人は心が愉快であれば──
「あっそうそう──久我君。この前のお客さんはどうなったの?」
「この前の?」
「あの『実体がない』お客さま」
佐野さんが興味深そうに尋ねてくるのはギミックのことである。
彼女からしてみたら、あんな
よって僕は、あの日に経験したことについて、彼女に語って聞かせることにした。
空中庭園におけるギミックとの出会いから、都内にあった地下居城、そこでの幼い少女との邂逅──そして大都会東京で見た、この世の情景とは思えない星空について。
「それじゃあ……この前の『消灯事件』って久我くんたちの
そして全てを聞き終えた佐野さんは、恐る恐ると僕に尋ねてきた。
あの日の騒動は「消灯事件」という俗称がつけられていた。翌日には様々なメディア媒体によって取り上げられてニュースになったからである。
なにせ大都会の光が広範囲にわたってブラックアウトしたのだ、それはもう大々的に取り沙汰されたのであるが──これがまた不可思議なことで、現在では話題が
理由は被害規模が小さかったことにある。
人的被害、経済被害、果てには各個人の精神的苦痛に至るまで、主だった被害が著しく少なかったからには、世間というのは現金なもので、次第と『重大事件ではない』と
今でも熱狂的に話題にしているのはゴシップ記事や、オカルト好きな
とはいえ、都内の光源が一斉に消える珍事が『原因不明』であるというのは、ゾッとしない話ではあった。よって現在においても、捜査機関各位が愉快犯による犯行も視野に入れて犯人探しに
「いや、僕は何もしていない」
よって僕は無実を主張する。
あれは全てギミックの仕業である。
僕は関係ない。
「私、久我くんから聞いた話を通報した方がいいのかな?」
「頼むからやめて」
しかし、本気なのかそうでもないのか、よく分からない態度を佐野さんは見せて、僕は必死になって彼女に
あのときの僕らの動機だって『少女に星空を見せる』という可愛い目的であったのだ。そのせいで迷惑を
そんな風にアタフタとする僕を見て満足したのか、佐野さんは「むふん」とわざとらしい鼻息をつくと、最後に尋ねてくる。
「まあ、誰に話したところで信じてくれないだろうけど──それでも久我くんたちは、何か悪いことをしようと思って事件を起こしたわけではない。それは、ほんとに本当なんだよね?」
「ああ。ギミックの奴にも悪意はなかった……と思いたい」
今になって振り返ってみても、あの
それを述べると佐野さんは「わかった。だったら私も、この話は誰にも言わないよ」と言ってくれた。
僕は露骨にホッとして、カフェオレが入ったカップに口をつける。
「まあでも、よかったね」
すると佐野さんが嬉しそうな顔をして、僕に言うのだ。
「結果として、久我くんは楽しかったんでしょ?」
「どうして、そう思うの?」
「だって久我くんってば、ずっと嬉しそうに笑って話すんだもん」
佐野さんは両の人差し指を使って、自らの口の端を吊り上げる動作をとる。彼女のその言葉に初めて気づかされたが、どうやら僕はずっと
手で触れて確認してみる。
すると、確かに自身の口角があがっていることに驚いた。
「実は、ずっと心配してたんだけど……大丈夫そうだね──気づいてた?」
そう言いながら、佐野さんはワザとらしく
「久我くんってば、ここ数日は『こんな顔』してたんだよ? 私も学内で見つけたとき、声をかけるの
自覚はなかった。
僕としては、いつもの日々をいつものように、平然と過ごしていたつもりであったが……それでも内心の不満というのは
そしてふと、思いあたる。
例えばそれは昨日のデリバリーでのアルバイトだ。出前に
今になって
あれはそういうことだったのか、と。
そんな僕の様子を察したのか、佐野さんが表情を元の
「『人は心が愉快であれば』だよ」
唐突な発言に戸惑いはするものの、彼女が何を言っているのかについては、見当がつく。
「それって、誰?」
「シェイクスピアの言葉らしいよ」
彼女はそのまま「──といっても、
彼女の述べた言葉は、全文を『人は心が愉快であれば終日歩んでも嫌になることはないが、心に憂いがあればわずか一里でも嫌になる。人生の行路もこれと同様で、人は常に明るく愉快な心をもって人生の行路を歩まねばならぬ』というらしい。
はっきり言って、長い。長くて
佐野さんは時折こうやって、高名な人物の『格言』『名言』を引用することがある。それは彼女のクセみたいなものなのだろう。もしかしたらオタク……もといマニアなのかもしれない。
しかし、その引き出しの多さには際限がなく、僕はその度に感心して
そして彼女は、僕へと言うのだ。
「次にまた『愉快なこと』があったなら、私にも教えてよ。私も明るく行路を歩きたいからさ」
「わかった。約束するよ」
そうして話は一段落して、会話が宙に浮いてしまう。
そうなってから気がついたが、店内が静かになっていた。
周りを見渡す。
すると言い争いを続けていたはずのカップルが、こちらを見ていることに気がついた。どうやら、いつの間にかに
僕はそのことを恥ずかしく思いながらも「お互い様か」と考え直し、彼らへと軽く
すると、向こうの二人もバツが悪そうに笑って、軽い返礼をしてくれた。
なんだか、悪くない気分である。
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