プロローグ 落としてやるんだから!(2)

「――何事だ」


 その声が響いてきた瞬間、ぞくりとアルテシアの肌が粟立った。なぜだかは分からない。だけど背筋もゾッとして、鼓動が一際強く脈打った。血流が早くなり、ぐるぐると全身を勢いよく巡る。

 そんな原因不明の現象に戸惑っている間にも、馬車の外から声が聞こえてくる。


「へ、へいか……ええっと、その…………なんでもありません」


 その言葉に、アルテシアはユイリアと顔を見合わせ、ともに目を見開いた。つまり、新しい国王が騒ぎを聞きつけてやって来たのだろうか? 国王本人が?

 普通、騒ぎを聞きつけたとして、国王本人がその場に現れることはない。権力を手にする代わりに多くの人々から命を狙われることになるからだ。厳重に守られた王宮の外にでるということは、自らの身を危険にさらすということ。王妃も子供もいない場合はまだ可能性が低いだろうが、それでも完全に暗殺の可能性がないわけではない。


 ――随分と型破りな王様なのだろう。そう思いながら、アルテシアはよりいっそう耳を澄ませた。

 そのときちょうど、シュミル国王が声を発した。


「何でもないわけがなかろう? 素直に話せ。咎めはしない」

「は、はい! じ、実はレーヴェン王国の王女が、先王陛下が勝手に結ばれた条約のためやって来まして、城の中に入れろと――」

「……なるほどな」


 衛兵の話を遮るように国王は冷たい声を発し、アルテシアはごくりと唾を飲みこんだ。……嫌な予感しかしない。

 そしてどうやらその予感は大当たりだったようで。

 次の瞬間、シュミル国王はたった一言を冷淡に、一切の感情を排した声で放った。


「帰れ」


 ざわりと空気が揺れた。アルテシアは思わず立ち上がり、勢いよく馬車の扉を開け、叫んだ。


「帰れるわけないでしょう!?」


 視線が一気に集まるのを感じながら馬車から降りる。やらかした、と思いながらも、それを感づかれないようなるべく優雅に見られるようにして、シュミル国王だと思われる人物の前へ向かった。

 シュミル国王は青みがかった黒髪を持つ、アルテシアよりも数歳年上だと思われる人物だった。その若さに、おや? と思わず眉を上げる。以前の王太子は確か四十前後だった気がするのに、現国王がこんな若さだということは……。


 アルテシアは小さく首を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。国王の前に立つとキッと彼を睨みつけ、だけど丁寧に一礼をした。


「お初目にかかります。レーヴェン王国第四王女、アルテシア・レーヴェンと申します。先王陛下がご崩御なされていたことを知らず、このように押しかけてしまい、申し訳ございませんでした」

「……シュミル王国第二十八代国王、オズワルド・シュミルだ。面を上げよ」

「はい」


 ゆっくりと顔を上げると、アルテシアは真っ向からシュミル国王――オズワルドを睨んだ。軍人上がりなのか体つきがしっかりとしており、威厳に満ちている。しかしいかにも戦場を駆けることが似合うような人物で、もしかしたら脳筋なのかもしれない、と思った。脳筋ならば、まぁ、こんな非常識なことをしても自覚がないのは仕方がないだろう。いや、王になったのならばしっかりしてくれとは思うが。

 そうこう考えていると、オズワルドが口を開いた。


「それで、帰るわけにはいかない、とは?」


 そんなことも分からないなんて。ふんっ、と鼻を鳴らしながら、アルテシアは告げる。


「我が国と貴国で条約が結ばれたのは間違いありません。先王陛下がご崩御なされたのは悲しいことですが、条約は果たしてもらわなければ。どうぞ、私と結ばれてくださいませ」


 微笑みつつも、威圧感たっぷりになるように意識して、アルテシアは微笑んだ。頷いてくれなければ、こちらも相手も困ることになる。レーヴェン王国は援助が受けられなくて民が飢え死ぬし、シュミル王国は自らの看板に泥を塗ることになり、今後周りの国と条約を結べなくなる可能性が高いため、頷いてほしい。さすがに条約を結べなくなることがどれほどの被害なのか、分かってくれるといいのだけれど……。

