第2話 宮園くんの場合
桜の匂いがする。
彼は自分のすぐ左の開かれた窓に視線のみを移す。透き通るような青空に舞う桜に目を細め、柔らかな風に乗って運ばれたその香りを吸い込む。春だな、と思う。
―先生。・・・
彼は視線を目の前の教師に戻すと、教師の名を胸の中で呼ぶ。
日本史担当のこの教師は、板書をせず自分の話一本で授業を行う教師として有名である。そして彼の友人の間ではその有名とは別に、もう1つの意味でも有名である。
ザ「巨乳」。
少なくとも彼の周囲の男子高校生は総じてお年頃なのだった。
教師は彼が1年生の頃から日本史の担当として授業を行っている。今日の授業のテーマは「文明開化」のようだ。「なんということでしょう」というどこぞのテレビ番組のように文明開化前と後を面白おかしく黒板の前を行ったり来たりしながら大げさな身振り手振りつきで解説してくれる教師の話は楽しくて、彼の口元は自然と緩む。
彼は気付いてはいない。教師の話に惹きつけられているのではなく、その教師がころころと変える表情にこそ惹きつけられていることに。彼は特別勉強ができるわけでもできないわけでもない。他の授業中に鏡で一生懸命前髪のチェックに奔走することもあれば、一番前の席なのに教科書ガードで早弁をし教師に教科書で頭を張り飛ばされることもある。(自分が悪いのはわかってての所業なので教育的指導だと思っている。)
ただし、日本史だけは特別だ。気づいていない彼のために正確に解説すると、日本史の授業を行っている教師が彼にとっての特別だ。あまりにも特別なので、しばしばノートを取ることを忘れ、こんなにも熱心に授業に参加しているのに試験の結果がズタボロになることもある。
桜の匂いがする。教師を見つめながらその香りを嗅ぐと、まるで教師から桜の匂いがしているようだ。
その桜の匂いをまとったまま、教師は彼の傍まで来た。腕を目一杯伸ばせば届きそうな距離で立ち止まり、一人の女子を指名し質問をする。彼女は聞こえなかったのか返事がなく、教師はもう一度彼女の名を呼んだ。
彼も教師の視線を追って彼女の方へ振り向く。周囲の視線が集まってしまった彼女は居心地悪そうで、耳元まで真っ赤になる。それでも気丈に一呼吸置いて返事をしたあと、教師にもう一度言ってほしいとお願いする。彼は今から教師がもう一度言うであろう質問を、唇のみで繰り返す。
―あなたの恋心を、想いを、愛情を、物に例えて伝えるならば、何で表しますか?
彼は考える。彼女に向けられた質問を、自分に向けられた質問のように考える。
―恋。桜の匂い。百合先生。……桜。
結論が出たとき、彼女と視線が合った。
彼女は彼とまったく同じ答えを口にした。声に出してしまったのかと一瞬体が強張ったが、教師は彼女を見つめたままだった。彼からすれば天女に見える微笑で教師は一度頷くと、唇のみでさっと「宮園君」と動かした。口元をよく見ている彼にしかわからない動作だった。彼は一瞬で再度緊張する。
返事をする前に教師はそのまま視線を合わさず桜に関する話を始めてしまう。彼が戸惑いを抱いたまま、やはり見間違いだったのかと視線を落とすと、教師が不自然に彼の机へ指先を向けていることに気づいた。
そこには桜の花びらがあった。
彼はそれを指先でつまむと鼻先に持っていき、香りを嗅ぐ。
そしてそれを教師に向けてそっと吹きかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます