人は心が愉快であれば

人は心が愉快であれば①

 自らが何をすれば愉快なのかを知っている人間は幸多いことだろう。

 それは常々、考えていることだ。

 僕こと久我哲夫は人生を大いに楽しんでいるわけではないと自負している。自分は何をすれば楽しいのか笑えるのか、てんで当たりがつかない。

 一般的には食べること遊ぶこと愛すること、といったところだろうか。少数の意見を聞いてみれば寝ることや鍛えぬくこと悪事を働くことといった者もいるだろう。勿論、僕がそのどれをとっても理解できないというわけではない。

 ただ納得できぬのだ。ほんとうにそれが愉快なのかと。

 とはいってもそれは個々人の価値観というものがあるから僕が納得できなくても当人達にはまったく関係のないことだ。だから彼らを否定したいわけではない。

 ただただ羨ましいのだ。

 できることならその愉快な人生を少量でいいから分けてもらいたいものである。

 僕には何をすれば愉快な気持ちになるのか分からない。

 けれど愉快な気持ちになったことがないわけではない。

 それはすべて上京する前の話。

 とまあ、ここまでダラダラと講釈をたれてはいたが単にホームシックなってるだけかもしれない。こっちにきてもう一年以上たっているというのに情けないことである。

 仕方ないのできょうもこれから楽しい楽しい労働にでるために玄関を勢いよく開け放つ。ちなみに、もう完璧に遅刻だ。

 僕は今、すこし泣いている。


 ●


 失礼しますお客様、お客様はいったい何様でしょうか?

 というのは僕の心の声だ。

 現在僕の目の前には四十は過ぎているであろうおっさんの顔がある。あから顔で厳つく、ひょっとしなくても怒っている。そしていかに僕が無作法で常識が欠如しているかを力説してくれているが、僕としてはたまったものではないので必死に愉快な出来事でも考えようとして、『ああ、そういえば今朝の夢見も良かった気がする、覚えてないけど』とぼんやり思い浮かぶ。

 事の次第としてはアルバイトに遅刻して出勤したことから始まる。遅刻自体は急いだかいもあり数分ですみ、急なシフトの空きに対する臨時要員であったこともあり、店長や同僚たちからひんしゅくを買うことはなかった。ただ、建前上の罰としてこうしてやっかいな客の応対をしている。

 場所はアパートの一室の前。時間は深夜。今回の僕のアルバイトは出前だ。デリバリーともいう。目の前のおっさんは職場では有名な男であり、いわゆるブラックリストに載っている。といっても一店舗のアルバイト間で噂されるぐらいの人物であるが。

 大体にして僕はしっかりとこのおっさんに事前連絡を入れている。「あと十分ほどで到着できそうです」と、そうやって自動二輪車を走らせてきたわけである。そしてこのおっさんが何に怒っているのかというと「人が風呂に入っているときに訪ねてくるとは何事か」とご立腹なのである。

 疑問しかわきおこらない台詞である。

 目の前で怒る中年はタオルを腰巻にした半裸であり足元や手元にはたったいま風呂から上がってきたと言わんばかりに泡がこびりついている。そんな見たくもない姿がなおさら僕をげんなりとさせる。僕に非がある話ではないと思うのだが、こんな情けない諍いに仲裁なんて入るわけもない。ここは独力でのりきる場面であった。

 これもお仕事の内だと、無理やり納得させて頭を下げる。


「おっしゃる通りです、すいませんでした」


 僕はいま何に対して謝っているんだろう?

 そうやって頭を下げているうちに向こうの気が晴れたのか、やっとこさ、お会計という流れになり商品たる食事を彼に提供する。正直、その顔面に殴りつけたい衝動を抑えるのに苦労した。


「ありがとうございました、またのご利用お願いします」


 二度と呼ぶんじゃねえというのが本音であるが、マニュアル通りに頭を下げたら最後に悪態をついておっさんは勢いよく扉を閉める。

 頭にきた。

 頭にきたので鼻をほじくる。

 そして出てきた立派な鼻くそでドアの覗き穴を塞ぐ。

 少しすっきりする。

 僕はそそくさと階下に降りて自動二輪車に跨り走り出した。


「何をやってるんだが」


 僕は信号待ちの間、ふと上空を見上げて呟いた。

 やはり都会の空は狭く、そして薄暗かった。

 以前見た景色とは全然違っていた。

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