 アルテシアが心の中でこっそり懇願していると、オズワルドは表情を一切変えることなく告げた。


「断る」


 期待通りではない返答に、アルテシアは思わず固まった。その間にもオズワルドは侮蔑の視線を向けてきて鼻を鳴らすと、そのまま城の門の中に戻ろうとして……。


「待ちなさいよ!」


 アルテシアは反射的にオズワルドの手を掴んだ。その途端、逆に手首を握られて強く引かれたかと思うと、次の瞬間には首筋に冷たいものが当たっていた。視界に映る一部分だけですぐに分かる。これは……剣だ。

「アルテシア様!」というユイリアの悲鳴じみた叫び声が鼓膜を揺らす。大丈夫だと伝えるように空いていた方の手をひらひらと振りながら、アルテシアはじっとオズワルドを見つめた。彼は敵意をあらわにした瞳でこちらを見つめている。

 ともすればガクガクと震えそうになる足を叱咤して、ゴクリと唾を飲みこむと、慎重に声帯を震わせた。


「あなたが私と結婚して支援してくれなきゃ、国民が苦しむのよ! 既に布令は出してある。そんな中、支援が来ないと国民が知ったら……」


 オズワルドは馬鹿にしたようにふんっ、と鼻を鳴らした。


「王家の威信に関わる、か?」

「違うわよ。国民がより絶望する。そしたらきっと、国民は次の冬を超えられないわ」


 そう言って、アルテシアはオズワルドを見つめる。彼の瞳からはいつの間にか敵意が消えていたけれど、剣呑な面差しであることには変わらず、僅かに身を震わせた。

 そんな彼女を見て、オズワルドは冷淡に言い放つ。


「だが、ここに来るまでに見ただろう? あのは勝手に議会も通さず貴国へ援助するという条約を結んだが、うちにだってそんな余裕はない。先の冬で大量のが死者が出た。こっちの冬はそちらよりも厳しいからな」


 その言葉に、アルテシアの目の前が真っ赤になった。「は?」と思わず漏らしそうになる声を飲み込み、笑顔を取り繕うとしたがそれは無理だった。胸でぐつぐつと煮えたぎるような怒りを、偽ることなくそのまま吐き出す。


「ふざけないで! じゃあうちの国民がどうなろうが関係ないってこと!?」

「ああ、そうだ。現におまえもそう思っているだろう? 自国の国民が生きられれば、こちらの国民がどれだけ死のうとも関係ないとでも言いたげな口調だったが?」


 その言葉に、場がシン、と静まり返る。アルテシアは思わず視線をさまよわせた。確かに、シュミル王国かレーヴェン王国、どちらかの国民しか助けられないのなら、迷わずレーヴェン王国を選ぶ。しかし、それを素直に認めるような勇気は持っていなかった。

 きゅ、と唇を噛みしめ、うつむく。ここでアルテシアが引き下がるとレーヴェン王国の国民が飢え、逆に食い下がればシュミル王国の国民が飢える。


(いったい、どうすればいいのよ……)


 どちらにしろ、多くの人が死ぬ。それだけは間違いなかった。

 じっとしていると、「じゃあ帰るんだな」とオズワルドが言い、アルテシアを突き放した。二、三歩よろめいて後退し、だけどどうすればいいのか分からなくて立ちつくす。ユイリアが慌てて駆け寄ってきて、掴まれてうっすらとあざになった手首をさすった。その優しさに、胸が温かくなる。

 その間にもオズワルドは今度こそ王宮の中に戻ろうとして……。


「……だったら」


 小さく、アルテシアが声を漏らした。顔を上げ、遠ざかるオズワルドの背中を睨みつけて、叫ぶ。


「だったらあなたが私に乱暴して、やることだけやったら突き返したって噂を全世界にバラまいてやるわよ、このバーカ!! それが嫌なら、私が望む間、私たちをここに滞在させなさいっ!」



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「アルテシア様も思い切ったことをなさいましたね」

「別にいいでしょ? とりあえず何とかなったんだし」


 シュミル王国の王宮の客室にアルテシアとユイリアはいた。ユイリアはいそいそと荷解きをしており、アルテシアはそんな彼女を見ながら今後のことに思いを馳せる。


 オズワルドはあまりにも突飛なアルテシアの言葉に思わず頷いてしまったようで、アルテシアたち一行は客人としてシュミル王国に滞在することが許された。ただし食事等に関しては余裕がないため、使用人たちとほとんど同じものだと言われたが、それよりも滞在することが重要だったため少しだけ目を瞑った。


