人は心が愉快であれば④
講義が終わった後、僕はいつものように接客のアルバイトに従事し、帰路につく。時刻はもう夜九時をまわっている。そのままアパートの部屋にたどり着きベットに倒れこむのもいいが、今日は途中で寄り道をすることにした。
アパートの最寄駅から川を渡り、歩道橋を渡る前に左折する。数分も歩かない距離に一つの喫茶店があった。レンガ調の出入り口の一軒家。
喫茶『のもと』である。
入店するとまっすぐ右奥の隅の席へと座る。僕の定位置だ。空いていれば必ずここに座る。競争率は高いのだが、今回は僕とあと一組の男女しかいなかったので確保できた。
「いらっしゃいませ、いつものでいいの?」
「ああうん、お願い」
僕が席に着くともとみが注文を聞いてまた返っていく。どうやら今日は彼女もアルバイトのようだ。僕は無言でジッと、今日あった出来事や明日以降の自らの予定
を思い起こしながら待つ。しばらくするともとみが戻ってきた。
「カフェオレです」
彼女が持ってきたのは牛乳が入ったこの店のブレンドコーヒーだ。別にコーヒー一杯を飲んだところで僕は問題なく眠れるのだが、そこは気分の問題で薄めていた。これを頼むのはこの時間帯だけで、決して僕が子供舌というわけではない。
僕はさっそく口の中を湿らせるように軽く含む。最初に感じたのは牛乳の甘みとコーヒーの酸味、そして鼻腔にコーヒー独特の芳しい香りがつきぬける。「おいしい」と一言つぶやいてしまう。別に僕は味や違いがわかる男ではないのだが、この店のコーヒーが美味いとだけは言えた。それほどに僕の好みなのだ。
好みと言えばこの店の雰囲気もそうだ。少し薄暗く、照明がぼんやりと暖かくも頼りない光を放つ。調度品もアンティーク調のものが多い。全体的なイメージとしてはノスタルジック。よくある開放的で自然光豊かなお洒落な機能美というものではなく、なんと表現すればいいか、カフェではなく喫茶店なのだ。
ここで壁掛け振り子時計のコツコツとした音を聞きながらボーッと時間を無為に過ごすのが僕のお気に入りだ。まさにこの店には僕の好みのものばかりがあると言い切ってしまってよい。
今日もそんな静かで無駄な時間を過ごそうと思って来店したが、そんなにいつも自分の思い通りになることはない。今日はいつもと違って騒がしい。
「この浮気者っ」
「いやなんでだよっ」
この通りである。
今のは僕と二席ほど離れた男女のやりとりである。二人は言い争いをしていた。
いやまあ、入店したときは静かではあったのだ。静かなので他の客の会話だって聞き取れてしまう。僕がカフェオレの待ち時間できいた二人の流れとしてはこうだ。
最初、二人は旅行先の相談をしていたらしい。その後、とある地名が話題になると男性が「前に行ったことがある」と言う。そうしたら明らかにしくじったという顔を見せた。そこを見逃す女性ではなく無言の圧力で男性の口を割らせる。「あの……以前親しくさせてもらっ――」「彼女?」「――はい元カノです」という次第である。
そうして前述のセリフにつながるわけだ。二人は依然やいのやいのと騒いでいる
「あの二人、学生時代に知り合って、互いに意識はしてたけど離れ離れになって、そうして上京したら運命の再開を果たしたんだって」
「なるほど」
いまだ僕の隣で一緒に男女のやりとりを傍観していたもとみが解説してくれる。女性があんなにむくれている理由はそれか。
「どうしてそんな情報を?」
「お得意様の詮索は私の趣味ですはい」
「あらやだ、困っちゃう」
可愛らしく小さく敬礼をする彼女に、同じくお得意様である僕としては許さないわけにはいかなかった。
「いいなぁあんな関係、あこがれると思わない?」
「えっどこに、喧嘩してるけど」
「だってこう、あの二人、遠慮がないというか、互いに信頼しているというか、うーん、見ていて安心できるじゃない」
彼女は自分でも説明できない感覚を言葉にするように喋る。
「女性の立場から言うと、やっぱり凄いと思うよ、ああやって他の女性の話を不満だって素直に言えるのも、それを受け止めてくれる男の人も。たぶんあの二人、どんなに言い争っても本当に互いを傷つけるようなことは言わないと思う、互いに大事にしあってるんだなぁって感じがするから」
