第9話 兄を頼る弟

 俺はそのままセリーヌさんに拾われて、外に出た。もう日が落ちていた。結局、何もつかめなかった。せめて拳を交えでもできれば、何か変わったのだろうか。

「あとは私に任せなさい」

 セリーヌさんはそう言って、俺を家に帰した。

 

 南雲家は学校から十五分、あの廃ビルから五分のところにある。二階建ての一軒家だ。家族四人で住んでいるが、部屋の電気はたいていいていない。両親は夜遅くまで働いていて、兄は大学生で帰宅時間はまちまちで、俺も寄り道ばかりして帰りは遅めだ。

 そんな家に帰ってきたのは、午後六時だった。珍しくリビングの電気が点いていた。玄関に靴を脱いだとき、スニーカーが脱ぎそろえられていたので、すぐに部屋の中にいる人物を特定できた。

 部屋に鞄を投げ捨てリビングへ行くと、すでにパジャマ姿になった兄、みなとがソファに座っていた。まだ寒い春だというのに、アイスキャンディーをなめていた。

「おかえり、一斗」

「ただいま」

 俺は制服のジャケットだけ脱いで、兄貴の横に座った。石鹸のいい匂いがする。

「お風呂に入ってきなよ。なんか汗臭いよ」

「うるせえ」

「全く、口の悪い弟だね」

 兄貴はアイスを口にくわえたままキッチンへ行くと、飲み物を二つ用意して戻ってきた。器用にアイスの棒をくわえながら両手にカップを持っていた。

「まあ、紅茶でも入れたから、ちょっとゆっくりしてからお風呂に入りなよ」

「ありがとう」

「素直にお礼だなんて……。何かあった?」

 兄貴は淹れた紅茶を一口飲んで、俺の目を見た。自然とそらしてしまった。俺は兄貴と目を合わせるのが苦手だ。兄貴は前に言ったように真面目な男だ。加えて優しい男だ。何か相談をすればそれを解決するために走り出してしまう。兄貴には大切に思っている人物がいるらしい。俺はその人にこそその真面目さと優しさを使ってほしいと思う。

 だから、俺は相談しない。

 その代わり、俺は一つだけ聞いてみることにした。

「なあ、兄ちゃん」

「何?」

「もし、過去を変えられるとしたら、兄ちゃんは変えたい過去とかある?」

「ふふふ」

 と、兄貴は笑った。

「なんだよ。笑うなんて」

「ごめんごめん。いや、嬉しいんだよ。高校生らしい悩みを打ち明けてくれて」

「高校生……らしいのか?」

「さあ」

「なんなんだよ」

「まあようするに、兄として弟の悩みを聞けるのが嬉しいんだよ」

 悩み、か。考えれば、そんなことを兄貴に話したことはなかった。今までは海凪みなぎ先生に愚痴程度に話したりするくらいだったけれど、やはりこの変化には彼女ら・・・が大きいだろう。

 いや、そんなことを思っている場合ではない。

「で、どうなんだよ」

「そうだね……」

 微笑んで考えながらカップにまた口をつけた。

「ワルかったときのことを言っているのかな」

「うん、まあ……って、俺、そんなこと言ったか?」

「言ってなくても大体分かるよ」

「エスパー気取りか」

「そんなんじゃないよ。僕、一応一斗のお兄ちゃんだから」

「そんなもんか?」

「そんなもんだよ」

「……全く、その通りだよ」

「なあんだ」

「いいから、早く言えよ」

「分かった分かった。そうカリカリしないでよ」

 カップをテーブルに置くと、じっと俺を見た。そして、

「変えたい過去はあるけれど、変えなくていいかな」

 と言った。

「どういうこと?」

「言葉のまんまだよ。変えたい過去はあるけど、変えたくない」

「いや、そうじゃなくて。変えたい過去があるんだろ。それなのに、どうして……」

「どうしてだろうね。思い出したくなかったり、忘れたいこともそれなりにあるけど、なかった・・・・ことに・・・したい・・・とは・・思わない・・・・んだ・・

「うん……分からないよ」

「なかったことにしたら、それから得られた思い出とか人間関係とかが全部なくなっちゃうってことだろう。ありきたりな言葉だけど、思い返せばいい思い出なんだよ。どんなに嫌な出来事でもきっと忘れちゃいけないんだ。頑張って向かい合ったりはしなくても、心のどこかに刻んでおくべきなんだ」

 全ての記憶が消えたとしても、消えちゃいけないものなんだ。

 ――と、兄貴は言った。

「一斗もそうなんじゃないかな」

「俺も?」

「ワルかった時代があってこその今だろう。逆に言えば、その時代がなければ今の一斗はいないんだよ」

 あの時代があってこその――今。

「ああいう時代があって、きっと何か得たものがあるんじゃない? だから今、あの頃はいなかった友達がいる」

「………………」

「一斗、過去を嫌悪するのは、僕は別にいいと思っているよ。ただ忘れちゃいけないんだ。ちゃんといつか、大切だって思える日が来るよ」

「そんなんでいいのか?」

「分からないけど、とりあえずそれくらいの気持ちでいてみなよ。気が楽になるよ」

 兄貴は笑った。たった一つ聞いただけなのに、どうしてここまで言えるのだろうか。それを質問すれば、また『お兄ちゃんだから』と言われそうだ。

 俺は考えるまでもなく、こう返すことにした。

「ありがとう、兄ちゃん」

 何も解決していないけれど、なんだか気は軽くなった。重く考えすぎだったのかもしれない。兄貴に相談してよかった。

「ところで、一斗」

「なんだよ。まだ何かあるのか?」

「これはさっき思い出したことなんだけど」

「ああ」

「もうすぐ来客だ」

「は?」

桐生きりゅう由菜ゆなちゃん、だっけ。なんか一斗が帰ってくる前に連絡があって七時前にお伺いしたい、とか言われたから了解しちゃったよ」

 『由菜』じゃなくて『陽菜ひな』だ。

 ……え、陽菜がうちに来る?

 今の時間は、六時四十分。あの真面目な陽菜が約束通りに来ないわけがないから……もうすぐ来るじゃねえか!

「それ、一番に言うべきだろうが!」

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