5話 デートをしましょう!(3)

 声が聞こえた。この二週間と少しで幾度となく耳にし、聞き慣れてしまった声だ。

 ゆっくりとそちらを向く。そこではオズワルドが血に塗れた剣を持って立っていた。その足元には、見ず知らずの人のむくろがいくつも重なり合って倒れ伏しており、死体からは赤黒い血が流れ続けている。

 ひゅっと息を吸う音がやけに大きく響いた。心臓が縮み上がり、全身の震えが止まらない。キーン、と耳鳴りがして、視界に黒が混じった。気持ち悪い。


 そのとき、オズワルドがこちらを見た。なにか問いかけてくるが、不思議なことにその声は聞き取れず、アルテシアは思わず首を傾げた。

 途端、彼の瞳からすっ、と感情が消える。凪いだ水面のような瞳は鏡のように景色を映すだけで、無機質だった。確かにこちらを見ているのに、見ていない。そんな気がして、胸中で不安が生まれ、急速に膨れ上がった。

 すると彼がくるりと踵を返し、こちらに背を向けた。なにか声をかけなければ。そう思い、必死に喉を震わせたが、喘ぐようにはくはくと口が動くだけで、結局声は出なかった。


(待って)


 大きな背中が遠ざかっていく。血を跳ねさせ、死体を蹴り飛ばしながら、オズワルドは一人きりで奥へと向かっていった。その背がどんどんと小さくなっていく。必死に呼び止めようとするが、彼は歩みを止めることなく、寂しげに進んでいった。


(待ちなさいよ!)


 アルテシアは一歩、足を前に踏み出した。ばちゃり、と音を立てて血が跳ねる。幸いにもオズワルドが歩んだ跡に死体はなかったため、不快感に顔を顰めながらも駆け出した。血を吸うたびに重くなっていくドレスに負けないよう必死に足を動かし、十秒後には彼に追いついた。そのままの勢いで彼の腕を掴み――。




 ゆっくりと瞼を押し上げれば、そこは見たことのない部屋だった。真っ白な天井が見えることから、いつもいる客室ではないことは明らかだ。あれ? と思いながら、そっと身を起こす。

 あたりを見回せば、そこは衝立ついたてによって隔離された場所だった。それほど広くはなく、つい先ほどまで、レーヴェン王国にいたときに使っていたような硬いベッドの上で眠っていたようだ。ベッドにあるシーツや枕に刺繍などは一切施されておらず、陽光につるりと輝いている。触った感触からも、客室よりはかなりランクの下がったものだと分かった。いつの間にか衣服も着替えさせられており、見慣れない緑とも青ともつかない色の服を纏っている。


(いったい何が……)


 そう思ったところで、ふと意識を失う前のことを思い出した。オズワルドとともに庭園を歩いて話していると、衛兵が襲いかかってきたのだ。きらりと煌めく刃に、舞い散る鮮血、そして鈍く輝く血に塗れた剣。それらが脳裡に浮かび上がり、アルテシアは口元を押さえた。初めて目にした残虐な光景はくっきりと頭に刻み込まれ、忘れられそうにはなかった。

 うう、と唸っていると、「アルテシア様?」とユイリアの声がした。衝立の向こう側からだ。返事をしようとして、だけど気持ち悪さにできないでいれば、衝立の隙間から心配げな表情をしたユイリアの顔がひょこりと現れた。「アルテシア様!」とわずかに悲鳴じみた声が耳朶を打つ。


「少々お待ちください」


 そう言い残し、ユイリアは珍しくバタバタと慌ただしい足音を立てて消えた。しかしどうやら部屋の中にはいるそうで、水の音とともに騒々しい気配が伝わってくる。

 しばらく待っていると、衝立を退けて戻ってきた。その手には水の入ったコップがあり、そっと差し出される。それをありがたく思いながら、アルテシアは優雅ではないと自覚しつつも、一気に飲み干した。

 ふぅ、と息をつく。リフレッシュできたからか、気持ち悪さはなんとか治まった。これで大丈夫。そう判断し、アルテシアはユイリアを見て口を開いた。


「私が倒れたあと、どうなったの?」

「……私にもよく分かりません。シュミル国王陛下がアルテシア様を医務室へ連れていくよう衛兵に頼んで、私もそれについて行け、と命じられたので」

「そう……」


 ということは、ここは医務室なのだろう。今まで来たことはなかったが、確かに清潔感のある部屋だ。医務室と言われればすぐに納得できる。

 ふーん、と頷くと、「アルテシア様」と呼びかけられた。見れば、ユイリアは真剣な顔つきでこちらを見てきている。ゆっくりと唇が動いた。


「この国にいれば、おそらく、あのような場面をまた見ることになります。まだ、国がきちんと運営されているとは言い難いので……。それでも、この国にいたいですか?」


 瞳に心配の色が滲んでいた。黒い瞳がかすかに揺らいでいる。

 こんな場であるにも関わらず、アルテシアは思わず口元をほころばせた。ユイリアは今後も人が死ぬところを見ることになるのを案じているのだ。それが嫌ならば、この国を離れてレーヴェン王国に戻ってもいい、とも言っている。その優しさがありがたくて、嬉しかった。

