第3話 百合先生の場合

 ざーざーと、桜が騒いでいる。

 今日も授業をしながら、私は窓を見る。一階にあるこのクラスは、桜の樹が窓のすぐ傍に植えてあり、たまにそこから花びらが入ってくる。花びらが飛ばされる前に鳴る桜の音が、私は好きだ。

 

―今日はあの人に会えるだろうか。


 そんなことを思いながら、私は教師として授業をする。私はこの時間だけ、教師と女の二役者になれる。

 私は板書が苦手だ。単純に字が汚いからだ。そのせいでこの高校に来る前まで、授業に大変苦しめられたものだった。

 「字が汚くてわかりません。」「せんせー読めねーよ。ちゃんと書いてよ、大人のくせに」

 度々入る苦情は、どこからか教頭にも伝わり、直々に呼び出される始末。直さなければと買った子ども向けのドリルを毎日書き続けたが、日本史という内容の多さと、「基本に忠実に書く」という動作はどうしても相性が悪かった。

 この高校に赴任することが決まり、顔合わせという名目で早めに高校入りするまで、私はもう教師を辞めようと思っていた。書くことが恐怖となり、軽くノイローゼになっていたからだ。

 赴任先の高校へ集合時間よりだいぶ早く着いた私は、時間が来るまで学校の周辺を歩いた。何かあてがあったわけではない。私は疲れていた。 

「どうか、されましたか?」

 校庭と学校の境の桜並木に通りがかったとき、声をかけられた。あの人は作業着を着ていたので、春休みの間に何か改修するために来られた業者さんなのかと思った。私は4月からここに来る教師だと伝える。あの人は私の顔を黙って見つめたあと、自分の座っている桜の周りを囲んでいるレンガから少し横にずれて座りなおした。

「少し、疲れているようですね。よければ、こちらに座りませんか?」

 私の返事を聞き流したのかは不明だが、その耳にするりと入ってくる心地のよい声に、私は大人しく座った。まだピンクの花をほとんど咲かせていない桜が、風に揺れてざーざーと鳴る。

私が隣に座ったあと、あの人は、何も言わなかった。ただ、心地よさそうな春の風に身を任せているだけだった。その心地よさそうなあの人に、私もほんの少し身を任せたくなったのかもしれない。

気づけば私は、今の私の悩みや思いを吐き出していた。あの人は、それをBGM代わりにでもしているかのように、頷きもせず相槌も打たず、変わらずそこにいた。そして一言、言ったのだ。


「なら、板書を使わなければいいじゃないですか」


 ざーざーと、桜が鳴った。

 そのあとの私は、あの人が何者なのかをやっと聞くことができた。



今日の日本史では、明治開拓される前とされた後の話を喋った。あのときから私は、自分のスタイルを脱ぎ捨てて、口頭1本で授業をするようになった。とても、楽だった。

私は文学史に差し掛かったところで、一人の女生徒を指名し、ある質問をした。彼女は聞いていなかったのか、慌てて返事をする。もう一度同じ質問をすると、女生徒は周囲を見渡し、一人の男子生徒を見つめた。彼女の表情が、変わった。

――さくら。

「え?」

――さくら、です。

彼女は私を見つめた。私は彼を横目で見た。1枚の桜の花びらが、風に流されて辿り着いていた。

ふ、と表情が緩んだ。目の前の彼に声を発さず名前を呼びながら、指先でちょいちょいと桜を示す。彼もそれに気づいたようで、指先でそれを持ち上げると鼻先にあてていた。

私は桜が関わる歴史に話をスライドさせる。表情豊かに、身振りは大きく、自分をぶつけて喋る。喋りながら、私は先程彼女にした質問を、自分にも問いかけてみた。


――あなたの恋心を、想いを、愛情を、物に例えて伝えるならば、何で表しますか?


ざーざーと、桜が鳴る。

恋を物事に例えるなら、私は桜の音だ。


―うん。そうだ、私は。


私は、用務員のあの人に、恋をしているのだ。

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さくら 岬 ソラ @sora_kara

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