいなや、雨を落とす天に向かって痛みの余り吠えた。筋肉が微動する度に視界が霞んだ。悲しくもないのに涙が止まらなかった。およそ土地勘のなかった私は、痛む脇腹を押さえ、黒ずんだ血液を垂れ流しながら見知らぬ街を歩いた。

―――赤い点がコンクリートを泳いでいる。

重い瞼を開け、何度目かの失神を自覚した私は、ついに自分がどこに居るのかさえ見失った。曖昧な視界の中で道しるべのような血痕が雨に打たれて揺れている。

私はぼんやりと光る街灯の下に居た。

捨てられた赤ん坊のように蹲りながら、真っ黒なこうもり傘をひしと抱きしめて。

その街灯は奇妙だった。普通なら連なって在るはずの街灯が、周囲をぐるりと見渡しても頭上の一本のみだった。黄色みがかった光はコンクリートを丸く象っていたが、その円の向こう側は全くの暗闇で、ただ雨が地を叩く音が辺りに響いている。血痕も、光の外側から先は一つも見つけることが出来ない。そしてまた不思議なことに、私はこの街灯における過ごし方を心得ていた。私は心得に従い、胸に抱いていた傘をバサリと広げ、傘下に潜る。途端、雨の音に彩りが増した。

コンクリートを叩く、穿つ音。傘に吸い込まれ、弾ける音。木を打つ音。葉を射る音。骨に伝わるくぐもった音。小さな水溜まりに飲まれる音。

外側の暗闇とは違う、自分だけの小さな闇に、水の全ての音が溢れている。

腹から胃へ、そして脳が水の音で満たされた時、私は眠りに落ちていた。


雨の音が聞こえる。目を開けると、夜は既に姿を引っ込め、厚い雨雲が朝の存在を薄くしていた。見上げると街灯の照明が視界に入った。だが、傘は何処にもない。冷えた身体を雨が容赦なく濡らしていく。空が隠していた雨雲がたっぷりと雨粒を落としていく。私は思わず空を睨む。空だって望んで雨を降らしているのではないことは分かっていたが。

私は雨の中を歩き始める。駆けるでもなくゆっくりと、雨の一滴一滴を肌に受けながら、遠い日の休日のように。

挽いたばかりのコーヒー豆の匂い。レンガ造りの喫茶店。雨だれを流れる雨水。雨を凪ぐ室外機。雨に打たれるビール瓶。極彩色のネオン街の光。光が溶け出したコンクリート。

ふと、雨に濡れて重くなった瞳を前へ向ける。ちょうど人一人分くらいの空間が広がっている。雨が唇を伝い舌を濡らす。視線を地面に戻すと、極彩色のコンクリートがにわかに盛り上がっていた。

ぐちゃぐちゃに光と混ざったコンクリートが粘土のように形を変えていく。コンクリートは流動を続け、やがて人になった。私がそれを人と判断したのは、ちょこんとてっぺんに乗った仮面のような顔に見覚えがあったからだ。「……子…」。幻覚だと思った。そいつは決して私のことを、私の名前で呼ばなかった。そいつが私の名前を呼んでいたのは私の頭の中でだけ。だから目の前の化け物も現実ではなく、私の心の住人だった。

そいつは何度も何度も私の名前を呼ぶ。私を抱きしめようと前へ進み、土台のコンクリートがチェダーチーズのようにボロボロと崩れていく。能面のような顔が近付いてくる。私の頭にあの真っ黒なこうもり傘が過ぎった。きっとあの傘を差していればこんな化け物が現れることはなかった。例え現れたとしても、あの太い骨組みを含んだ傘なら、一突きすれば崩れるだろうと思った。気付くと、私はそいつの濁流に足が飲まれている。


「…子」「…子」「一緒に帰ろう」「戻ろう」「あの場所へ」「あの家へ」「…子……」。


―――身を包む火の中で、ぼんやりとした思考。頭にぷかりと浮かんだ真っ黒な傘。

ああ、あの傘は父さんのものによく似ていた。

熱に溶ける思い出を焦げた掌で掬いながら、近付く不明に身を浸していった。

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