第一話
旨い匂いは密室で混ざると悪臭になる。〝イチコ〟が幼少期からこの妙齢に至るまでに学んだ、旅行での約束事の一つだ。
「牛串はー、」
「私です」
「下仁田コロッケはー、」
「私だ。バックテーブルに置いといてくれ」
「揚げまんじゅうはー、」
「ん、あたし」
いの一番にソフトクリームをぱくついていた〝イザナ〟が、おのおのが買った総菜を袋から配っていった。
イチコは後部座席から差し出された揚げまんじゅうを受け取る。
熱と油と肉と砂糖が焼ける匂いが消臭剤の香りと喧嘩する。約束された悪臭はしかし、テラテラと光る飴色のタレの前には十歩も百歩も及ばなかった。喉から出そうになる手を飲み込んで、大きく口を開けてがぶりと一口。唇の端にタレがぺっとりとくっついた。
「…ん、ふかっ」
イチコは口内の熱さに思わず喉から息を送った。熱風が唇の裏を焼いて車内に放出される。それでもなお熱いふかふかの饅頭を恐る恐る噛み切って熱を逃がし、ごくりと飲み込んだ。喉に降りていく熱い饅頭は存在感たっぷりに食道でもたついている。買っておいた緑茶を喉に流し込むと、饅頭がグググと喉を下っていった。
「熱かったでしょう」
助手席に座るイチコの後ろから〝フラーラ〟が言葉を掛けてきた。彼女の持つ牛串は一番上の肉が半分だけ囓られており、串を持ってない左手で口を隠しながら、頬をもぐもぐと波打たせていた。フラーラは肉を嚥下した後、薄ピンクのポーチからポケットティッシュを一枚抜き、タレで汚れたイチコの唇をそっと撫でた。イチコは礼を述べながら「みたらし団子みたいなのを想像してたからね…」と息をふうふうさせながら言った、
まるで小さな男の子を見るような眼とともにフラーラが微笑む。
「餅と饅頭では噛んだ熱が吹き出るタイミングが違いますから。びっくりしますよね」
ニコリと笑った顔はなんとも柔和だった。唇の端も汚れていない。フラーラがもう半分を串から引き抜くと、連られてイチコも二個目を頬張り、熱さに慣れたのもあって最後の三個目もぺろりと平らげた。
車の窓ガラスが開いた。運転席側が大きく開かれ、更に対角線上の窓ガラスはその半分程度開いたところで止まる。
窓ガラスを操作したのは運転手の〝リリ〟だった。運転に飽きてきたのかハンドルを握るのは左手のみで、右手はふくらはぎの上で踊っている。
「タバコ吸うの?」
「ただの換気。…もう食い終わったのか」
リリがちらりとイチコを見やる。感心するような眼と呆れたような薄笑い。彼女の中性的な顔立ちに、イチコは不覚にも恥じらいを思い出していた。
「それならコロッケ喰わせてくれよ、助手」
リリは眼だけ前に向け、イチコの方に「んが」と豪快に口を開ける。コロッケは紙の個包装に包まれていた。半分だけ紙を破ってコロッケを露出させ、リリの口元にそっと置くと、横目に見ながら豪快に囓った。油を含んだ衣が瑞々しく弾ける。
「ソースかけないの?」
「コロッケはかけない方が旨いんだよ」
そう言うとリリはまた口を開けた。
イチコはなんだか負けたような気がして、腹いせに残りのコロッケをポイッと放り込んでやった。
「んふっ」
コロッケの熱に当てられたリリがタコ焼きの鰹節のように踊り出す。その踊りに合わせるようにして。イチコたちの乗る車もフラダンスのように蛇行した。
「んふっ。ふ、ほふ、ぐ」
「ちょ、ちょっとリリ、車線が車線が」
「ぐ、あっふ、ん」
「ひゃあーっ黒塗りのレクサスが隣にっ。右は駄目です右はーっ」
「ソフトクリームアターック」
「むぐっ」
「ああ、眼に!眼に!」
「これは罰だ」
そう言って投げつけられたのは地元の宿がわんさか載ったパンフレットだった。次で15件目になる電話のせいでイチコの耳たぶはジクジクと痛み出していた。
道の駅からかっぱらってきたという5つの案内はどれもこれも大雑把なペケ印でいっぱいになっている。イチコは耳たぶをさすりながら、存外重たかった罪を悔いた。
「…もしもし。すみません、宿の予約をしたいのですが…出来れば二部屋で、えぇ…四人です。全員女です」
電話口の相手は、「はい」とか「ええ」とか何とも歯切れ良く相づちを打った。だが、「今日、これから泊まりたいんですけど」とのイチコの言葉には「はええ」と何とも情けない声を返してきた。
