第8話 襲撃の裏で
「はぁっ……はぁっ……!」
聖職者見習い、フィオラは今必死に逃げていた。
サキュバスに襲われた先輩聖職者たちは見る限り全滅。
サキュバスの淫行によって戦士の鬨ではなく、女の声を上げていた。
「何よ、何よ何よ何よ!」
あれは何だ、何だというのだ。
サキュバスがあんなに賢いわけがない、サキュバスがあんなに強い訳がない、サキュバスがあんなに……恐ろしい訳がない。
本来サキュバスとは頭が悪い上に力も弱く、聖職者がいればすぐに殲滅出来る下級の悪魔。
女性であれば襲われにくいのもあり、フィオラたちは簡単に仕留められる……はずだった。
聖属性の魔法は威力は低いが、当たりさえすれば悪魔たちに有効打を与えられる。
当たりさえすれば。
当たらないのだ。
何発射っても。
回避された。
先輩たちは数発当てていたようだったが、数匹倒れた頃には既に直上にサキュバスたちが飛来していた。
あんなの。
あんなのサキュバスじゃない。
あんなのがサキュバスの筈がない。
「デーモン……いや、もっと上級の……!」
伝聞でしか聞いたことない、魔王が座していた魔大陸に跳梁跋扈していたという者共。
魂を喰らい、血肉を飲み、屍山血河にて嘲笑う、そんな化け物。
その類に決まっている。
でなければサキュバス風情に負ける筈がないのだから。
教会にたどり着き、女神像の裏に飛び込む。
そこにある隠し階段の下、地下の牢獄。
そこに、いる。
透き通るような綺麗な肌。
金色の短い髪。
成長途中の身体は女のカタチ。
表情の読めない顔は今日も俯いている。
傷だらけの腕、脚は、血が滴っている。
「……また……ですか……」
ぽつり、ぽつり、と喋るそれには……白い羽が生えていた。
「血……もっと、血を……!」
聖なる血を。
天使。
精霊にも似た種族の一つ。
小さな白い翼を持ち、少年少女の姿から成長しないという特異な種族。
竜すらも住めないほどの超高層の山脈に住み、時折果実を食べるために下界に降りる。
一度食べると数ヶ月は問題なく生活できるため、下界にて発見されることは極めて稀。
さらに飛べる、という特性から、それを捕獲しようにも難易度が極めて高い。
そう、捕獲。
天使には極めて高い利用価値がある。
羽は万病を治す万能薬に。
髪は煎じて飲めば魔力を回復して。
爪はどんな鎧でも切り裂く剣に。
血には魔を打ち払う聖なる力があると。
そう、人々は信じ込んでいる。
実際はほぼ尾ひれのついた噂であり、正しいのは血液の聖なる力程度。
天使は神の使いであり、人に裁きを与える、などと冗談も甚だしい。
天使はエルフ、ドワーフ、ラミア、マーメイド、あるいは……サキュバス。
それらと同列に並ぶ、人間では無い種族の一つである。
ただ、それだけである。
「みんなが大変なの、いいわよね、血貰うから!」
フィオラがナイフを構え、容赦なく天使の腕に振り下ろす。
「あァァァァァっ……!」
もはや枯れてしまった悲鳴が地下牢獄に響く。
「これで……聖天符をたくさん作れば……!」
聖なる力を持つ天使の血。
それを布に染み込ませ、聖天符を作る。
いつも国民たちに配っているものだ。
これさえあればあの化け物たちを追い払える。
「なんで……なんで……私ばっかり……」
天使は涙も流さず、ただポツリポツリと呟く。
血は今も流れてはいるが、その血色が変わることはない。
人間ならば既に大量出血で気絶、最悪死んでいる頃だ。
天使には高い再生能力がある。
それはナイフで切ろうが、ハンマーで手を潰そうが、火炎放射で焼こうが、数分後には元どおり。
もちろん痛みはあるが、後遺症や感染症なども無く、完全に元に戻る。
再生には魔力が必要なため、魔力が全く0になるまで殺し続けるか、あるいはそれを認識できない程瞬間的に殺す必要がある。
しかし天使は生きているだけで魔力の最大量が増加していくため、前者を行うにはかなりの時間と労力を必要とする。
「これだけあれば……!」
出来た聖天符は10枚程度。
1枚あれば悪魔など恐るるに足らない。
しかし。
こつ、こつ、こつ、こつ。
無機質な石の牢獄に、フィオラと、天使と。
もう1人の気配が鳴る。
「あーあ、最低な現場見ちゃった」
「ッッッ!!」
銀色の髪を揺らしながら歩いてきた、ボロ切れのような服をまとった少女。
そのみすぼらしさすら感じる風体とは裏腹に、その表情や態度、あるいは……奥底にある何か。
それは、ある種の恐怖すら目覚めるほどのもので。
「あなたは……!」
そもそもここまで誰にも見られていなかったはず。
というか、このフィオラには少女には見覚えがあった。
少し前にちょっとよそ見をしていてぶつかってしまった少女だ。
あまりにも綺麗だから記憶に残ってしまっていた。
「あぁ思い出した、君は……そう、フィオラ、フィオラだ」
