5話 デートをしましょう!(2)
澄み渡った青い空にさわさわと揺れる草木、そして鼻腔をくすぐる甘い花の香り。あまり人が通らない場所にあるためか周囲は比較的静かで、しかも庭園はこの国の実情に似合わずかなりの大きさを持っているから、まるで森の中に迷いこんでしまったようだ。まさにデートには理想的な環境と言える。
けれど、庭園のベンチに並んで腰かけるアルテシアとオズワルドの周囲には重たい沈黙が落ちていた。ちらりと頭一個分上にある顔を見上げれば、彼の左頬にはくっきりと赤い手形が残っている。
はぁ、と、アルテシアは小さくため息をついた。ただでさえちょっとだけ気まずい雰囲気だったのに、寝起きにスパーンと平手打ちをくらわせてしまったことによってさらに気まずくなった。謝りはしたが、罪悪感は消えることなく胸に居座っており、ひどく居心地が悪い。
胸がズキズキと痛くて、アルテシアは自然と何度目かの謝罪を口にしていた。
「…………ごめんなさい」
「ん? ……ああ、別に大丈夫だ。これくらいすぐに治る」
そう、オズワルドはなんでもないように言ったが、どこか上の空のような感じがして、胸がざわざわとする。もしかしたら、アルテシアの処分でも考えているのかもしれない。これを理由に追い出されることもありえる。こんなことをやらかしたと広めれば、シュミル王国は一切評判を落とすことなく、アルテシアを追い出すことができるのだから。
再度、重いため息が口から自然と漏れた。胸が苦しくて、正直追い出されたあとのことを考える余裕などなかった。
(どうにかしないと……)
だけど、どうやって? そもそもどうしてこれほどまでにこの国にしがみつかなければならないのだろう? 援助なら他国に頼めば良いはずだ。そんなことをアルテシアは考える。追い出されることが決まったのならば、すぐにでもこの国を出た方がいいのではないだろうか? その方が彼に迷惑をかけずに済むし……。
けれど、そうしたくなかった。この国を出たくない。どうしてだかは分からないけれど、その思いは心の大部分を占めていた。
……もう、どうすればいいのだろう?
そんなことを考えながらアルテシアが思考を放棄しかけていると、オズワルドが声を発した。
「……少し、話を聞いてくれるか?」
彼の方を見上げれば、真剣な瞳がこちらを見下ろしていた。その瞳に射抜かれて、思わずどきりと胸が高鳴る。なぜだか、ここから逃げ出したくなった。彼の視線から
だけどそんなことは許されなくて。アルテシアは小さく息を吸って吐くと、「なにかしら?」と平静を装って尋ねる。
オズワルドはしばらくこちらをじっと見つめ、やがてゆっくりと口を動かした。
「……俺は、先王を殺して王位についた」
――知ってる。そう言いかけたが、アルテシアはゆっくりと口を閉じ、黙って話の続きを促した。突然口にされた話。それにはきっと何らかの意図があるだろうし、「知ってる」と言ってそんな彼の思いを遮りたくはなかったのだ。
……沈黙があたりに満ちる。その間ずっと、彼はアルテシアを見つめ続けていた。夜闇のように黒々とした瞳は凪いだ水面のように真摯な光をたたえ、ひっそりとある。吸い込まれそうだ、と、頭の片隅で思った。それくらい深い色合いをした瞳だった。
やがて、オズワルドが口を開いた。
「それを悪いことだとは思わない。そうする以外に、あのときは道がなかったのだから。だが…………」
それっきり、彼は言葉を呑み込んだ。静寂が二人の間に横たわる。アルテシアは視線を彼から逸らし、景色を眺めた。美しい庭園。お金をかけて入手したのだろうと思われる多くの珍しい草花。
だけど現在のシュミル王国に、大金をかけてこんな生産性のない庭園を作る余裕などない。となると、おそらく先王か、それ以前の時代に作られたものだろう。確か先王は庭園などの芸術品が好きだと噂で聞いたこともあったから、ほぼ間違いない。
そのとき、ふと、今まで意識していなかった疑問が湧き上がる。
(……どうして、この庭を散策するのかしら)
クーデターを起こして王位に就いた彼にとって、先王の気配が色濃く残ったこの庭園は、むしろ憎むべきものなはずなのに。どうしてこの庭に訪れるのだろう?