まただ、これで何度目なのだ。
この地域の人間は予想外のことがあると「はええ」と言うのだろうか。確かに当日予約でしかも夕暮れ時。シーズンではないにしろ出足としては遅すぎて余りある。非はこっちにあるのだが、イチコの腹は業に煮えた。
案の定、15件目のチャレンジは失敗に終わった。吐く息にすら疲労が混じり始める。宿の予約なんていう些細なことでも、断られるのはやはり辛い。疲れた身体はひたすらに布団を求め、失敗続きで傷だらけの心が番号を叩く指を躊躇させる。真っ向からぶつかり合う心と体を持て余し、イチコは深々と頭を抱えた。
「難航してますね」
ひょっこりと顔を出したのはフラーラだった。見る人が見れば幽霊かと見間違えるその白い顔の主が、ついさっきまで牛串を頬張っていたとは思えない。ふらつく足元はふわふわと白無垢をはためかせ、より幽霊らしさを演出していた。
そも、この峠に車を停めたのは宿の予約を取るためではない。畳みかけるような急カーブの応酬にいっとう最初に音を上げたのがフラーラだった。肌はまるで白粉をまぶしたように色を失い、深々とした呼気で髪は烏の濡れ羽色状態。道路の凹凸に合わせてゆらゆらと波打つ姿は確かにポピュラーな幽霊像そのもので、その生気を抜かれた幽かな存在感と相俟ってバックミラー越しにリリの肝を冷やした。リリは「ひぇ」と叫び、その後大いに車を動揺させたのが決め手となり、この峠に行き着いた。これがリリが罰を課すのに至った真相である。
こん、こん、こん、と三度続いたフラーラの咳は何とも可愛らしく、目の前の峠をコロコロと転げていくようだった。
「手伝います」
そう言って宿のリストを受け取ったフラーラは、すぐに何かを見つけ、白い顔をピン、と狐顔にした。
つとつとと画面をタッチして電話をかける。「もしもし」。受話器から漏れ聞こえたのはイチコが早々にバツ印を付けた宿名だった。リストのバツを見なかったのかと失望しかけた矢先、フラーラが何とも妖艶な声音で笑った。一拍ののち、電話口が少々騒がしくなり、最後に「よろしくお願い致します」と言って電話を切った。
思わずフラーラの顔を覗き込む。すると例の狐顔のまま、「決まりましたよ」と微笑んだ。その宿がここから1時間ほど車を走らせた先にあることをイチコは知っている。温度の違う五つの風呂釜が有名な、地域の温泉街を代表する宿だ。
「どんな手を使ったの」
耳打ちをするイチコの唇に人差し指をそっと置く。それを聞くのは無粋ですよと、細めた瞳が妖しく光っていた。
渓谷の沢沿いに建てられた温泉街。ぽつりぽつりと点在する宿はその半分が営業をしておらず、夜の街は暗く沈んで見えた。駅前の土産屋で生どら焼きを買うのと引き替えに宿の場所を尋ねる。徒歩15分、沢にかかる橋を渡った向こう側に予約した宿はあった。
通された部屋は四人部屋で、宿泊一覧に書いてあった通り開放感のある広い和室だった。四人は想像以上に上質な部屋にわーと感嘆しながら荷物を置き、日本茶を一杯しばく。ほっと落ち着いたところで三々五々に口を開いた。
「じゃあさっそく温泉行こうよ」「インベーダーゲームやってくるぅ」「夕飯まで保たねぇから売店のカップ麺喰うわ」「ちょっと横になりますね…」
かくしてイチコは一人で湯に浸かることになった。二番目に熱い風呂釜で身体を茹でながら、疲れた女にとって情緒なんかクソ食らえであることに涙を流した。
汗も涙も流しきったあとの女湯の暖簾の前で今まさに入らんとするイザナとフラーラに出会った。イザナはひとしきりゲーム五面の絨毯攻撃に文句を言った後、フラーラに腕を引っ張られながら暖簾の奥に消えていった。
玄関を経由してイザナがやったであろうゲームの筐体を横目に部屋に戻ると、リリも部屋に戻っていた。脇腹を畳みに付けた姿勢で寝転びながら、適当にテレビをザッピングしている。机にはカップ麺が一つ、空っぽになって転がっていた。
イチコは、テーブルを挟んでリリの反対側に座り、リリがどの番組にチャンネルを定めるのか密かに興味深く見守っていた。しかしリリは、その期待も空しく、2周ほどチャンネルを周回したところで「番組数、少な」と呟いてテレビの電源を切った。