少女はようやく納得がいった、とわざとらしくにこりと笑い、フィオラと視線を合わせたのち……傷だらけの天使を見た。
「面白いものを見たね」
傷だらけの天使に一切の同情をせずに。
面白い、と切り捨てた。
「……え」
それが、感情の希薄な天使の中でも、日々の拷問でさらに希釈した天使には、あまりにも刺激が強い一言だった。
面白いとはなんだ。
私を助けてはくれないのか。
こいつはそもそもなんなんだ。
しかし、すぐに思考は堕ちていく。
考えるのも億劫だ、死にたい、殺してくれ。
暗い闇のような心の中で少女は私にナイフを向けるのだろう、そう思っていた。
人はいつもそうだ。
私から何を奪っても満足しない。
私から血を奪い羽を奪い指を奪い髪を奪い目を奪い歯を奪い爪を奪い内臓を奪い。
命を奪ってくれない。
「もうどうでもいい……もう……何でも……」
早く、この思考すら奪って欲しい。
そう願うばかり。
「あっそう。なら助けなくていいや」
そんな思考を停止する。
言葉は、どんなナイフよりも酷く鋭かった。
「君が助からないなら助けない。無駄は嫌いなんだ」
言い放った少女の顔は、何処までも冷徹であった。
「もう、なんだかわからないけど、どいて! 人が死にそうなの! いま、上級悪魔が私の先輩たちを」
「上級悪魔? あぁさっきのサキュバスたち? それなら私がやったよ」
フィオラはそれを聞いて、疑問と不信、そして僅かばかりの安堵が湧く。
それが本当ならば先輩たちは助かっているはずだ。
だがこんな年端もいかない、私よりも小さな女の子が。
フィオラの疑いは晴れない。
「ま、どうでもいいんだけど。私はそれに用があるんだ」
少女が見るのは依然として天使。
その視線には落胆はない。
ただ、どこまでも優しくない、暖かくない、人とは圧倒的に乖離した"本物の怪物"の眼だった。
「助かる気は無いんだね?」
目を細めるそれ。
幾度となく潰された喉が。
幾度となく焼かれた肺が。
幾度となく壊された心が。
「たす、けて、くだ、さい」
あぁ、どうして。
存在しない希望に縋ろうとしてしまった。
「オッケー♪」
それはちょっとした頼みごとでも聞くかのようにそれを受け入れたようで。
「な、何言ってるの……何かするつもりじゃ無いわよね!」
フィオラが静止するのすら無視して、それはこっちに歩いてくる。
ぴちゃり、ぴちゃりと天使の血を踏んで。
「っと、ちょっと痛いね。まいっか」
何かを呟いて。
なお、止まらずに。
「じゃあこれから君は自由だ。好きにするといい」
私の首にかけられた鉄首輪に手を伸ばし……
「動かないで!」
光の大弓を構えたそれに止められた。
「それは私たちが捕まえたのよ!」
ギリギリ、と弓が更に引きしぼられる。
このまま射られたらこの人は無事じゃ……
「……
それは。
鉛のように重い。
「私に。何を。命令した?」
ゆっくりと振り返る。
それ。
「ーーーーーーひっ!?」
ずっとにこやかだったそれの。
絶対零度の真顔。
「囀るまでは許してやろう。だが、煩わしいなら……収穫してやろう」
ばさ、と風が舞う。
それは、それから生えた翼から起こったもので。
「サキュバスロード・ブランの名において、貴様の拝謁を許可した覚えはない」
それは、あまりにも重く、冷たく。
「その身体、精魂果て尽きるまで。堕ちていけ」
それの影がゆっくりと広がっていく。
天使の血を塗りつぶし、牢獄を染め上げていく圧倒的な黒。
「ひっ!? う、うごけないっ……!」
フィオラは足を取られ、既に動かない。
「た、たすけ、いや、いやぁっ……!」
影に沈んでいくフィオラは最後、貴婦人のような笑い声と共に消えていった。
「さて」
邪魔者が消え、天使に向き直すそれ。
あまりの光景に、思考も感情もついていけない。
それが一体何だったのか。
自分にとって救いになるのか。
ナイフよりハンマーより、よほど恐ろしいものを見たのではないか。
疑問は尽きなかったが。
「じゃ、あらためて」
にっこりと笑う少女を見て、なんだそれ、などと思ってしまった。
くすり、と笑ってしまった。
「お、それぐらいは出来るのね。さっすがぁ。じゃあ、はい」
少女が鉄首輪に手を添えると。
「《生かさず殺さず《デッドライン》》」
途端に、首輪が軽くなった。
「もう素手で壊せると思うよ。やってみて」
恐る恐る掴んでみた鉄首輪。
確か、無理に外そうとしたら爆発するはずだった。
しかし、そんな兆候はない。
それどころか、鉄が、か弱い少女の手でまるで枯れ木のように砕けていく。
「すご、い……」
天使の驚く顔を尻目に少女は笑う。
「私はブラン。サキュバスやってます」
自己紹介、なんて怪物に似合わないことをしながら。
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