 だけど。アルテシアは声帯を震わせた。もう心は決まっていた。


「大丈夫よ、ユイリア。私、この国にいるわ。だって――」


 ――オズワルドの隣にいたいから。

 そう思ったが、さすがにそこまで言うのは恥ずかしくて、言葉を濁した。しかし、ユイリアにはお見通しだったらしく、彼女はにやっと口端をつり上げる。


「そうですか、分かりました。では、そのようにいたしましょう。楽しみにしています」

「ちょっ! 楽しみにしているって、何を!?」

「それは決まっているじゃないですか。もちろんあれですよ、あれ」


 そう言ってユイリアはにやにやと笑い続ける。ちょっと気持ち悪い。

 自然とわずかに身を引いてしまえば、ユイリアの顔から表情がすっ、と抜け落ちた。いつの無表情になり、思わずほっと息をつく。幼いころからあまり表情が変わらなかったからか、こっちの方が安心するし、落ちつくのだ。慣れとは恐ろしいものである。

 そんなことを思っていると、ふと疑問が浮かび上がってきた。「ねぇ、」と呼びかけ、尋ねる。


「そういえば、倒れてからどのくらい経ったの?」


 体感的には意識を失ってからそれほど経っていないと思うが、あてにならないだろう。窓から陽光が射し込んでいるから、二人で庭園に向かったのが昼の少し前だということも考えると、もしかしたら一日とか経っているかもしれない。はたまた二日以上か。

 そう思っていると、ユイリアが「約一日です」と言った。


「今はアルテシア様がお倒れになった翌日の午前中です」

「えっ!? 今日はさすがにデートをしないわよね? だったらそろそろ今日の分のクッキーの下準備を……」

「しなくていいです。今日くらいはじっくりと休んでください。……心配したんですから」


 最後の言葉は痛々しい響きを持って鼓膜を揺らした。ユイリアが駆けつけたときには、アルテシアは意識を失っていたのだ。今までそんな経験など一度もなかったから、ひどく心配したに違いない。医者にただ気を失っているだけだと言われても、目覚めるまでずっと不安に思っていたことだろう。

 そっと目を伏せ、「……そうね」と頷いた。心配をかけてしまったのだ。言う通りに休んで、安心させたほうが良いだろう。むしろそうすべきだ。


 そう思い、ベッドに身を横たえようとしたところで、扉を叩く音が聞こえた。ん? と思いながら、ユイリアに目配せをする。彼女はひとつ頷くと衝立の外に出て位置を直し、外の様子が見えないようにした。そして「どちら様でしょう?」と尋ねる。

 すると、「レオン・マルガータです」と声が届いた。その声色からも、オズワルドの侍従である彼には間違いないだろう。ユイリアもそう判断したのか、扉を開ける音が響いた。


「お待たせいたしました、レオン様。どのようなご用件でしょう?」

「今日は陛下のお言葉をお伝えに」


 謝罪だろうか? と首を傾げた。だけどそれならばオズワルドが直接言いに来るか、せめてレオンがアルテシアに直接伝えるだろう。しかし彼がこちらに入ってくる様子はない。入られても今はドレス姿ではないので、待たせることになるのだが。

 ユイリアもそう思ったのだろう。「アルテシア様に、ですか?」と困惑したような声で訊いた。けれどそうではなかったようで、「違います」とレオンが言う。


「お二人に、です」


 この場合の二人とは、おそらくアルテシアとユイリアだろう。そう理解した途端、ざわりと心が波立った。嫌な予感が膨れ上がり、不安に身を包まれる。

 声が届いた。


「お二人にはレーヴェン王国へ帰国していただきたいのです」


 目の前が真っ暗になった。どういうこと!? と怒鳴りながらレオンに掴みかかりたくなるのを手をぎゅっと握りしめることによってこらえるが、納得がいかない。不安の代わりに、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。

「正式な書類はこちらに」とレオンは言い、それからいくつかユイリアと言葉を交わして部屋を去った。その瞬間、アルテシアはベッドからおりると衝立を退けて、書類をひったくる。そこにはレーヴェン王国に帰るための費用等はすべてシュミル王国が持つ、などいくつかの連絡事項が書かれていた。今一番に求める、どうしてこうなったのか、という理由は一切合切書かれていない。

 怒りが大噴火を起こし、思わず書類をぐしゃぐしゃに丸めた。「アルテシア様……」とユイリアが言うが、それ以上何かを続ける前に言い放った。


「ユイリア、用意しなさい。あの男の執務室に乗り込むわ」


「……かしこまりました」とユイリアは頷き、ドレスなどを取りに部屋を出て行った。

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