「あんたって悉くあたしの期待を裏切るのね」
イチコの精一杯の悪態はしかし、既に微睡み始めているリリに届くことはなかった。
「明日の夜、ここに行くから」
そう言ってイザナはポイッとパンフレットを投げた。パンフレットを広げてみると、ほぼど真ん中のあたりに黒マジックで丸が付いている。渓谷の奥深く、聳え立つ山脈を背中に据えた森のど真ん中だった。本来ならバスか電車で向かうその場所に強引にも車で侵入し、途中からは徒歩で目指すとのこと。パンフレットは見所はとして七色に紅葉した木々を推していたが、行くのが夜中であっては展望は望めまい。
次の日。
イザナは朝食後、準備があるといって一人何処かへ行ってしまった。イチコとリリは温泉街の端から端まで練り歩き、気になった総菜があると躊躇いもなく買って胃袋に収めていった。当然ながら皮膚がふやけるほど温泉にも浸かった。フラーラも一緒に付いてきたが、食事の類いは一切取らず、そのことをイチコ達がとやかく言うことはしなかった。20時を10分ほど過ぎた頃に戻ってきたイザナは、その服の端々に紅葉した葉をくっつけていた。車が宿を出発したのはそれから更に30分ほど経った後だった。
夜風の冷気が車のウィンドウをみしみしと冒す。数少ない街灯を道しるべにしながら夜の道を進む。
麓から見た山々は生き物のように蠢いて見えた。山そのものが妖怪じみて見え、その道は内臓の壁のようにごつごつしていて、進むにつれ真っ黒な巨人の胎内に飲み込まれていくようだった。山の闇は奥行きも高低も全て覆い尽くし、ヘッドライトに照らされた砂利道のみが正体を表していた。
時間の感覚が曖昧になる最中、砂利を踏み越える音だけが鮮明に車内に響いていた。
…
イチコの首筋に突然、ふわりと熱が灯った。振り向くとリリがコーンポタージュの缶を突き出している。「山の夜はさみいだろ」と言って缶をイチコの手に収めた。
夜の11時。イチコは片耳を塞ぎながら、缶を傾けた。とろりとしたスープが舌を滑る。喉元に溜めて熱が身体に逃げるのを待ち、喉に下す。熱が生き物のように胃へと下りていった。
リリの方を見る。膝を折りたたむようにしてしゃがむ彼女はいやに窮屈そうに見えた。リリの缶からふわりと上がった蒸気がイチコの鼻を掠め、彼女が飲んでいるのがココアだと分かった。コーンポタージュとココア。何とも優しい選択だとイチコは思った。
「なんだよ」
思わず零れた笑いが聞こえたのか、リリがイチコの方に振り向く。その視線はさほどきつくはなかった。
「もしかしたらずっと起きて無くちゃいけないのにさ。受験生みたいで可愛くて」
「コーヒーが良かったか」
リリの顔がくにゃりと変わる。当てが外れたような、どことなく情けない顔。
「んーん。あたし、コーヒー嫌いだから」
そう言ってイチコは二口目を飲んだ。「そうか」、とリリが呟く。
「そうだろうと思った」
リリの溜息が風を甘くした。
山の闇は重い。下界よりも声高な虫たちが冷たい風を大いに揺さぶる。イチコは虫の音の大きさに、耳から手が離せなくなっていた。
リリはとにかく縮こまった。膝を抱え、前後に小さく揺れる。揺り籠のように揺れながらリリは、時折聞いたことのない歌を口ずさんだ。
無数の虫の音。三々五々の大合唱。無遠慮で無秩序な音の塊。リリの歌声はまるで細い針のように音の隙を縫っていく。気を抜くと見失いそうな歌声を、イチコは出来うる限り拾い続けた。
何時間経った時だろうか。イチコがかじかむ手を揉んでいると、すぐ近くで森が動く音がした。森の闇から飛び足してきたのはイザナだった。手にはワインレッドのスーツケースを持っている。近付くと仄かに物が焼けた匂いがした。よくみるとイザナが着る黒いパーカーも所々が灰で汚れている。
「終わったの」
イチコが尋ねる。声は森の中にポトリと落ちていき、間もなく虫の合唱と森のざわめきに飲まれていく。けれどイザナはその小さな問いを確かに耳で受け止めていた。
イザナが頷く。その顔は柔らかな笑みに包まれていた。
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