(それにたぶん大丈夫だし……)


 食事くらい、なんとでもなる。それよりも、これからどうするかだ。ふぅ、と息をつくと、アルテシアは唇を動かす。


「ユイリア」

「はい、何でしょう?」


 荷解きの手を止めてユイリアがこちらを向き、顔をわずかに引き締めた。いつもの表情よりもさらに冷静なその表情を見ながら、アルテシアは計画を遂行するために口を開いた。


「これから国王陛下――ああ、ややこしいわね。レーヴェン王国の陛下宛の手紙を書くから、それを信頼できる護衛の騎士に渡して王国に届けさせて。あと、あなたはシュミル国王陛下のことについて聞きこみをしてほしいの。特に彼の好物や嫌いな物、それに出自ね」

「かしこまりました」


 ユイリアは頷き、だけど表情を変えることなく首を傾けた。


「ですが、なぜ好物を? アルテシア様は何をなさるおつもりなので?」

「それはもちろん、決まってるじゃない」


 にっ、とアルテシアは口角をつり上げ、手を握りしめた。笑っているはずなのにその手は血管を浮き上がらせながら震えていて、目の奥では怒りの炎が揺れている。

 感情をそのまま吐き捨てるようにして言った。


「私は私の国民が大事よ。だから、絶対にあの男をメッロメロにさせて、向こうから結婚を懇願させてやるわ!」


 そう言いながらアルテシアは立ち上がり、天井を指さして叫んだ。


「今に見てなさい! 絶対に見返してやるんだから!」




「――と、アルテシア姫は言っておりましたが」

「そうか」


 侍従の報告に適当な相槌を打ちながら、オズワルドは書類にペンを走らせた。これは後で審議をして、これは価値なし、これは……。そんなふうに書類の山を少しずつ崩していると、幼馴染み兼侍従のレオンがはぁ、とため息をつきながら口を開く。


「聞いているのですか?」

「ああ、もちろんだ」


 そう言いながら、オズワルドは机の上に置いてあったベリーのクッキーを食む。丸い形をしており、中央にキラキラと輝くベリージャムがとろりと流しこまれていた。その相変わらずの美味しさに、オズワルドは思わず口元を緩め、だけど筆を止めたり味わったりすることなく執務を進める。今日は予想外の事態のせいで仕事が溜まってしまっていた。早く終わらせなければ。

 そんな彼を見て、レオンはまた盛大なため息をついた。


「それで、どうするのですか?」

「何をだ?」

「アルテシア姫のことですよ」


 彼の言葉に、オズワルドは「ああ」と声を出す。しばらく考えて、すぐに結論を出した。


「ほっとけ。どうせすぐにをあげて帰る」

「いや、帰られても困るんですけど……」


 レオンが再びため息をついた。まぁ、それは分かる。そう思いながら、オズワルドは紅茶を啜った。ミルクをたっぷり入れた紅茶の甘さは、ベリーの酸味のあとだと余計に際立つ。満足げに頷きながら、だけど甘すぎるかもしれない、と頭のうちに書き留めた。明日はもう少し甘さ控えめのを頼むか……いや、ミルクを減らせば……。

 そんなことを考えていると、またレオンがため息をついた。


「あの噂が広まってしまえば、あなた様の元へやってくる縁談は激減しますよ。そこにさらにアルテシア姫を国に帰しでもしたら、きっと縁談は来なくなってしまいます」

「まぁ、それでもいいな」

「お気持ちは察しますが、それではいけないのです。そもそもあなた様は――」


 と、レオンがこんこんと説教を始めた。はぁ、と、今度はオズワルドがため息をつき、そして口うるさい彼にバレないようこっこりと書類を整理する。そこに自分宛の縁談を見つけて、さらにため息をついた。


「どうせ女なんて皆同じだろ」


 ぽつりと呟く。どうせ女なんて皆、オズワルドがしたことを知ると怯えるし、贅沢三昧できない悟ると逃げ出すものだ。そんなやつら、気にかけたところでただの時間の無駄だ。あの王女も、どうせ国民のためだなんて嘘っぱちで、ただ贅沢することを望んでいるに違いない。

 そう思いながら、オズワルドはレオンの説教を右から左へと流して、書類にこっそりサインをした。

 ――なぜか、あの王女の真剣な瞳が脳裏によぎった。

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