いつか一つのしかけを

いつか一つのしかけを①

 あれから世界は変わった。

 その変容は手にとって見えるようなものではない。目が覚めたら世界の姿そのものが一新されていた、なんてファンタジーでもない。しかし確実に変わっているのだ。

 世界中を巻き込んで展開された十日間。その呼び名は、あれから三ヶ月ほど過ぎた今になっても定着はなされていなかった。

 ある者は「審判の日」と呼び、ある者は「人生最良の日々」と呼ぶ。まあ呼称なんてどうだっていいのだろう。問題なのは、およそ人が想像できる全てを内包した世界群が、人の価値観というものを革新してしまったことにある。夢見ていたことが、文字通り夢の中だとしても実現できるということを知った人間達は、自らの殻を破り捨てた。

 有体に言うと、人は少しだけ馬鹿になった。

 楽観的になったといえるだろう。

 それまでの世界は皆、頭が良かったのだ。誰もがお利口さんで、勝手に自室の天井の低さに幻滅してふて寝する。外に出ても成すべき事などないと。それが遊びほうけることを覚えて外出するようになった。そして晴天の吸い込まれるほどの高さを知ったのだ。

 正直、誰も彼もが浮かれていて、危なっかしい。だが人々の目には輝きが溢れていた。生きていればいつか楽しいことがあるのだと、知っている。これからの日々もそうに違いないと信じている。

 全人類が愚者という、旅の始まりに立ったのだ。


「準備はできたか?」

「ええ、はい」


 神社の駐車場で、十人乗りバンに荷物を積み込みながら運転席に答える。そこには暇そうに大あくびをしている順平の姿があった。


「あと出発するだけなんですけど、人のほうがそろってないですね」

「まあゆっくり待つけどよ」


 そうは言っても善意で車を出してくれる順平をぞんざいに扱うのも躊躇われたし、僕としてもすることがないので、こちらから呼びに行くことにした。向かうは大学構内の宝塚の研究所である。

 道中は寒風吹く木立の中を行く。あまりにかじかむので上着の大きめなポケットに手を突っ込み、背中を丸める。しかし不思議と視線は下に落ちなかった。それなので周囲の様子を見ながら歩く。

 冬だというのに出歩く人が多いようだ。心なしか楽しそうにしている者が多い気がする。今の世の風潮というものを考えれば、そう間違った予想でもないはずだ。

 あの夏の日からというもの、僕としては大変騒がしい日々の真っ直中にある。なにせ騒動の関係者だと、それこそ全人類の前で表明しているのである。それは様々な分野からの干渉が相次いだ。政府関係者、宗教団体、マスコミ、大企業、果ては一個人まで。世界中の胡散臭い連中から「話し合い」を持ちかけられている。しかし、本当に面倒な相手にはギミックが事前に根回しをしていたようで、今のところは過激な事態には至っていない。感謝するべきかと思ったが、よくよく考えれば不必要に僕をさらし者にしたのはあいつである。悪態をついておくのが正しいだろう。


「失礼します、ありすはいますか?」


 研修室に入りつつ、尋ねる。そこには三人の人物がいた。宝塚とありすとかおりである。白板と大学ノートに、なにやら幾何学模様にも思えてしまう数式を羅列して論議を白熱させている最中であった。


「勉強は順調ですか?」

「あいやー、二人の話の半分どころか百分の一も理解できないなー」


 かおりがぐったりと机に半身を投げ出す。他二人も微笑みながら講義を中断した。

 三人は暇を見つけるとこうして勉強している。その目的は一つ、大学受験だ。ありすとかおりは来年度、この大学に入学するためにこうして勉学に勤しんでいる。宝塚は個人的に協力していた。しかし、僕の目から見ても講義は入試内容から大きく脱線している気がする。白板に大きく書かれた「人工知能は夢を見るか?」という文字をみて、そう思った。


「もうこんな時間かい、どうにもありすくんといると時間を忘れてしまうね。さすがは僕の弟子だ」

「はい師匠!」

「弟子二号も忘れないでほしいなー」


 現代の大学には徒弟制度などはないが、本人達が楽しいのなら問題ないだろう。楽しいことは良いことだ。


「それでは存分に遊んできなさい。遊んでばかりいては駄目なように、忙しくばかりしていては駄目だ。これは師匠ではなく父としての言葉だよ。久我君もよろしく頼むよ。というか君にこそ必要な言葉じゃないかな、これは」

「お気遣い痛みいりますよ、ほんと」


 冗談交じりの宝塚の言葉に苦笑しつつ、僕は頷く。以前通りの貧乏学生生活に加えて、最近は種々雑多な国籍の人々と話し合いが続いている。疲労というならばかなり酷い。


「ガっちゃん、わたしハンモックで寝てみたい!」

「え、そんなの用意してないぞ」


 しかし、どんなに多忙に追われようとも、こうして一緒に遊んでくれる人がいるというのは幸いなことだ。隣で我が侭を言うようになった友人をみながら思った。

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