第4話 定食屋
息子の通っていた小学校は公立にも関わらず、クラスの8割が中学受験をするという環境で、それに倣い、僕の家庭の話題は中学受験のことで持ち切りになっていた。
子供は優秀なような優秀でないような中途半端な成績で、それを妻が気に入らないらしく、家庭は勉強、勉強の修羅場と化していた。
すっかりあたりが秋めいて来た10月。
週末に息子の中学受験の学校説明会へ参加するため、男子校の御三家と呼ばれる西日暮里の中学を訪れた。あと数カ月すれば受験ともあって、家の中の雰囲気は殺伐としていた。こうやって外に出る方が僕にとっては楽だった。
想像通り学校説明会は退屈で、先生の話は興味を引くものではなく、来なければ良かったなと反省しながら学校の門を出た。
はっきりいって小学校の子供の親に向かって大学受験がどうのこうの、って今言われても全くピンと来なかった。
受験なんてやめちゃえばいいのに。彼が勉強に取り組む必然性を自分で感じた時に始めれば良いものだと思っていた。
僕は大通りを歩きながら、無心で西日暮里の駅前に向かって歩いた。
時間的におなかがすいてきたので、駅前にあるスポーツクラブNASの並びにあった、カウンターだけの小さな食堂に入った。
カウンターに座って見わたすと、大衆食堂のメニューが書かれた横長の紙がいくつも壁に貼られていた。
煮魚定食、焼き魚定食、カレーライス、からあげ定食、ハンバーグ定食、焼肉定食、、、。
そして麻婆豆腐定食。
店は少し小汚く、既に何十年も営業しているような雰囲気を醸し出していた。
「もうやめるか。ここであえて麻婆豆腐を頼むのは。」
僕は、麻婆豆腐を追うことに飽き始めていて、生姜焼き定食を頼んだ。
その定食の見た目は普通だったが、想像以上にすばらしい味だった。
なんというか、普通の味のものに魔法をかけておいしく替えてしまった、というような。
思えばその感覚は、あの麻婆豆腐を食べた時によく似ていた。
見た目はおいしそうでないのに、食べるとそれを大いに裏切る。
僕は「また来ます」と会計を済ませ、引き上げた。
「まさか、次行ったら店がなくなってるなんてことないよな。」
「まさか、な。」
でも僕は段々と不安になり、結局その翌日、千代田線に乗って、西日暮里までやってきてしまった。
店に入ると、今回は迷わずに麻婆豆腐定食を頼んだ。
平日の昼時だったが、相変わらず店には自分一人しかいなかった。
「はあ。」
店員はやる気なさそうにそのオーダーを受け、10分ほど待つと、お盆に乗った定食がカウンター越しに手渡された。お盆には麻婆豆腐、みそ汁と漬物が乗っていた。
「あっ」と僕は思わず声をあげそうになった。
見た目があの店のものと全く一緒だったのだ。
小さな豆腐、味の薄そうな色合い、漬物の盛り付けの様子。
食べる前に僕は店員の顔をマジマジと見た。
お盆の上があの店と似ていたせいか、店員の顔が、あのやるきのないシェフと重なって見えた。いやいや年齢が違いすぎるか。血縁者?いや、さすがにそれは出来すぎだ。
僕は箸を手に取った。
麻婆豆腐を一口箸ですくった。
「、、、。」
それは僕が夢見ていた味そのものだった。
甘さ、辛さ、旨みがガツンと同じ強さで入ってきて、絶妙に融合していた。しかし、以前のように記憶をなくす程のものではなかった。
店には僕一人しかいなかったのをいいことに、僕は思い切って店員に話しかけた。
「あの、すみません。」
店員はやる気なさそうな顔で洗い物をしていた手を止め、僕の方に顔を上げた。
「山口県のお店でこの味に良く似たものを食べたことがあります。もしかして関係ありますか。」
単刀直入に質問した。
店員は少し間を置いて答えた。
「そうですか。それは関係あるかもしれませんし、関係ないかもしれません。」
「、、、。というと?」
「私は山口県出身ですが、その山口の店のことはわかりません。」
と下を向いてしまった。
「、、、。関係あるかもしれないとは。」
「私の作っているものは母の味の再現なのです。ですから母から習ったものや、母の料理を真似る人が山口にいたとしても不思議ではないかと思います。」
「いや、それにしても良く似ていた。」
僕はつぶやくように店員に話しかけた。
「あの麻婆豆腐を食べてから記憶をなくすくらいに感動して、ホテルにどうやって自分が戻ったのかも覚えていないのです。」
「そうですか。それはあぶなかったですね。」
店員はかなり端おって話した内容をすべて理解してくれているようだった。
「えっ、あぶないとは?」
「いや、、、なんでもありません。ただ記憶をなくすくらいに食べ物で感動するとは聞いたことがなかったものですから、あぶなかったな、と思っただけです。」
歯切れの悪い回答だった。
この上なくうまい麻婆豆腐には、何か秘密があるっていうことなんだろうか。
それから店員はすっかり黙り込んでしまったので、僕はそれ以上話しかけることもなく、会計を済ませて店を出た。
いずれにしても僕はもう一度あの味に出会うことができたという喜びで、ほろ酔い気分になっていた。
以前のように、もう店がわからなくなってしまう、もしくは無くなってしまうなんてことがないように近くまた顔を出そうと考えていた。
僕は毎週のように、その店を訪れるようになった。
ただ麻婆豆腐をオーダーして食べるだけで、それからは店員と話をすることはなかった。
店員ももう僕とは話す気はないようだった。
話はしなかったものの、顔を合わせる機会が増えたせいかお互いに気心がしれた気分になっていたようではあった。
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