さくら
岬 ソラ
第1話 野口さんの場合
桜の花びらが教室の窓から風に乗って運ばれて、男子生徒の机の隅に落ちる。彼はそれには気づかず、授業を行っている教師を見つめ、話を聞いて相槌を打つ。
―宮園君、花びら落ちてるよ。
そう声をかけるには、彼女の席は少し遠い。というのは建前で、きっと後の席だとしても声をかけるのはできないように思われる。
くるりと右手に握ったシャーペンを回すと、彼女も彼にならって教師に視線を移す。板書を必要最低限しかしないことで有名な日本史の教師は、今日もほぼ口頭でのみ生徒に語りかける。漢字の難しい登場人物だけ、生徒にわかりやすく文字で示すくらいだ。
教師は板書嫌いと噂されているが、それと同時にとても話し上手な教師としても有名である。彼女もその話をクラスメイトから友人から部活の先輩後輩、はてには用務員のおじさんからも聞いたことがある。なぜ用務員のおじさんが知っているのか謎ではあるが。
教師の話は面白い。例えば平安時代の歌人が詠った和歌を上司と部下の不倫を嘆く上司妻の視点として解説してみたり、たくさん出てくる源一族もそれぞれがどんなことを成し遂げたのか漫画のキャラクターに例えて話したりする。たまに生徒を歴史上の登場人物に出してみたりもすれば、その生徒に登場人物になりきって考えを聞いてみたりする。
だから珍しいことに、日本史の授業だけは教室の中で行き来する手紙も、机の下でこっそり隠れて使われる携帯電話もたまにしか見られない。面白いから、という理由が大半だが、板書をしないから聞かなければテスト点が酷いことになる、という理由を持つ生徒もいる。
かくいう宮園君も前者の理由でこの教師のファンの一人である。いつもはこっそり机の下に隠し持った鏡で前髪のチェックをするのに、この時間だけはただ熱心に話を聞いている。笑っている。その事実に彼女の胸は、針を刺されたように小さく痛む。
彼は桜の花びらに気づかない。淡い桃色の、小さなハート形の花びらを、彼女はぼんやりと見つめる。
―野口さん?野口さん、答えてみようか。
彼女は教師の声で不意に我に返ると慌てて前を向く。周囲の生徒とばっちり目が合ってしまい、頬を染める。視線がいっせいに集まることはなんでこんなにも居心地が悪いのだろう。それでも彼女は息を吸い込んで顎を上げ、はいと答える。もう一度お願いします、とも付け加えて。
教師は授業を聞いておかないとあとが怖いですよとからかい交じりに笑うと、もう一度質問をする。夏目漱石の著書のある一節をとりあげており、もしあなたが主人公の立場であるならどう伝えるかという、文学の授業をしてましたっけとつっこみたくなるような質問だった。
―あなたの恋心を、想いを、愛情を、物に例えて伝えるならば、何で表しますか?
恋、ですか。小さく呟いて彼女は自分の心が見透かされたのではないかと思った。心臓の音がうるさい。はたまた、思わず考えていたことを口にしていたのかと思わず周囲のクラスメートを再度見渡してしまった。
身体ごとこっちに向けて膝の上で小さくガッツポーズを作って応援する友人の佐奈ちゃん。にやにや笑いながら下手なこと言えば後でからかう気が丸出しの大橋君。そして―。
そして、宮園君。
「さくら」
え、と教師が聞き返す。今度は教師と目を合わせてもう一度、さくらですと答える。色も形も匂いもその存在が春限定というのも全て、「恋」そのものだ。
彼女はその説明をしなかった。そして教師もまた、理由を尋ねなかった。そう、素敵な答えですねと当たり障り無く、それでいて何かを察しているかのように悠然と微笑んだのは、彼女の見間違いではないような気がする。
教師はそのまま彼女の答えから派生して桜に関する歴史を取り上げる。わりといろんな人が桜に絡んだエピソードを持っているらしい。それを流し聞きしつつ、彼女は小さく笑う。口にすることで、なんと軽くなることか。
彼女は再び彼の机に視線を移す。
桜の花びらは、いつの間にかなくなっていた。
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