「そんなものかねぇ」
彼女は案外よく二人をみていたらしい。僕はそのままカフェオレを口に運ぶ。もう一度、二人を注視したら確かにそれは互いにじゃれあってるようにも見えなくなかった。女性の感性はやはり僕のものとは違うようだ。
「あれかよくある漫画の幼馴染カップルみたいなものか」
「うーん、そうじゃないけど、たぶんそんな感じ」
「どっちだよう」
そこのニュアンスの違いも僕にはさっぱりわからない。
「久我君はそんな幼馴染とかいるの?」
「いや、いない」
非常に遺憾である。ああやはり人生はままならない。
「あっそうそう、そういえば久我君、この前のお客さんはどうなったの?」
「この前?」
「あの実体のないお客さん」
明らかにギミックのことである。確かにあんな客がいたら気になるところではあるだろう。僕はあれからのことを彼女に話して聞かせた。
途中、ところどころで彼女の疑問の声が聞こえたが、僕は見たまま聞いたままを伝えた。都内の地下空間やら、幼い少女が一人暮らししていたことなど、彼女は信じられないと言いながらも最後まで聞いてくれた。
「それじゃあ、この前の消灯事件って久我君たちの仕業?」
「いや僕は何もしていない」
手を振って無実を主張する。あれは全てギミックの仕業である。
ちなみにあの騒動は翌日のニュースでは大々的にとりあげられ「消灯事件」という俗称がついていた。停電でもなく都内の光源だけが消えた珍事は愉快犯によるものとして現在も捜査が継続中である。
「私、今の話を通報した方がいい?」
「頼むからやめて」
多方面に多大な迷惑を与えたことは知っている。だが、ギミックの言った通りで怪我人さえ皆無であり、その不自然なほどの人的被害のなさが逆に騒動に拍車をかけるほどである。動機だって少女に星空をみせるという可愛いものだ。できることならこのまま見逃してもらいたい。
「誰も信じてくれないだろうからしないけど、ほんとに本当?」
「少なくともギミックの奴はああなることを知っていたみたいだった」
僕自身が今ふりかえっても夢うつつを疑うのに、話を聞いただけの他人が信じられないのは無理もない話である。僕は安心したところでカフェオレを口に含んだ。
「まあでも、よかったね」
「よかった?」
そこでもとみが不思議な発言をする。僕は怪訝に思って聞き返した。
「楽しかったんでしょ?」
「どうして?」
「だって久我君ってばずっと楽しそうに笑って話すんだもん」
もとみの言葉に僕は初めて気づいた。どうやらギミックやありすの話をしていた間、ずっと笑顔で話していたらしい。今も自分の口角があがっていることに驚いた。
「心配してたんだけど大丈夫そうだね、気づいてた?」
そういってもとみは顔面を渋いものでも噛んでるように変化させた。
「久我君ってばここ数日こんな顔してたよ、学内で見つけても声かけるのためらっちゃった、そんなじゃあお客さんにも怒られるよ」
自覚はない。
だがそういえば昨日、出前に行った先で怒られた時も「なんだその顔は」と真っ先に言われたのだった。あれはそういうことだったかと納得した。
もとみは顔を元に戻すと今度は嬉しそうに笑顔を見せた。
「『人は心が愉快であれば』だよ」
「それって誰?」
「シェイクスピア」
全文を『人は心が愉快であれば終日歩んでも嫌になることはないが、心に憂いがあればわずか一里でも嫌になる。人生の行路もこれと同様で、人は常に明るく愉快な心をもって人生の行路を歩まねばならぬ』というらしい。
彼女はときおり、こうやって高名な人物の格言名言を引用することがある。その度に僕は感心してうなることになる。
「今度面白い話があったら私にも教えてよ、私も愉快にいきたいし」
「わかった約束する」
そうして話を切り上げたら、静かだ。いつの間にかに男女の諍いは終わり、こちらの方を窺っているようだった。今度はこちらの会話が盗み聞きされているようだ。僕は恥ずかしく思いながらもお互い様かと軽く会釈してみた。
向こう二人もバツが悪そうに笑い、返礼をしてくれた。
なんだか悪くない気分だった。
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