アルテシアはそれを尋ねようと口を開きかけて、……押し黙った。なんとなく、聞いたらいけないような気がして。触れたらばちりと静電気が起こりそうな気がして。それに……なぜだか、オズワルドがどんな反応をするのか考えると、怖かった。
「――……俺がここに来る理由でも知りたいのか?」
声が降ってきて、ハッ、とアルテシアは顔を上げた。オズワルドはあいも変わらない真剣な瞳でこちらを見つめている。ここで下手にごまかすのも良くないと思い、「……ええ」と素直に、だけどためらいがちに頷いた。
するとオズワルドは苦笑して、視線を庭園に向けると、ゆっくりと話し始めた。
「別に……ただ、思い出しているだけだ。あのバカな父親は、全く政治をするのに向いていない性格で、芸術にばかり関心があった。だからこの国は荒廃して、民は苦しんだ。今もなお、多くの民はその日暮らすのもやっとで、明日やって来るかもしれない死に怯えている」
しんしんと、降り積もる雪のような声だった。一見純白で、静寂に満ちている光景だけれど、雪を退かせば茶色い地面が――激情が隠されているかのような。
そのことに、どうしてだか目の奥が熱くなった。理由はまったく検討もつかないけれど……。
戸惑っていると、オズワルドが言葉を続けた。
「……知ってるか? 地方では赤子が生まれたら母親がその場ですぐに殺してしまうらしい。俺は、そんな社会を変えたい。だから……その決意を確認するために、この庭園をそのまま残している」
それを聞いて、アルテシアは
(すごいわ)
そう、素直に思う。アルテシアは何もしてこなかった。レーヴェン王国にいた頃も、ただ民を憐れむだけで、国のためになることなどしてこなかった。誰かが国を救ってくれるのを待っているだけだった。
だからこそ、彼がひどく眩しい。こんなにも一途に国のことを思って行動している様がとても美しくて、かっこよくて、憧れや尊敬の念が湧き上がる。
ドレスの裾をぎゅっと握りしめた。憧れや尊敬だけじゃない。それ以外のものも湧き上がってきて、いろいろな感情が胸の中で渦巻き、混沌としていて、どうしてだか苦しくなる。相反する思いがぶつかり合って、自分が何をしたいのか、どうしたいのかすら分からない。
ただ、それでも分かることはあった。
――彼が好きだ。そんな思いが自然と溢れてきて、心の中で膨らみ、主張する。まるで今まで抑えてきたものが、見てくれと言わんばかりに眩く輝くように。
「どうかしたのか?」
じっと考えごとをしていたからだろうか。オズワルドが心配する色を瞳に滲ませながらこちらを覗き込んできた。体格の良い彼に比べて、アルテシアは彼の鎖骨くらいまでしか身長がないし、座高もかなり低い。そのため、まっすぐ水平に視線を合わせるのならば、彼が少し体を曲げるしかなかったのだ。
そっと、節くれだった指がこちらに伸びてくる。なんだろう? と思い、その動きを待っていると――。
「うわぁぁあああ!」
その場に似つかわしくない、悲鳴じみた叫び声が鼓膜を揺らした。慌てて声のした方――オズワルドを挟んだ反対側を見れば、血走った瞳を持つ一人の男がいた。衛兵の服を着た彼のの手には、きらりと陽光を受けて輝く〝なにか〟がある。
ひっ、と思わず息を呑んだ。恐怖のあまり動けずにいると、大きな背中が視界を覆い尽くす。オズワルドだ。彼がアルテシアを庇うように立っている。
「衛兵!」と彼が叫んだ。その途端、何があろうとも揺らぐことがない、と思っていた背中がわずかに後退した。一歩、二歩。すると今度は金属の擦れる音がして、鮮血が宙を舞った。オズワルドの持つ剣が赤く染まっている。
見えたのはそれだけで、ほとんどが目の前にある背中に隠されて見えなかった。だけど、何が起こったのかは容易に分かる。何かがせり上がってくる感覚がして、思わず口元を押さえた。
「陛下!」
「アルテシア様!」
レオンとユイリアの声が耳に届いた。のろのろとそちらを見れば、二人が蒼白な表情を浮かべてこちらに駆け寄ってきている。背後には衛兵や侍女が付き従っていた。
――同時に、緑の芝生に広がる赤い血も目に入る。
誰のものか分からない甲高い悲鳴があたりに響き渡った。
それを最後に、アルテシアの視界は闇に塗りつぶされた。
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